第44話 白き光の刹那

 

 

「何を……」


 目の前にいる男が吐き捨てた言葉に、頭が付いていかない。困惑する瑠都の体に影を落とすダンが、瑠都の反応を見て意外そうに目を丸くした。


「ご存じなかったか」


 見下すような笑みを張り付けて、ダンが言った。ジャグマリアスのこと、ダンが知っていて、瑠都が知らないこと。言葉を失ったままの瑠都に、ダンは更に身を寄せた。壁に押し付けた手に込められた力が強くなって、瑠都は息を詰める。


「己のことを隠してリメルフィリゼアとして収まるなど、あやつは信用ならぬ。あざとい男ですな、そうは思いませんか」


 ダンは囁くような声を落とし続ける。


「そのような者を隣に置いておけば、あなたの価値も下がってしまいますぞ。あなたは名誉の回復のために利用されているに過ぎない」


「利用……」


 瑠都の瞳が揺れるのを見て、ダンが顔を近付けた。至近距離に迫った男の顔は、ジャグマリアスに対する対抗心と妬みで歪んでいる。


「ご存じでないなら、教えて差し上げましょう。ジャグマリアスは昔……」


「やめてください」


 震えながら、それでも瑠都は懸命に声を絞り出した。笑みを消したダンの瞳が、暗く陰った。


「何も、聞きたくありません……」


 ジャグマリアスに何があったのか、瑠都は知らない。だが目の前で暗い炎を燃やすダンからは、教えてもらいたくなかった。それは、些細な意地だったのかもしれない。


 拒否を示した瑠都に、ダンは不満げに表情を硬くしたが、すぐに調子を取り戻したようだった。今、リメルは手の内にある。幼い花を手折るのは簡単だとでも言いたげに、余裕を見せていた。


「まだ知りたくないと言うのなら、それでも構いませんが。夢を見ていられるのもあと少し、ということですな」


 ジャグマリアスと瑠都がノムーセの元へ挨拶に行った時、ノムーセはジャグマリアスと息子のダンを比べていた。もしかしたらダンは、ああやっていつもジャグマリアスと比較されてきたのだろうか。同じく名門生まれの貴族、その子息として。だからどうしても、相手の上に立とうと躍起になる。


「いずれにしろ、ジャグマリアスはリメルフィリゼアとしても、あなたの夫としても相応しくない」


 それは紛れもない事実であり、いつかあなたも思い知ることになるだろうと。間近で落とされる予言めいた言葉に、瑠都は唇を結んだ。


 ジャグマリアスはいつだって、完璧だ。そう相手に思わせる圧倒的な空気を纏った人だった。非の打ち所がなくて、どこまでも洗練されていて。今日も、支えるように何度も背中に触れて、瑠都のために側にいてくれようとした。

 知らないことは、たくさんある。でも優しいジャグマリアスの姿なら、少しくらいは知っている。


「……逆、です」


 懸命に紡いだ瑠都の言葉を、ダンは黙って聞いていた。


「いつだって……相応しくないのは私のほうです」


 完璧なジャグマリアスにも、他のリメルフィリゼアにも。この世界に突然やってきて、彼らの意思も想いも無視して胸に花の欠片を咲かせた。隣にいるべきではないのは、本当は瑠都のほうなのだ。


 ダンは目を見開いた。驚きからか、微かに手の力が緩む。だが、それも一瞬のことだった。


戯言たわごとを……!」


 吠えたダンが、激情のままもう片方の手も瑠都に伸ばした。咄嗟に目を瞑った瑠都は、横から押し寄せる空気の波を感じて短く息を吐いた。


(風っ?)


