第42話 誰しもの境界線
「はじめまして、ルト様。マスバルト・アタワと申します。横にいるのが妻のサーシャです」
アタワ家の子息マスバルトは、なんともあっさりとした挨拶を瑠都に向けた。自身の家柄も経歴も語ろうとしないマスバルトに、瑠都も慌てて挨拶を返す。
ジャグマリアスと一つ年上のマスバルトは、幼い頃より交流があったらしい。久しいな、元気か、と着飾ることのない言葉を交わす二人の間には、他の貴族たちと向き合った時とは違う砕けた空気が流れている。
二人の会話を聞きながらも、瑠都は気になることがあって視線を動かした。そうすれば、マスバルトの妻サーシャと、ばっちり目が合う。サーシャは瑠都と目が合ったことを知ると、屈託のない満面の笑みを浮かべてみせた。
先程から、サーシャはずっと瑠都を見つめているのだ。近くに寄るでもなく、話しかけることもなく、ただまっすぐに眼差しを送る。興味があることを隠そうともしない、無垢なほど純粋な眼差し。困惑はすれど、嫌な気持ちを抱くことはなかった。
見つめる者と見つめられる者。それぞれの妻の様子に気付かないはずもなく、ジャグマリアスとマスバルトは話を止めた。
「サーシャ、見つめすぎだ。ルト様が困ってらっしゃる」
柔らかな口調でマスバルトが言った。
「すみませんルト様。これはリメルという存在に強い憧れを抱いておりまして。おそらくはやっとお会いできたことに感激しているのです。何せ嫁入りの際に、幼い頃読んでいたリメルの絵本を持参したくらいですから」
「マスバルト様」
夫に暴露されて、制止するように声を上げたサーシャの頬が赤くなる。
「それは初耳だな」
僅かに口角を上げたジャグマリアスにまで言われて、サーシャは染まった頬を隠すように両手で覆ってしまった。そんな妻の様子を優しい表情で見守っていたマスバルトが、瑠都に頼み事をする。
「ご迷惑でなければ、仲良くしてやってください」
「は、はい……。あの、こちらこそよろしくお願いします」
瑠都の返事を聞いたサーシャは、そんな、よろしいのでしょうか、と言いながらも、嬉しそうに瞳を輝かせている。
リメルに対する、憧れ。
天が決めた伴侶と出会うために、導かれるようにして異なる世界から渡ってくるリメル。その物語は代々語り継がれ、遥か昔から多くの者の心を惹き付けてきた。運命の存在を信じ、焦がれ、いつの日か私もと、夢を見る。
リメルの訪れは魔法の発見を意味する。それに歓喜する者がいることも知っている。けれどリメルに憧れを抱く者にとっては、それほど重要なことではなかったのだ。
何より思うのは、やはり。世界すら越えた想いを咲かせようとする一人の女性の、眩いこと。運命の存在を体現した尊い人を前にして溢れるのは、出会えた喜びと、奇跡への敬意。
サーシャは、自身の胸が言い知れぬ感情でいっぱいになるのを感じていた。うまく表現することもできなくて、目を合わせた瑠都にまた笑顔を向けてしまう。
そうすれば憧れのリメルはぎこちなく身を固くして、それでも小さく、笑ってくれた。
それからしばらくの間、四人は談笑していた。たくさんの言葉が飛び交うことも、大きな笑い声が上がることもなかったが、周りの賑やかさに押されもせず、ゆっくりと時を刻んだ。
不意に、ジャグマリアスと瑠都の後方から声が掛かった。
「ジャグマリアス様」
振り返ると、そこにはバラッドレ家の使用人が立っていた。
「お楽しみのところ失礼いたします。ノムーセ様が、ぜひともジャグマリアス様とお話されたいと」
「ノムーセ様が?」
指名されたジャグマリアスは、端正な顔を歪めることもなく静かに繰り返した。
大広間の中、ノムーセの姿はジャグマリアスたちからは随分と離れた所にあった。ノムーセの周りには何人かの若い男が集まっていて、ノムーセが何か口を開く度、大げさに反応を示している。
「……またいつものが始まったか」
どこか呆れた様子でこぼしたマスバルトを、サーシャが心配そうに見上げる。
相も変わらずにこやかな表情を浮かべている使用人には、どうやら聞こえていなかったらしい。ジャグマリアスの返事を待つこともなく、マスバルトにも話し掛ける。
「マスバルト様もご一緒にどうぞ。きっとノムーセ様もお喜びになられます」
