第47話 熟れない果実
読みかけの本を、ぱたりと音を立てて閉じる。他の考え事が頭の中でちらついて、どうも話が入ってこないのだ。
瑠都は僅かな動作で窓の外に視線を移した。日の光が辺りの木々を照らしていて、軽やかに鳴く鳥の
朝からずっと、瑠都の頭を占めているもの。拭っても拭っても消えてくれない一つの疑念。それは先日のノムーセの誕生会で起こった、自身のとある変化に関することだった。
ノムーセの館のテラスでダンに会う直前、ぐらりと視界が揺れたこと。
ああいうふうになるのは初めてではない。この世界に来てから、何度か体験している。体が急にだるくなって、自由が効かなくなる。瑠都にはその原因として一つ、思い当たることがあった。
(もしかして、魔力が足りない……?)
瑠都がリメルテーゼを送る代わりに、リメルフィリゼアから送られてくる魔力。それがなければ、リメルである瑠都は生きていけないという。
しかし、生きるために必要な魔力を得るには、手を握るだけで充分事足りていたはずなのだ。瑠都もリメルフィリゼアたちもそう理解しているからこそ、今まで怠ったことはない。魔力が足りないなんてそんなこと、あるはずがないのだ。
瑠都の脳裏にふと、いつかのマリーの言葉が
『時々、その方法だけでは充分に魔力を受け取れないリメルがいるの。それは、強いリメルテーゼを持ったリメルよ』
強いリメルテーゼを持つリメルには、それに釣り合うだけの魔力が必要になる。手を繋ぐだけでは少しの魔力しか得ることができず、充分な魔力で満たされるためにはもっと別の、深い愛の伝え方が必要なのだと。
瑠都の顔色が、さっと青ざめる。咄嗟に口元を押さえた手が、ひどく冷たかった。
深い愛の、伝え方。マリーから教えられたその方法とは、口付けを交わすことだった。
手を繋いで行う魔力の交換を怠ったことはない。それでも時折起きるふらつきと、意識が遠のいていく暗い感覚。もし、本当に魔力が足りないのだとしたら。
「どう、しよう……」
知らずこぼしていた言葉が、重く瑠都に伸(の)し掛かる。ベッドの上でごろごろと寝返りを打っていたルビーが、ぴたりと動きを止めて不思議そうに瑠都を見ている。
例え本当に、魔力が足りないのだとして。違う伝え方でないと、生きるために必要な魔力を得られないのだとして。
リメルフィリゼアに頼むことなど、できようか。
気のせいであってほしい。自分の思い過ごしであってほしい。そう何度も願って、瑠都はぎゅっと唇を噛んだ。
しばらくして、瑠都は重い足取りのまま部屋を出た。このまま籠もっていても、良からぬ考えばかりがぐるぐると巡るだけだからだ。いつの間にか眠ってしまっていたルビーと、これまたいつの間にかルビーが抱き締めていたエメラルドを置いて、当てもなく一人歩き出す。
ミローネやフーニャは今どこにいるのだろうと思いながら階段を降りていく。一階に降りようとした所で、ちょうど学校から帰ってきたメイスと出くわした。
「メイス、おかえり」
踊り場から声を掛けられたメイスは驚いたように顔を上げたが、瑠都の姿を見つけると表情を緩めた。
「ただいま」
階段から降りてくる瑠都をその場で待つメイスが、首を傾げながら尋ねる。
「どこか出掛けるの?」
「ううん、なんとなく歩いてただけ」
目の前までやってきた瑠都に、そっか、と返してメイスは笑った。
「ルビーは一緒じゃないんだね」
「エメラルドを抱っこしたまま寝ちゃったの」
エルスツナからもらった、緑色の目をした白いクマのぬいぐるみ。自分よりも小さなぬいぐるみを、ルビーは大層気に入っていた。
ルビーのようになるかもしれないと、リメルテーゼの価値と利用方法を探るために瑠都の側に置かれたエメラルドだが、未だ動き出す気配すらない。
動き出す前のルビーと同じように扱っているつもりなのに、何かが違っているのだろうか。