 目を開いて確かめる間もなく、瑠都とダンの間に一陣の風が吹き込んだかと思えば、ダンの体が勢いよく飛ばされて、反対側の壁へと激しい音を立ててぶつかった。呻いて崩れ落ちたダンを呆然と見つめる瑠都も、気が抜けてその場に座り込む。


 館の中、この廊下には窓もない。それなのになぜ、人の体を飛ばすくらいの強い風が吹き込んだのか。

 こつりと、足音が近付いてくる。音がしたほうを見やると、そこには眩い金色を携えた男が立っていた。


「ジャグ、マリアスさん……」


 思わず声が漏れた。一気に押し寄せた安堵感に、鼻の奥がつんとする。ジャグマリアスはすぐに瑠都の元へ辿り着いた。


「立てますか」


 落ち着き払った様子のジャグマリアスだったが、その表情には些かの怒りが滲んでいた。それに気付かないまま、あの風はジャグマリアスが起こしたのだろうかと不思議に思いながら、瑠都は差し出されたジャグマリアスの手を借りて立ち上がる。


 力強い手から伝わる、覚えのある温かさ。


(助けに、来てくれたんだ……)


 今日は黒い燕尾服のはずのジャグマリアスが、いつもと同じ誇り高き白を纏っているような錯覚すら覚える。胸いっぱいに広がる、震えるほどの切なさと、熱いくらいの目映さ。


「怪我はありませんか」


「は、はい」


 頷いた瑠都だったが、ジャグマリアスはその左手に目を留めて、ひっそりと眉を顰めた。ダンに強く握られていた瑠都の左手首には、痣ができてしまっていた。


「ジャグマリアスっ」


 不意に聞こえた声は、飛ばされたはずのダンが発したものだった。よろめきながら立ち上がり、恨めしそうにジャグマリアスを射抜く。


「リメルテーゼを得て強力になった魔法を使ったか、卑怯な。お前はいつも自分の力で私の上に立っているかのような顔をする」


 ジャグマリアスは長い廊下の先に、ダンと抑えつけられた瑠都の姿を見つけて、風の魔法を使っていた。咎めるように語気を荒げたダンに、ジャグマリアスは冷静に言葉を返す。


「ダン殿、ご自分が何をしたか分かっておられるのか」


 瑠都を連れ出し、傷付けたこと。事の大きさは分かっているであろうに、ダンは聞く耳を持たなかった。忍ばせていた短剣を取り出し鞘を投げ捨てると、躊躇わずにジャグマリアスへと向けた。瑠都を背中に隠したジャグマリアスと、ダンの距離がじりじりと狭まる。


「そこを退けジャグマリアス。そこは、私が立つべき場所だ!」


 ダンは勢いを付けて踏み込むと、切っ先をジャグマリアスの顔に向かって振り上げた。僅かな動作で避けたジャグマリアスはそのまま右にずれて、体勢を立て直したダンを正面から迎え撃つ。

 間髪を入れずに繰り出された凶器をまたも容易く避けると、今度は短剣を握ったダンの手首を捉え、足を払った。床に打ち付けた衝撃で緩んだ手から短剣を奪い、体勢を立て直そうと膝を突いたダンの鼻先に向けた。


 息を荒げて、目の前に迫った切っ先とジャグマリアスを見上げる。ダンは悔しそうに顔を歪めた。一つも乱さずに冷たい眼差しで見下ろすジャグマリアスに、まるでかしずいているかのような姿勢。ダンの自尊心が許すはずもなかったが、短剣を取られた今、下手に動くこともできない。


「私の記憶が正しければ」


 口元を手で押さえた瑠都が事の成り行きを見守る中、ジャグマリアスはこの場に似つかわしくない静かな口調で言葉を紡ぐ。


「魔法を使わなくとも、あなたに負けたことなど一度もなかったはずですが」


 だが、その落ち着いた口調とは裏腹に、深い青の目にはやはり隠しきれない怒りが滲んでいる。背を向けた瑠都には悟らせず、屈したダンにだけ見せた凍えるような眼差し。


「お前のっ、そういうところが気に入らないのだ、ジャグマリアス……!」


 いっそ悲痛にすら思えるような声を上げたダンだったが、ジャグマリアスは何も答えず、顔を横に向けた。


「きゃっ」


 ジャグマリアスが見やった先には、バラッドレ家の使用人がいた。瑠都がダンに連れられて館の中に戻った時にも出会った、女の使用人だった。使用人は短剣を向けられている主の姿を見て、短く悲鳴を上げた。


 ジャグマリアスと瑠都の視線が自身から逸れたことを確認して、ダンが立ち上がる。そしてそのまま、逃げるように早足に去っていった。


 横を通り過ぎたダンとジャグマリアスとを、困惑しきった表情で見比べる使用人や、慌てる瑠都とは違って、ジャグマリアスは何事もなかったかのように鞘を拾い上げ短剣を収めた。

 ダンがこの場から逃げ出すことは、予想の範囲内だったのだろう。


「これは、いったい」


 やっとのこと状況を飲み込んだ使用人が尋ねる。


「ダン殿が、リメルである我が妻に狼藉を働いたのだ」


「そんな、」


 使用人の顔がさっと青ざめる。ジャグマリアスはそんな使用人に近付くと、短剣を手渡した。


「早くしないと館から出てしまうぞ。ノムーセ様の元に行き指示を仰げ。その短剣にはノムーセ様も見覚えがあるだろう、証拠として持っていくがよい」


「は、はい!」


 使用人は短剣を両手で握り締めると、二人に一礼をして駆けていった。その場には、ジャグマリアスと瑠都だけが残された。


「あの……ありがとうございます」


 緊張感から解き放たれて、瑠都はジャグマリアスに礼を述べた。だが向き直ったジャグマリアスは、珍しく言葉を探すような仕草を見せた。


 どうしたんだろうかと思いながら、降り積もる沈黙に耐えられなくなって、瑠都は続ける。


「ジャグマリアスさんは、どうしてここに?」


 ジャグマリアスはマスバルトと共に、ノムーセを囲む輪に加わっていた。瑠都たちがいたテラスとは距離があったし、ダンの行いに気付くことなど不可能だった。


「サーシャさんが、血相を変えて駆けてきたのです。もちろんその場で訳を話すようなことはしませんでしたが、私もマスバルトもあなたの身に何かあったのだとすぐに察しました」


「サーシャさんが……」


 あの場で立ち尽くしていたサーシャは、自分だけではどうすることもできないと考えて、ジャグマリアスを呼びにいってくれたのだ。輪の中に飛び込むのに、どれほどの勇気が要ったのだろう。

 ジャグマリアスだって、訳も話さずノムーセの元から離れることは、決して容易なことではなかったはずだ。


「……ごめんなさい」


 小さく口にした瑠都だったが、ジャグマリアスはかぶりを振った。


「どうしてあなたが謝るのですか」


 ジャグマリアスは瑠都の左手を取ると、そっと胸の位置まで持ち上げた。その目線の先を追って初めて、瑠都は自身の手首に消えない跡が残っていることを知った。その瞬間ダンに握られた時の痛みが甦って、じんと疼く。


「謝らねばならないのは、私のほうです。側を離れるべきではなかった」


 持ち上げたまま、親指で痣をなぞる。ジャグマリアスの端正な顔には、明らかな後悔の色が浮かんでいた。


「お守りできなかった――」


 ジャグマリアスが見せた反応に、瑠都は少なからず驚いた。ダンが瑠都を連れ出した訳も、鋭い切っ先が誰に向けられていたのかも、ジャグマリアスはすべて知っているのだろう。だからこそ自分を責めている。


「……待っていると言ったのは私です。待てずに離れてしまったのも、私です」


 動揺からか、しっかりと話が纏まらない内に話し始めてしまった。それでも今だけは逸らしてはいけない気がして、瑠都を映す青をまっすぐに見つめ返した。


「怖くて、不安だったけど……でも、ジャグマリアスさんが来てくれたから、もう、大丈夫です」


 ジャグマリアスが自分を責める必要なんてないのだと、分かってほしかった。

 颯爽とジャグマリアスが現れた時、どれほど安堵したことか。胸に広がった得も言われぬ感情のことも、どうすればうまく伝えられるのだろう。いっそのこと見透かしてくれたらいいのにと、初めてそう願った。





 ジャグマリアスと瑠都の元には、すぐに別の使用人がやってきた。客間に案内されて、二人並んでソファーに座る。しばらく待っていると、慌てた様子のノムーセと妻が入ってきた。ダンの姿はなく、今は別室で兄と話していると教えられた。


「なんと、お詫びしたらよいのか」


 ダンが狼藉を働いた相手は、本来ならば敬うべきリメル。リメルフィリゼアにしてほしいと頼まれた、とだけ話した瑠都に対し、ノムーセはひたすら謝罪の言葉を口にしていた。使用人が持ってきた短剣と、瑠都の手首に残った痣を見たからか、証言を疑うことはない。


 だが、ただ頭を下げるだけではなかった。名門バラッドレ家の当主、ノムーセには守らなくてはいけないものがある。それはダンによって傷付けられた、家の名を守ること。


「ダンの犯した罪がどれほどのものか、事の重大さは充分理解しております。ですが、恥を忍んでお願いしたい……どうかこのこと、口外だけはしないでいただきたいのです」


 ダンが不躾にもリメルに手を出したと知れれば、バラッドレ家の地位が大きく揺らぐ。代々築き上げてきた名誉も信用も、一気に失いかねない。

 一人の行いのために、一つの家が崩壊していく恐怖。ノムーセに必死に頼まれれば、瑠都は了承する他なかった。

 今度は何度も礼を繰り返すノムーセの隣で、黙ったまま顔色を青くしていた彼の妻が、安堵したのか細く息を吐いた。


 誰かが、客間の扉を叩いた。失礼いたします、と言いながら入室してきた使用人はすぐにノムーセの側に寄る。


「何かあったのではないかと、皆様が騒がれております」


 自身の誕生会、輪の中心にいたノムーセは知らせを受けてその場を離れた。もちろんその時は一切慌てず、何かと理由を付けてきたのだが、バラッドレ家の者が一向に戻らないことを、皆心配し始めていた。


「一度戻られたほうがよいのでは」


 ジャグマリアスの提案に、ノムーセは頷く。


「そうだな、そうさせていただこう」


 ノムーセに続いて立ち上がった妻がじっと瑠都を見つめたかと思うと、やっと口を開いた。


「何か、その……隠せる物をお持ちしますわ」


 なんのことかと首を傾げた瑠都だったが、痣のことを指しているのだと理解して、反射的に右手でそれを覆った。


 このまま大広間に戻れば、痣に気付く者もいるだろう。そこから何か探られたなら、ダンのことが公になってしまう。


「いえ、必要ありません」


 ノムーセの妻の申し出を、ジャグマリアスは断った。


「もう失礼させていただこうかと思っております」


 瑠都さんも疲れていらっしゃるでしょうから、と続けたジャグマリアスだったが、バラッドレ夫妻はまた慌てた様子を見せた。


「しかし、ルト様もダンも突然いなくなったとあれば、勘付く者もおるやもしれぬ。できれば、残っていただきたいのですが……」


 最後の言葉は瑠都に向けられていた。少し迷った瑠都だったが、やがて小さく口を開く。


「……分かりました、残ります」


「ああ、ありがとうございます。急いで何かお持ちしますので」


 ノムーセと妻は、そのまま使用人を連れて出ていった。客間には、また二人が残される。


「ルトさん、無理なさらなくてもいいのですよ」


 ジャグマリアスが、静かな声色で案じてくれた。

 疲れていないと言えば、嘘になる。帰りたいかと問われたなら、本当はすぐにでも頷きたい。でも、それでも。


「……大丈夫です。ありがとうございます」


 瑠都は短くそう言っただけだったが、ジャグマリアスには先程の言葉と重なって聞こえた。


――ジャグマリアスさんが来てくれたから、もう、大丈夫です。


 そっと目を伏せたジャグマリアスに、瑠都が気付くことはなかった。


「ジャグマリアスさん」


 今度は瑠都が名を呼んだ。


「家の名と、築き上げてきた名誉って、それほど大切なものですか」


 それは純粋な問いだった。リメル相手とはいえ、自分の半分も生きていない娘に躊躇わず頭を下げたノムーセが、どうしても守りたかったもの。


「……はい。この命に代えても、守らなくてはいけないものです」


 一人の行いのために、一つの家が崩壊していく。それを誰より重く受け止めていたのは、もしかしたらジャグマリアスだったのかもしれない。



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