「……ああ、そうしよう」
マスバルトはあっさりとそう答えた。だが先程の呟きを聞いてしまった瑠都は、どうも本心から望んで縦に頷いたとは思えなかった。
「では早速ご案内いたします」
「いや、いい。直に参る」
「かしこまりました」
案内を断ったマスバルトに気を悪くすることもなく、使用人は礼をして去っていった。その後ろ姿が充分離れたことを確認してから、サーシャがマスバルトの腕に触れた。
「マスバルト様……行ってしまわれるのですか」
「呼ばれたからには行くしかあるまい。なるべく早く戻るようにするから、そんな顔をするな」
子どもに言い聞かせるような口調ではあるが、眉を下げるサーシャに向けられた声色は驚くほど優しくて、そして甘い。
瑠都が気まずさからいたたまれなくなった頃、マスバルトはやっと、訳が分かっていないだろう瑠都に説明してくれた。
「ノムーセ様は人を集めて、家の歴史や功績、ご自身の経歴をお話しされるのが好きなのです」
「そうなんですか……」
瑠都は輪の中心にいるノムーセを見た。雄弁を振るうノムーセを囲うのは、若い男たち。将来家を継ぐことになる彼らに語って聞かせるのは、意味のあることなのだろう。
「マスバルト。すまないが一人で行ってきてくれ」
「は?」
やっと口を開いたかと思えば、ジャグマリアスから出た言葉は、まったく予想外のものだった。マスバルトがおよそ貴族らしくない、すっとんきょうな声を上げる。
「本気か?」
「ああ」
信じられないといったふうに片眉を上げて確かめるマスバルトに、ジャグマリアスは迷いもなく言い切った。
「なぜだ? 拗ねると後々面倒だぞ、あの人」
ノムーセのことをあの人と呼んで、理由を問う。ジャグマリアスは一瞬の沈黙のあと、瑠都のほうを見ることなく答えた。
「ノムーセ様の元に向かうということは、ここを離れねばならぬというとこだ。今この場で、ルトさんを一人にするわけにはいかない」
瑠都は驚いて目を丸くした。ジャグマリアスは瑠都のために、行かないと言ってくれたのだ。
理由を聞いて強く出ることもできなくなったのか、マスバルトは押し黙る。
今宵、ジャグマリアスと瑠都は二人でこの館にやってきた。ジャグマリアスが離れれば、瑠都は慣れない場に一人きりになってしまう。好奇の目と仰々しい雰囲気にさらされて、それでもリメルとして堂々と振る舞わなくてはいけない。
だからジャグマリアスがノムーセの誘いを断って、側にいると決めてくれたことはありがたかった。
だが、本当にそれでいいのだろうか。
瑠都はジャグマリアスの横顔を見上げた。迷いの欠片も見せはしない、どこまでも完璧な人。
自身の誕生会で誘いを断られて、ノムーセは気を害するかもしれない。大貴族、名門バラッドレ家の当主の心証を悪くすることが、良いこととは思えなかった。
瑠都のために選ばせた答えがいずれ、ジャグマリアスが進んでいくであろう完璧な道の妨げになるのではないか。
淀みのない白に、一点の黒も落としたくないと思った。
「ジャグマリアスさん」
瑠都がジャグマリアスを呼んだ。深い青の目が、静かに瑠都を捉える。
「あの……私は大丈夫です。遠慮せずに、行ってきてください」
瑠都の言葉に、ジャグマリアスの様子が変化する。傍目からは分からないほどの変化ではあったが、瑠都に向き直ったジャグマリアスの表情には、僅かな驚きが滲んでいた。
「しかし……」
やはりすんなりと行こうとはしないジャグマリアスを遮って、瑠都は続けた。
「ジャグマリアスさんが帰ってくるまで、ちゃんと待ってます」
だから大丈夫だと訴える。背中を押そうとする瑠都に、ジャグマリアスは返す言葉を探しているようだった。
「そうですわ、ジャグマリアス様。私が一緒にお待ちしております。どうぞご安心なさってくさだい」
お任せくださいと、瑠都の目の前にいるサーシャが申し出る。
一緒にいてくれると言ったサーシャに瑠都は心強さを覚え、マスバルトもそれは名案だな、と笑った。
「……分かりました。ではお言葉に甘えて、行かせていただきます」
三人に圧される形ではあったが、ジャグマリアスはノムーセの元へ行くことを了承した。
「ただ、充分に気を付けてください。誰かに話し掛けられても、不相応だと判断したならば無視してくださって構いません」