まだなのかとエルスツナに問われる度に突き刺さる視線が痛くて、まるで瑠都自身が悪いことでもしているかのような気分になってしまう。
「もっと一緒にいる時間を増やしたほうがいいのかな……」
ぽつりと呟いてから、瑠都はメイスに言葉を向ける。
「明日のお茶会には、ルビーもエメラルドも連れていこうかなと思ってるんだ」
「お茶会?」
「うん」
動き出す前のルビーをマリーとのお茶会に連れていったことはないが、物は試しだ。やってみる価値はあるかもしれない。
力強く頷いた瑠都とは対照的に、メイスは不思議そうな顔をしている。
「明日、お茶会があるの?」
「うん……あれ?」
初耳とでも言わんばかりに尋ねたメイスと同じように瑠都も首を傾げる。しばしの間を置いて、瑠都は自分の犯した
「私……もしかして言ってなかった?」
「うん、今初めて聞いた」
「ごめん!」
慌てた瑠都が、申し訳なさそうに謝った。どうしようと頭を抱える。
「ほんとにごめんね……。学校が休みだって言ってたから、つい、一緒に行ってくれるんだって勝手に思い込んで……マリーにもそう伝えちゃった」
悲しそうに声を落とす。するとなぜかメイスまで慌て出した。
「き、気にしないでルト。どうせ用事だってないし、一緒に行くよ」
「……大丈夫? 無理、してない?」
「うん、全然! 暇だからどうしようかと思ってたんだ」
「ありがとう……」
ほっとしたように、嬉しいのだということを隠そうともせずに笑った瑠都の顔を直視できなくて、メイスは視線を逸らした。
メイスだって、嬉しかったのだ。
一緒にいることが当たり前だと思ってくれているような、些細な間違いが。瑠都の中にはメイスがいる。それが妙に、照れくさかった。
「鞄、置いてくるね」
平然を装って踵を返そうとする。
熱を持つ顔が赤くなってたら、どうしよう。そんな心配事のせいで、未だ瑠都のほうを見られないまま。
その時、二人の元に執事のサフがやってきた。サフは二人の姿を捉えると目尻を下げた。
「おや、おかえりなさいませメイス様。ちょうどようございました」
メイスを探していたという口振りのサフは早足で二人に近付くと、訳を説明し始める。
「たった今、城から連絡があったのです。なんでも、メイス様のお知り合いだという方がいらっしゃっているとか」
「僕の、ですか」
「ええ、アンナという名のお若い女性のようです」
サフから名前を聞いたメイスは納得したように、ああアンナかと頷きながら、どうしたんだろうかと疑問を口にする。
「こちらにお招きしてもよろしいでしょうか」
「はい、ありがとうございます」
「では城に連絡いたします。居間でお待ちください」
一礼をしてから、サフはまたもや早足で去っていく。その背中が消えてから、メイスは瑠都に向き直った。
「アンナは幼なじみなんだ。僕たちより一つ年下で、妹みたいな存在でさ」
「そうなんだね」
「うん。あ、紹介したいからルトも居間にいてくれる?」
「いいの?」
「もちろん! じゃあ、今度こそ鞄置いてくるね」
そう言い残して、メイスは勢いよく階段を駆け上がっていった。
肩の上で髪を切り揃えた幼い顔立ちの少女に、上から下までじっくりと何度も見つめられて、瑠都は閉口する。頼りなさげに佇む瑠都を捉えたまま、少女、アンナは目を細めた。
「あなたがリメル?」
「え、あ、はい……」
「ふぅーん」
顎をくいっとあげたアンナとは身長もさほど変わらないはずなのに、見下されている気がするのはなぜだろう。いたたまれなくなって固まる瑠都の前に、メイスが立つ。
「失礼だろ、アンナ」
「ふん」
メイスに注意されたアンナは頬を膨らませてそっぽを向く。サフに見守られる三人の間に流れた、気まずい雰囲気。
(なんだろう、これ……)
重たい空気の中で、瑠都は黙ったまま考える。
「若さですなあ」
三人を見つめながら、サフがしみじみと呟いた。
