第43話 妬心の刃

 

 

「ダン様……」


 サーシャがぽつりとこぼした名前が、静かなバルコニーに重く響いた。ノムーセの次男であるダンが、パーティーの喧噪から離れてなぜこんな所にいるのだろうか。眉間の皺を深くしたままサーシャを一瞥して、ダンは寄り添っていた二人に近付いてきた。


「リメル様、体調が優れないのなら休まれるがよい。部屋まで私が案内しましょう」


 ダンは硬い表情を一切変えることなく、瑠都だけを見つめている。なぜか得体の知れない怖さが背中を這うのを感じて、瑠都は息を呑んだ。


「ありがとうございます……。でも、少し眩暈がしただけで、もうなんともないんです。それに、もうジャグマリアスさんたちが戻ってくると思うので、ここを離れるわけには……」


 ダンから放たれる威圧感に圧されて瑠都の声が段々と力を失っていく。そんな瑠都に代わって、今度はサーシャが話し出した。


「今、中に戻ってお食事をいただこうかと思っていたところなのです。ルト様も大丈夫だとおっしゃっていますし、私が離れずお側におります。もし少しでも体調が優れないご様子でしたら、すぐに近くの者に申しますので……それでよろしいでしょうか」


 先程は休んでいたほうがいいと言っていたサーシャだったが、瑠都の意を汲んでダンの申し出を断ってくれた。

 けれど、ダンは何も答えない。サーシャの声は聞こえていたはずなのに、相変わらず瑠都を見下ろしたままで、サーシャのほうを見向きもしない。


「リメル様」


 低い声が落ちてくる。


「今は問題なくとも、またご気分でも悪くなったらどうするのです。広間の中であなたが倒れでもしたら、皆楽しむどころではなくなる。パーティーを潰す気ですか」


 責めるような強い口調で言われて、瑠都は返す言葉を見つけらなかった。


 確かに瑠都が倒れてしまったら、大騒ぎになってしまうだろう。せっかくのノムーセの誕生日パーティーを台無しにしてしまうかもしれない。だがサーシャやダンに言った通り、本当にもう体はなんともないのだ。あの時濁った視界も、今は揺れることすらない。


 どうしてダンは、これほどまでに頑ななのだろう。ただ純粋に瑠都のことを心配しているようには見えなかった。瑠都にここにいられては困るのだろうか。それとも、連れ出したい何かがあるのか。


 失礼だとは分かっていたが、瑠都はどうしても掠めた怖さを拭えずにいた。早く大広間に戻ろうと促すため、サーシャに触れようとする。しかし、伸ばしかけた左手がサーシャに届くことはなかった。瑠都の手首を、ダンが握ったからだ。


 あまりの冷たさと力強さに瑠都は驚いてダンを見上げた。ぎり、と音が聞こえてきそうなくらい力が込められて、思わず顔をしかめた。外そうと咄嗟とっさにダンの手に触れたが、びくともしない。


「あの、離してください……」


「参りましょう」


「え、あっ」


 ダンは有無を言わさずに、瑠都の手を引いて踵を返した。足がもつれて転げそうになる瑠都に構うこともない。


「お待ちくださいっ」


 瑠都と同じように驚いて固まっていたサーシャが、我に返って声を上げた。早足に去ろうとするダンの跡を追うため、一歩踏み出す。


 後ろから声を掛けられたダンが足を止めて振り返った。初めてまっすぐにサーシャを捉えた瞳は、どこまでも冷えきっている。


「あなたはこんな所でリメル様と親交を深めるより、広間に戻って令嬢方の輪に加わったほうがよいのでは? まあ、受け入れてもらえればの話だが」


 嘲笑うような口調で言い捨てて、ダンは再び瑠都の手を引いた。

 大広間の中は通らずに、テラスから降りて庭園に出ようとする。家の者しか知らないような道を通って、館の中に戻るつもりなのだろう。


「あなたはもっと自分の立場というものを自覚するべきだ」


 瑠都に背中を見せたまま、ダンが言った。


「え?」


「付き合う者は選ぶべきだと言っているのです。あの女には関わらないほうがいい」


 サーシャに対するあまりの物言いに、瑠都は驚いた。


(どうして、そんなこと……)


 振り返ると、サーシャは胸の前で手を握って立ち尽くしていた。今にも泣き出してしまいそうな、そんな顔をして。


「サーシャさんっ」


 たまらずに名前を呼んだ。潤んだサーシャの瞳が揺れる。見つめ合った二人の距離は、ダンによって段々と離されていく。再び伸ばした手が届くことは、やはりなかった。





 瑠都を連れたダンは、庭園の横を通って館の中に戻った。思いがけない所から主が入ってきたことが不思議だったのか、出くわした使用人の女が首を傾げる。


「リメル様はご気分が優れないらしい。二階の客間を使う、誰も寄せるな」


「は、はい」


 頷いた使用人をその場に残して、ダンは迷わず進んでいく。ここに来るまでの間、瑠都はダンに待ってください、離してくださいと何度も頼んだが、聞き入れてもらえなかった。ならばと使用人に声を掛けようとするが、そんな間すら瑠都には与えられなかった。手首を握る力が、より一層強くなる。


 黙ったままのダンの背中を見上げながら、瑠都は先程投げられた言葉の意味を、ずっと考えていた。


――あの女には関わらないほうがいい。


 サーシャの傷付いた表情が、今も頭から離れない。あんな顔をしたサーシャを、一人置いてきてしまった。


「あの……サーシャさんのこと、どうして……」


 歯切れ悪く尋ねた瑠都に対し、ダンは躊躇わずに答えた。


「あの女はマスバルトをたぶらかし、昔からの婚約を破棄させてまでアタワ家の嫁として収まったのです」


「たぶら、かす」


「相手の令嬢が、親が決めた縁談だから破棄しても構わないとあっさり許したことで大事にはいたらなかったが、未だあの女をよく思わない者も多い」


 ダンが言っていることは、まるきりの嘘ではないのだろう。だからサーシャは言葉をなくして、悲しそうに佇んだ。


「下等な家の出でありながら身分をわきまえず、誇り高き貴族の均衡を壊した下品な女。マスバルトは優秀な男だと思っていたが、まさかあんな女に騙されるとは。所詮はたいしたことのない、愚かな男だったのです」


 ダンが教える二人の関係と、瑠都が実際に見た二人の印象は、あまりにもかけ離れていた。


 瑠都が目にしたマスバルトとサーシャは、見ているこちらが恥ずかしくなるくらい仲睦まじかった。どちらかがたぶらかしただとか、どちらかが愚かにも騙されただとか、そんないびつさなど、一欠片だって見付けられなかった。

 二人は確かに想い合っていて、目を細めたくなるほど眩しかったのだ。


 過去の真実も、貴族の決まりも、瑠都は知らない。けれど二人を愚弄するようなダンの言い方が、どうしても許せなかった。


「離してください」


 何度も繰り返した言葉。明確な意思を持って放たれた言葉には、幾分か力が入っていた。手首を掴むダンの手に、もう片方の手で触れる。力の差があるせいでびくともしなかったが、それでも懸命に離そうとする。


 ダンが突然立ち止まり、やっと瑠都の手を解放した。強く握られていた手が、熱を持ったようにじんと痺れている。


 振り返ったダン以外、周りに人はいない。明かりの灯った広い廊下の空気はぞっとするくらい冷たくて、急く気持ちを抑えるために小さく息を吐く。


「……戻ります」


 そう告げて早々に去ろうとする瑠都を、ダンは難しい顔をしたままで見下ろしている。


「戻って、またジャグマリアスの隣に並ぶのですか」


 目を見開いた瑠都に、ダンは一歩近付いた。無意識に一歩下がった瑠都を咎めるように、唇を結ぶ。


 ジャグマリアスの隣に並ぶことすら気に食わないというような、ダンの態度が気になった。鋭い切っ先はサーシャだけではなく、ジャグマリアスにも向けられているのだ。


「……リメル様、実はお願いしたいことがあるのです」


「私に、ですか」


「もちろん」


 突如話が切り替わったことに疑問を抱いたが、瑠都をこんな所まで連れ出した理由は、きっとそれなのだろうとも思った。


「私をリメルフィリゼアにしてください」


 予想を遥かに越えていったダンの要求を、瑠都はすぐに理解することができなかった。


 リメルフィリゼアに、してほしい。

 ダンはリメルフィリゼアに、瑠都の夫になりたいのか。


「私は名門バラッドレ家の子息。リメルフィリゼアと成り得る充分な価値がある。あなたにとっても、誉れの一つとなりましょう」


 誉れのために、大貴族の子息を夫にするべきだというのか。それを瑠都が望むと、目の前の男は本気で思っているのか。


「でも、もう結婚してらっしゃるんですよね」


「他に妻がいてもリメルフィリゼアにはなれる。それくらいはご存じでしょう」


 もちろん、瑠都だって知ってはいる。呆れたように笑ったダンに対して、瑠都は押し黙った。


「リメルフィリゼアになる方法はただ一つ。あなたに、想われることだ。ならば私を想えばいい」


 そうすれば天はこの胸に花を授けるだろうと、ダンは簡単に言ってのけた。


 リメルはリメルフィリゼアに、なんらかの想いを抱く。花の欠片が咲いてから想うこともあれば、想ってから咲くこともあるが、必ず芽生えることは天から約束されている。


 ダンが言っていることは正しい。瑠都がダンを想えば、きっと咲くのだろう。鮮やかな、消えることのない約束の花が。


 でもそれは、決して簡単なことではないはずだ。

 迷いと確信の中、交差するいくつもの感情に戸惑って、それでも懸命に見つけ出したものが、やがて想いになっていくのだから。容易く抱けるものならば、運命などと呼びはしない。


 それに瑠都は、これ以上誰かの胸に花が咲くのを、見たくはなかった。


「……ごめんなさい。私はもう、リメルフィリゼアを増やしたくはないんです」


 運命という名の鎖に縛られて、永遠に瑠都に捕らわれるような人をもう、これ以上。


 素直に述べた瑠都の言葉を聞いても、ダンが引き下がることはなかった。


「今いるリメルフィリゼアで充分だと? 私からすると、些か頼りないように思いますが。なぜあのような価値なき者たちが選ばれたのか、理解に苦しみます。どれも私には遠く及ばず、あなたにとってなんの得もありはしない。そう……私とは違う、何もかもだ」


 瑠都の前で、夫たちのことを堂々とあざけった。まるで瑠都が同調することを確信しているかのような、強い口調で。


(ひどい……)


 瑠都は自身の胸の中で、熱い何かが弾けたのを感じた。


 ダンが、彼らの何を知っているというのだろう。

 生きてきた道も、抱いてきた感情も、瑠都との間に芽生えるはずの、想いも。価値がないなんて言い捨てられるほど、容易いものではなかったはずだ。


 悔しくて、悔しくてたまらない。言い返すだけの充分な言葉を見付けれないことが情けなかった。


「確かに……違います」


 ぽつりとこぼれたのは、取り留めのない不器用なものだった。

 ただ伝えておきたかったのだ。目の前で満足げに口の端を上げたダンと彼らが、どうしたって違うこと。向けてくれる優しさも、触れ方も、人としての温もりも、何もかも。


「あなたと、彼らは違います。だから私も天も、あなたを選びはしない」


 感情のままこぼした瑠都の答えを聞いて、ダンの表情が硬くなった。下がろうとした瑠都との距離を一気に詰めると、また左の手首を強く握った。


「っ、」


 強い力に、瑠都は声にならない悲鳴を上げる。そのまま壁に押し付けられて、打ち付けた背中に痛みが走った。間近に迫ったダンの冷たい目は、怒りを孕んでいる。


「リメルともあろう者が、毒されてしまったか。浅はかな、隣に立つ者を選ばないからそうなるのだ!」


 滲み出る怒りで震えた声が、無遠慮に上から降ってくる。ダンの体が濃い影になって瑠都を覆っていた。


「リメルフィリゼアとは本来、高位な者にこそ相応しい立場だ。その栄誉も祝福も、私のためにある」


「ダンさんっ、」


「奴に、ジャグマリアスになれて、私になれないはずはない。あんな男に、劣ることなどっ」


 金色を携えた男の姿が、瑠都と、ダンの脳裏に甦る。瑠都は痛みに耐えながら、いっそ憎悪すら込もったダンの目を見上げた。


「この私が、劣るはずなどないっ。卑しい血を引いた、あんな穢れた男などに……!」

 

 

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