「そんなこと、」
この場に、話すのに値しない不相応な者などいるのだろうか。そう思ったが、ジャグマリアスに見つめられた瑠都は黙るしかなかった。先程までの頑張りはどこに行ってしまったのか、それきり主張することもなく、瑠都はただ頷いたのだった。
他の招待客に紛れて、完全にその姿が見えなくなってしまうまで、瑠都とサーシャはジャグマリアスとマスバルトを見送った。
二人の間には今、どこかぎこちない沈黙が漂っている。
サーシャはずっと憧れていたリメルと二人になったことに緊張しているようだったし、瑠都も何を話すべきなのかと迷っていた。
それに、ジャグマリアスが離れてから、遠慮のないいくつもの視線がより一層色濃く向けられるようになった気がしていた。壁がなくなったとでも言わんばかりのその視線から逃れる術を、瑠都は知らない。
「ルト様」
呑み込まんとする空気にそっと顔を伏せた時、サーシャが切り出した。
「少し、外でお話ししませんか」
サーシャが指した先には、テラスがあった。ガラスでできた扉の向こうに、庭園が広がっているのが見える。
あの場所ならば、このままここにいるよりか多少は落ち着いて待てるのではないだろうか。
「……はい」
瑠都の了承を得たサーシャが、早速とばかりに早足で動き出す。サーシャの黄色いドレスの裾が揺れるのを見つめながら、瑠都もそれに続いた。
ジャグマリアスが横を通り過ぎる度、多くの女性が熱い視線を送ってくるのが分かる。人の夫になったというのに、やはりこの状況は変わらないか。マスバルトは苦笑を漏らす。
マスバルトの隣を歩くジャグマリアスは、向けられる好意を気にも留めない。ただまっすぐに、前を見据えている。その視線の先にはノムーセがいた。若者に囲まれて、誇らしげに何かを語っている。
「あれがなければいい人なんだがな」
今日の主役に向けたとは思えない言い草で放ったマスバルトが、ついでとばかりに軽い溜め息を吐く。
「それにしても、わざわざ呼ばれるのは珍しいな」
「あの輪の中にリメルフィリゼアが加わっているという事実が欲しいのだろう」
「ああ、なるほど」
淡々と返したジャグマリアスの予想は、おそらく当たっている。
「それで自分もリメルフィリゼアと同等の栄誉を得たつもりかよ。お前、これから事あるごとに交流があるとして名を挙げられるぞ」
「構わん。利用できるものは利用する、それはこの世界で生き残るための明確な手段だ」
ジャグマリアスに言われて、マスバルトは辺りを見渡した。
贅を尽くした、きらびやかな空間。皆が惜し気もなく着飾り、それぞれの家の名を背負いながら、競うように探り合う。
「まあな……」
それ以上の言葉は飲み込んだ。躊躇うように感情が揺れたこと、その理由も、ジャグマリアスはきっと気が付いているだろう。
「なあ、ジャグマリアス」
ノムーセの元へ辿り着く直前、マスバルトは思い出していた。
振り返ろうともしないジャグマリアスの背中を押した、水色のドレスを纏った少女のこと。
「……あの子、いい子だな」
ジャグマリアスは何も、答えなかった。
「うわあ、大きな月」
テラスに出るなり無邪気に笑ったサーシャを倣って、瑠都も空を見上げる。
「本当ですね。綺麗……」
二人はテラスに備え付けられたベンチには座らず、テラスと庭園を区切る柵の前に立っていた。夜の風に吹かれていた柵を両手で握ると、心地よい冷たさが伝わった。
大広間の熱気から開放されたことに安堵して、瑠都は澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。心なしか、隣に立つサーシャも同じように気を緩めた気がした。
テラスには二人の他は誰もいない。ガラスの向こうで賑わう人たちの声が微かに届いてきていた。
連れ出してくれたサーシャに何か話し掛けようと、瑠都は手入れの行き届いた庭園からサーシャへと視線を移した。横を向くと存外近い位置にサーシャがいてどきりとする。丸くて大きい月の光のおかけで、サーシャの顔がよく見えた。
「私、感激いたしました」
瑠都が話し掛けるより早く、サーシャが言った。なんのことか分からなくて、瑠都は首を傾げた。
「先程のことです。ジャグマリアス様はルト様を想ってノムーセ様からのお誘いを断ろうとされましたし、ルト様はジャグマリアス様を想って背中を押された。想い合うお二人を目にできて、とても嬉しいのです」
「想い、合う」
「はい! 天から授かった縁の素晴らしさを実感いたしました。リメルとリメルフィリゼアとは、このようなものであらせられるのですね」
ジャグマリアスと瑠都の関係は、サーシャが憧れ、望んだものとは、きっと違う。想い合うには足りないものがいくつもあって、知らないことが多すぎた。
瑠都にしてみればマスバルトとサーシャのほうが余程仲睦まじく見えたのが、リメルへの憧れを語るサーシャには何も言えなった。
しばらく聞いていると、サーシャが更に近付いてきた。元々近かった距離が縮まって、肩が触れる。
「このようなことを申し上げるのはお恥ずかしいのですが……実は私、幼い頃はジャグマリアス様のことが好きだったのです」
「えっ」
突然の告白に、瑠都が思わず声を上げる。
「あれほどの才覚と美しさを持ったお方ですので、私以外にも想いを寄せる者はたくさんいたのですよ。もちろん、叶うはずもないと皆分かってはいましたが」
どう反応するのが正解なのだろうか。サーシャは瑠都を不安にさせたいわけでも、嫉妬させたいわけでもないようだった。ただ純粋に過去の事実と気持ちを話すサーシャを止める理由は、瑠都にはなかった。
「ジャグマリアス様は昔から、雲の上のお人でした。リメルフィリゼアになられたと聞いた時、やはり神に選ばれた方なのだと、とても納得できたのです。きっとルト様を迎え、お守りするためにあれほど完璧であられたのですわ」
瑠都と出会うことは生まれる前から決まっていて、だからこそ神はジャグマリアスにすべてを与えたのだとサーシャは言った。
リメルとリメルフィリゼアの間にある運命は、何者にも侵しがたい。
そう理解しているから、瑠都に対する妬みなどなかった。昔抱いていた、叶わなかった恋心を思い返して悔やむこともない。残っているのは、二人の絆に対する、眩いばかりの羨望。
サーシャの想いを聞きながらも、瑠都は考えていた。きっと、すべての人がサーシャのように思えたわけではない。そのことに気が付いているから、ちくりと胸が痛んだ。
抱いていたものを捨てきれずにそっと仕舞った人、耐えきれずに焦がれた人だって、いただろう。
例えばそう、マーチニを想った、エレーナみたいに。
これまでに出会った誰かの想い、感情、知っていたことも知らなかったこともすべて背負って、それでも寄り添って生きていく。瑠都も、ジャグマリアスも、他のリメルフィリゼアたちも。
「……あの、サーシャさん」
瑠都はずっと気になっていたことを、思い切ってサーシャに尋ねてみることにした。
「ジャグマリアスさんって、許嫁とかはいなかったんですか」
名門生まれの者には、親同士で決めた許嫁がいるという印象があった。
サーシャは顎に手を当てて考える素振りをみせたが、しばらくすると眉を下げた。
「そのような話もあったようですが、いつの間にか立ち消えておりましたね。……申し訳ありません、私はあまり良い家の出ではないので、高位な方のことについては詳しく存じ上げないのです」
パーティーに行くことが決まった日に、貴族というのはすごく遠い存在なのだとメイスが教えてくれた。それに加え、同じ貴族であっても家の位によって差が生じたりするのだろうか。
「マスバルト様なら詳しくご存知だと思います。聞いておきますね」
「あ、いえ、いいんです。少し気になっただけで……すみません、忘れてください」
本当にいいんですかと首を傾げるサーシャに、大丈夫だと何度も繰り返した。
気になっただけ、それだけだから。知ったところで何もできないこと、きっと心が軋むこと、分かっていたはずなのに、どうして尋ねたりしたのだろう。瑠都は少しだけ後悔した。
瑠都は後ろを振り返った。明かりが漏れる大広間の様子が、ガラスの向こうに見える。いくら探してみても、遠くにいるジャグマリアスの姿は人垣に隠されて見付けられなかった。
横を見ると、ちょうど瑠都のほうへ顔を向けたサーシャと視線が絡んだ。ぷっくりとした唇が薄く開かれる。
「色々と申してしまいましたが……ジャグマリアス様をお慕いしていたのは、本当に昔のことなのです。今はマスバルト様一筋なので、どうか安心してください」
サーシャの言葉に偽りがないことは、すぐに分かった。瑠都よりも年上のはずだが、サーシャは子どものように無垢で、純粋な人だった。
ジャグマリアスを想っていたこと、おそらくはマスバルトも知っているのだろうと瑠都は思った。愛する人に何かを隠して生きていくことを、サーシャは選ばない気がした。
それからサーシャは、色々な話をしてくれた。
同じ貴族であるマスバルトのことは、もちろん幼い頃から知っていた。ジャグマリアスの隣に堂々と立つマスバルトが羨ましくて、対抗心すら燃やしていたらしい。
まさかその相手と夫婦になるとは思わなかったとおかしそうに言ったサーシャに、瑠都も思わず笑ってしまう。
貴族らしくない振舞いが多かったマスバルトは、先生によく口の悪さを注意されていた。その一方、成績は常に優秀で、家の方針もあり八歳から十五歳まで南の大国ブルーナピに留学していた。
「ブルーナピって、確かマリーの」
「そうですわ。トトガジスト様がいらっしゃる国です」
七年もの間、手紙を寄越すだけで一切帰国することもなく両親を怒らせたが、勉学と稽古に夢中になっていたとあっけらかんと説明して両親の毒気を抜いてしまった。
今も変わらず飄々としているが、マスバルトは物知りで聡明だ。サーシャが尋ねれば、なんでも答えてくれる。真面目な答えが返ってくる時もあれば、ふざけてからかわれる時もあるけれど。それもまた、楽しいのだと。
サーシャが聞かせてくれる話のほとんどが、マスバルトのことだった。ころころと表情を変えて語るサーシャは幸せそうで、見惚れるくらい美しく輝いていた。きっと本当は、こういう人こそが花と呼ばれるのに相応しい。
「好き、なんですね……マスバルトさんのこと」
自然と口から出てきた言葉。
「はい、とても」
サーシャは柔らかく微笑んだ。その姿が、瑠都の目にはやけに眩しく映った。
ジャグマリアスとマスバルトはまだ戻ってこない。それほど時間が経っていないことは分かっているが、気になって何度も振り返ってしまう。送り出しはしたものの、やはりどこかで心細かったのかもしれない。
「ルト様、お腹は空いていらっしゃいませんか」
「そういえば、少しだけ……」
よかった、実は私もなのですとサーシャが笑った。二人はいくらか言葉を交わして、大広間の中に戻ることを決めた。
テラスに出た時と同様、一歩踏み出すのはサーシャのほうが早かった。よし、と気合いを入れ直した瑠都もそれに続こうとする。
その時だった。瑠都の視界が、ぐらりと揺れた。まっすぐ立っていられなくて、離しかけた手で柵を握り直す。
「ルト様っ」
気付いたサーシャが慌てて瑠都の元へ駆け寄る。支えるように、しゃがみ込んだ瑠都の背中に触れた。
「大丈夫ですかっ」
片手で目元を覆い、遠のきそうになる意識をなんとか繋ぎ止める。サーシャの声が遠い。細く漏れた息がわずかに震えていた。
しばらく耐えていると、段々体が楽になっていった。手を離して目を開けても、もう視界が歪むことはない。心配そうに覗き込むサーシャと目が合った。
「すみません……もう、大丈夫です」
言いながら、瑠都はゆっくり立ち上がった。大広間に足を向けようとする瑠都の手を握って、サーシャが引き止める。
「休まれたほうがよいのでは。どこか部屋を借りましょう」
「そんな。本当にもう平気です」
実際に、体はもうなんともないのだ。いったいなんだったのだろうと疑問に思いながらも、心配してくれているサーシャを安心させるため、瑠都は笑顔を見せた。
「少し眩暈がしただけで――」
「それはいけませんな」
突然、二人の間に低い声が割り入った。驚いて声がした方向を見ると、大広間からテラスに繋がる扉の前に、一人の男が立っていた。
本来ならば、主役であるノムーセの側にいなければいけない人物。男の名前は、確か。
「ダン様……」
思い出そうとする瑠都の横で、サーシャが口にする。淡い月明かりに照らされたダンが、眉間の皺を深くした。
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