アンナは拗ねた表情のまま、手に持っていた物をメイスに差し出した。
「これ、持ってきてあげたの」
アンナが差し出したのは、布に包まれた大きな箱のようなものだった。メイスに聞かれる前に、手渡しながらそれが何か説明する。
「アップルパイよ。うちのアップルパイ、好きでしょ。そろそろ食べたくなってる頃かと思って、わざわざ作ってきてあげたんだから」
「アップルパイ?」
箱の中身が何かを知ったメイスは、目を輝かせる。どうやら本当に好物らしい。
「嬉しい、ありがとう! アンナが一人で作ったの?」
「お母さんと一緒にだけど……」
「そっか。おばさんにもありがとうって伝えておいて」
笑顔のままでそう言ったメイスの喜びようを受けて、アンナも嬉しそうに頷く。年相応の明るい表情を見せたのは初めてだったが、それもすぐに消えた。
「じゃあ、用はこれだけだから」
「え、もう帰るの? 少しゆっくりしていけばいいのに」
「いい、渡しにきただけだから」
アンナはメイスの後ろにいる瑠都にちらりと視線をやって、またそっぽを向く。
「……メイス、たまにはこっちにも帰ってきてよね。うちの弟たちも会いたがってるし。メイスだって、ずっとここにいたら疲れるでしょ」
幼い頃より近い場所で育ってきたからこそ、アンナは確信めいてそう言った。メイスのことは、誰よりも知っている。メイスには似合わない、こんな場所も、こんな立場も。
「……じゃあね」
視線は逸らしたままで、アンナは居間から出ていく。メイスとサフは見送りのためにあとを追ったが、瑠都は続かなかった。瑠都がいると、メイスとアンナがまともに会話できないのではないかと思ったのだ。
アンナが来てから一歩も動けていなかったことに気が付いて、思わず苦笑を漏らす。固まった体を解すようにゆっくりとソファーに腰掛けた。
玄関のほうから話し声が聞こえる。内容までは分からないが、居間にいた時よりも会話が弾んでいるのは確かだ。
わざわざメイスの好物のアップルパイを作って、ここまで届けにきてくれた幼なじみ。瑠都に対する態度を見れば、いい印象を抱かれていないことは明らかだった。
(アンナさんはきっと、メイスのこと……)
沈みそうになる気持ちを振り払うように、瑠都は自身の頬を両手で軽く叩いた。
「暗いことばっかり、考えてちゃだめ」
誰もいない居間で、自分を叱咤する。じんわりとした僅かな痛みが、頬から伝わる。
話し声がやんで、こちらに近付いてくる気配がする。慌てて両手を下ろすと、予想通りメイスとサフが再び居間に入ってきた。
「お待たせ」
「ううん」
笑顔のままのメイスに、同じように笑ってみせる。
「みんなが帰ってきたら一緒に食べようね。アンナの家のアップルパイはすごく美味しいんだよ」
食べても、いいのだろうか。頷いていいのか分からなくて黙ったままの瑠都に、メイスが気付くことはなかった。
「では私がお預かりしておきましょう」
「ありがとうございます。サフさんたちも、一緒に食べましょうね」
「おや、よろしいのですか」
緩やかな雰囲気を漂わせながら話す二人。いくらか言葉を交わしてから、サフはアップルパイを持って退室した。
メイスが、ソファーに座ったままの瑠都を振り返った。
「みんなが帰ってくるまで、どうしてようか」
「うーん」
元々行く当てもなく歩いていた瑠都は、メイスと一緒に悩み始める。一拍おいて、メイスがぴんと人差し指を立てた。
「じゃあ、少し外を散歩しよう。今日はすごくいい天気なんだよ」
側に立ったメイスが、自然に右手を差し出した。何度触れたか分からない優しい手のひらを、じっと見つめる。
そっと重ねれば伝わる力強さが、瑠都の胸を締め付けた。その温かさを知る度に、何かが身の内から囁くのだ。
これ以上何を、求められるのかと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます