第41話 華やかなる集い

 

 

 貴族ノムーセ・バラッドレの館は、リメルの館にも引けを取らない大きさを誇っていた。明かりが灯された館は、そこだけぽっかりと暗い夜から浮かんだように見える。馬車から降りて館を見上げていた瑠都の隣に、ジャグマリアスが並んだ。


 初めて訪れる場所、初めて出会う人たち。瑠都は自身の胸元に触れて、落ち着かせるように深く息を吐いた。


「すごく緊張してきました……」


 ぽつりと呟いた瑠都に、ジャグマリアスは微かな笑みを向けた。


「普段通りに振る舞ってくだされば、それで大丈夫ですよ」


 かしこまる必要はないと静かな口調で教えてくれる。そんなジャグマリアスは、確かにいつも通りだ。ぴんと伸びた背筋に、堂々とした振る舞い。迷いも焦りも、一点の弱さすら感じさせはしなかった。風に揺らぐ眩い金が、暗闇の中で映える。


「行きましょうか」


 ジャグマリアスが軽く肘を曲げた。その行為を意味を予めミローネから聞いていた瑠都は、思わず身を固くした。ジャグマリアスは瑠都をエスコートしようとしてくれているのだ。当たり前のようにさりげなく差し出した手は、ジャグマリアスたち貴族にとっては特別なことでもないのかもしれない。


 瑠都はおそるおそる手を伸ばした。曲げられた肘の下を通って、ジャグマリアスの腕にそっと触れる。添えるように組んだ手に変な力が入ってしまう気がして、緊張から唇を結んだ。





 バラッドレ家の使用人にパーティーが行われる大広間へと案内された。高い天井には大きなシャンデリアが直線上にいくつも並べられている。光の粒が降ってくるのではないかと思ってしまうほど、どこもかしこも絢爛な広い空間。瑠都は目を丸くして、浮き世離れした光景を見渡した。

 大広間にはすでにたくさんの人が集まっていた。それぞれが思うままに着飾り、会話に花を咲かせている。


 ジャグマリアスと瑠都が大広間に入っても、賑やかに飛び交う様々な声が止むことはなかった。だが、いくつもの視線が興味ありげに向けられている。大広間の空気が変わった気がして、ジャグマリアスの腕に触れる瑠都の手に力が入る。


「大丈夫ですか」


 寄り添うジャグマリアスに、囁くように尋ねられた。


「……はい」


 探るように向けられたたくさんの視線に、少しの怖さと妙な違和感を感じたものの、瑠都はなんとか頷いた。


 大広間の中には、いくつもの丸いテーブルが並んでいた。刺繍の入った白い布がかけられたテーブルの上には、綺麗に盛り付けられた料理が並んでいる。どうやら今日の誕生日パーティーは、立食式のようだ。


 ジャグマリアスと瑠都の元に、一人の使用人がやってきた。


「いかがですか」


 使用人の手にある丸い銀色のトレーには、酒の入った細いグラスがいくつか乗っていた。ジャグマリアスがその中の一つを受け取ると、使用人は今度は瑠都にトレーを向けた。


 十七歳の瑠都はもちろん、元いた世界で酒など口にしたことはない。この世界では年齢による制限はないらしいが、それでも自分の中の常識では「二十歳まではいけない」と決まっている。だがそれは瑠都の常識であって、この場の常識ではない。受け取ったほうがいいのだろうかと考えながら、瑠都はジャグマリアスの腕から離した右手をトレーに向けようとする。


 しかし、遮るかのようにジャグマリアスに握られて、瑠都の手は途中で止まってしまった。大きな手に包まれたまま、そっと下ろされる。


「すまないが遠慮しておこう。妻は酒類が苦手なのだ」


「左様でございましたか。これは失礼いたしました」


 にこりと笑った使用人は踵を返し、優雅な動作でまた別の招待客へと酒を勧めていた。


「……ありがとうございます」


 手に伝わる温もりをなるべく意識しないようにと懸命に務めながら、瑠都は断ってくれたジャグマリアスへと礼を述べた。魔力をもらう時にはいつも手を握るというのに、いつまで経っても慣れはしない。


「いえ」


 瑠都とは違って、ごく自然に握った手に特別な意識を向けることもなく、ジャグマリアスは端的に応えた。絵に描いたような対応、何があっても揺るがない青い眼差し。完璧なその姿に覚える尊敬と、少しの寂しさ。


 瑠都は握られたままの手をそっと見下ろした。もしフェアニーアがいたのなら、今夜この温もりを知ることはなかっただろう。ぼんやりと、そんなことを思った。


「ジャグマリアス様、ルト様」


 穏やかな口調で呼ばれて、二人は同時にそちらを見やった。視線の先には、夫婦と思わしき一組の男女が立っていた。ジャグマリアスも瑠都も、解かれた手を追うことはない。


「ご無沙汰しております」


 柔らかい笑みで挨拶をした男に、ジャグマリアスが返す。


「こちらこそ。お元気ですか」


「ええ、とても」


 ジャグマリアスと話す男の隣で、女も穏やかな表情を浮かべている。二人の訪れによって、場の雰囲気が柔らかなものへと変化した気がした。


 黙って様子を窺っていた瑠都に、男が顔を向ける。


「ルト様も、お変わりないようで何よりです。……私どものこと、覚えていらっしゃいますか」


 瑠都は、確かにその夫婦に見覚えがあった。

 初めて純白を纏った、結婚式の日。短い時間ではあったが、挨拶を交わした親族の中にいた二人。


「フェアニーアさんの……」


「はい」


 フェアニーアとよく似た優しい笑顔を見せたのは、フェアニーアの父、オズフールだった。黒い燕尾服を着たオズフールの隣にいるのが、フェアニーアの母、ドラレウ。フェアニーアと同じ橙色の目を持つドラレウは、深緑のドレス姿だった。

 フェアニーアの両親、つまりは瑠都の義父と義母である。彼らもノムーセの誕生日パーティーに招待されていたのだ。


 閉じたままの扇を持ったドラレウは、ジャグマリアスと瑠都とを見比べ、そして周りを見渡す。


「付かぬことをお伺いしますが、フェアニーアはどちらに?」


 未だ視線を動かしながら問うドラレウ。オズフールもそういえば、といったふうにドラレウを倣ってフェアニーアの姿を探し始める。


「風邪を引いてしまって、今日は出席できなかったのです」


「まあ、なんてこと」


 ジャグマリアスに教えられて、ドラレウの顔色が驚きに染まった。そしてすぐにオズフールと共に、ジャグマリアスと瑠都に対し頭を下げた。


「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。このような大事な日に……」


 オズフールが謝罪の言葉を述べた。どう返すべきか迷う瑠都の隣で、ジャグマリアスは落ち着き払った態度でチゼリテット夫妻の頭を上げさせていた。


「風邪ですから、こればかりは仕方ありません。どうぞお気にならさずに」


「いえ、これも不徳の致すところ。なんとお詫びしたらよいのか……」


 真剣な面持ちのオズフールに、瑠都はフェアニーアの姿を重ねた。実直で、誠実で、真摯。この両親の元で育てられてきたからこそ、フェアニーアはどこまでも優しいのだろう。


 ジャグマリアスと何度もやり取りして、オズフールとドラレウはやっと得心が行ったようだった。今度会ったらしっかりと注意しておきます、と言ったドラレウに、オズフールは何度も頷いていた。


 ドラレウは持っていた扇を広げて数回扇いでから、明るい橙色の目をまっすぐに前に向けた。


「フェアニーアがリメルフィリゼアになれるなど、夢にも思っておりませんでしたの。これほどの栄誉をいただいたからには、あの子には立派に務めてもらいませんと。何か至らぬ点がありましたら、すぐにでもおっしゃってくださいませ」


 凛とした姿勢を崩すことなくそう言ったドラレウは、一人の淑女として瑠都に憧れを抱かせるほど気品に満ち溢れていた。


 瑠都はフェアニーアから両親の話を聞いたことがあった。その時フェアニーアは、母親は娘ができたことを喜んで、瑠都のために服や装飾品を買い漁っていると言っていた。だが目の前のドラレウを見ていると、どうもそれが本当のことだとは思えない。あれはフェアニーアの思い違いだったのではないだろうか。


 そんなことを考えていた瑠都に、ドラレウが視線を向けた。


「あの子は女性の扱いなぞ知りませぬから、失礼な振る舞いをしているのではないかと常日頃心配しておりますの。ご迷惑をお掛けしているのではないですか」


 首を傾げて尋ねられる。オズフールとジャグマリアスも一斉に瑠都を見た。ドラレウの問いは唐突なものだったが、瑠都が考え込むことはなかった。


「そんなこと……。いつも、とても優しくしてくださって、助けて、支えてくれるから……私はここまで来れたんだと思ってます」


 フェアニーアは、異なる世界に来て戸惑っていた瑠都の心に、ずっと寄り添っていてくれた人だった。フェアニーアがいなければきっと、迷うことも悲しいことも、今よりずっと多かったはずだ。優しい笑みで見守ってくれている。そう安心できるから、拙いながらもリメルとして折れずに歩んでこられた。


「同じ歩調で隣にいてくれること、とても嬉しいんです。本当に……感謝しています」


 瑠都が言い終えるとほぼ同時、ドラレウが一つ咳をこぼしたかと思うと、広げたままの扇で勢いよく顔を隠してしまった。


「ど、どうかされましたか」


 何かあったのかと慌てる瑠都に、ドラレウは扇の向こうから上ずった声で応対した。


「なんでもありませんのよ、ほほほ」


 誤魔化すような笑い声を上げる妻を見かねてか、オズフールが苦笑しながら助け船を出す。


「お気になさらずに、ルト様。いつものことですので」


(いつもの、こと?)


 いつも扇で顔を隠しているということだろうか。それにしては、先程までは普通に顔を見合わせて会話できていたように思うが。疑問符を浮かべながらも、瑠都はそれ以上のことは何も聞かずにおいた。


 話が途切れたところで、頃合いを見計らっていたのか、ジャグマリアスが口を開いた。


「実は、ノムーセ様への挨拶がまだなのです」


「おや、そうでしたか」


 オズフールが申し訳なさそうに眉を下げた。


「気付かずに引き止めてしまいましたね。これは失礼いたしました」


 また後ほどと言ったオズフールと、やっと扇を顔から離したドラレウが、ジャグマリアスと一礼した瑠都を見送った。



 ノムーセの元へと向かう二人を、じっと見つめる。充分な距離が開いたところで、ドラレウが音を立てて扇を閉じた。


「……聞きまして、あなた」


「ああ」


 瞳を輝かせたドラレウが、声を弾ませる。


「ルト様のあのお言葉……フェアニーアとはどうやらうまくいっているようではありませんか」


「そのようだな。ルト様のお心に寄り添えているのなら、よいことだ」


「はあ……」


 ドラレウが吐いた溜め息は喜色に満ちていた。そんな妻に視線を移したオズフールだったが、ドラレウは相変わらず瑠都の背中を見つめていた。


「フェアニーアがまだ駄目だと言うから、式以来会いにもゆけず、知る機会もなかったけれど……ルト様も多少はフェアニーアに想いを抱いてくださってるのかしら?」


 天より定められて、花を刻んだ二人。決して、想い合って夫婦となったわけではない。

 果たしてそれで本当に、最愛の息子は幸せになれるのか。本来であれば、そう心配するのが正しい母親の姿なのかもしれない。


 けれどドラレウには、なぜか揺るがない確信があったのだ。フェアニーアは必ず幸せに満たされて、リメルと添い遂げるであろうと。


 フェアニーアには二人の兄がいる。他の大半の貴族たちとは違って、オズフールとドラレウは三人の息子たちの許嫁を取り決めることはしなかった。自由に恋愛をし、自ら望んだ相手と結ばれてほしいという、親の切なる願いだった。


 上の二人は未だ結婚はしていないものの、それぞれが良き恋をしているらしい。ただ一人フェアニーアの噂だけが聞こえてこず、どうなることやらと心配していたのだ。


 ところがある日突然、花の欠片を咲かせてリメルフィリゼアとなり、恋人ができるどころか、あっという間に結婚までしてしまった。


 これこそ天の思し召しだと、ドラレウは思っていた。


 許嫁がいたならば、真面目なフェアニーアはすでにあっさりと結婚していたであろう。だからこそ、天はオズフールとドラレウに、許嫁を取り決めさせなかった。リメルただ一人に愛を捧げられるように、フェアニーアに恋を教えなかった。


 フェアニーアがリメルフィリゼアになったと知った時に抱いたその想いは、瑠都の姿を初めて見た時、確信に変わった。


 白い花嫁衣装を纏って、少し寂しそうに笑った人。たった一人で、異なる世界にやってきた人。


――この子を守るために、フェアニーアは生まれてきたんだわ。



「もっとお話したかったわ」


 最愛の息子の、運命の人。そして何より、ずっと欲しかった初めての娘。


「いろんな所へお出掛けもしたいし、お買い物だって一緒にしてみたいの」


「買い物? ルト様のためにと揃えた品があれほどたくさんあるというのに、まだ買うつもりなのか……」


 呆れたように呟いたオズフールに、ドラレウがすぐさま言い返す。


「一緒に選ぶのもまた楽しいのではありませんか。もちろん、今まで買った品もいずれ……いえ、近い内に必ずやお渡ししますけれど。反応が楽しみだわ」


「……またフェアニーアに叱られるぞ」


「まあ」


 不満そうに声を漏らしたドラレウは、丸くなった橙色の目でオズフールを見上げると、思いの丈を語り始める。


「だから我慢しているではありませんか。会いたい気持ちを寸前のところで思い止まらせては、募らせる日々。先程だって、いじらしいルト様を抱き締めたくなるのをどれほど耐えたことか」


 確かに、瑠都を前にしたドラレウは、秘めたいくつもの願望をあらわにはしていなかった。もっとも、最後には耐えきれなくなって己の顔を扇で隠してしまっていたが。


「初めてできた娘なのよ。それも素直そうな良き娘。これを可愛がらずして、なんとしますか」


 ドラレウは顔を前に向けて、遠のいていく瑠都の背中を再び視界に捉えた。片手を頬に当てて、うっとりと目を細める。


「ああ、早くドラレウお母様と呼んでほしいわ」


 喜色を隠そうともしない妻の様子に、オズフールは困ったように眉を下げた。気持ちを汲んだのか、はたまた折れたのか。仕方がないな、とこぼした優しい笑みは、やはりフェアニーアによく似ていた。





 ノムーセ・バラッドレは、口髭を生やしたふくよかな体型の男だった。今日の主役であるノムーセの側には、彼の妻と二人の息子がいた。


 ノムーセはジャグマリアスが近付いてきたのを知ると、両手を大きく広げて歓迎の意を示す。


「やあジャグマリアスくん、久しいな。活躍は常々聞いておるぞ。忙しかろうに、今日はわざわざすまなかったな」


「いえ、ご招待いただき光栄です。六十歳の誕生日、おめでとうございます」


「ありがとう。未来ある若者に祝ってもらえると、私まで若返った気になってしまうよ」


「やだわ、あなたったら」


 ノムーセの隣で、妻がおかしそうに口元を隠した。そんな妻に、若くあろうとする気持ちが大事なのだと諭してから、ノムーセはジャグマリアスに向き直った。


「フェアニーアくんは風邪だそうだな」


「はい。せっかくご招待いただいていたのに、申し訳ありません」


「いや、構わんのだよ。ゆっくり養生するように伝えてくれ」


 笑いながら言ったノムーセの視線が、ジャグマリアスの半歩後ろに控えていた瑠都へと移る。


「おお、もしやそちらは……」


 ノムーセの目に止まった瑠都の背を、ジャグマリアスがそっと押した。横に並ばせた瑠都の緊張をその手で感じ取りながら、ノムーセとその家族へ紹介する。


「ご紹介いたします。こちらがリメルであり、私の妻であるルトです」


「やはりそうであったか」


 ノムーセは感激から瞳を輝かせた。反対に、バラットレ一家の視線を一斉に受けた瑠都の表情は、幾分か固くなってしまっている。それでも意を決して、口を開いた。


「……はじめまして、ルト・ハナマツです。今日はご招待いただいて、ありがとうございました。お誕生日、おめでとうございます」


 瑠都が言い終えると、支えるように背中に添えられていたジャグマリアスの手が、役目を終えて離れていった。

 ノムーセがさも感慨深げに、瑠都の言葉に深く頷いてみせる。


「まさか、リメル様と生きてお会いできる日が来ようとは……。まことにめでたきこと。この光栄の前では、私の誕生日など霞んでしまいます」


 なんと反応すればいいのか分からなくて、瑠都はぎこちなくも小さく笑んだ。


「想像していたよりもずっとお若くて驚きましたわ」


 ノムーセの妻が言った。ノムーセとは対照的に、折れそうなほど細い妻からは、どこか神経質そうな印象を受ける。妻に賛同したノムーセが、淡い水色のドレスを纏った瑠都を頭の天辺てっぺんから足の爪先までじっくりと眺めた。


「うむ、花のごとき可憐なお嬢様でいらっしゃる」


 悪気はないと分かっているからこそ、その視線から逃れることはできない。気まずそうに小さくなる瑠都を一通り眺めたノムーセが、やっとジャグマリアスへ向き直る。


「このような麗しい方のリメルフィリゼアに選ばれるとは、さすがはジャグマリアスくんだ。君の優れた知性と秀でた能力を、神も認めておられるのだろう。それに比べて息子のダンといったら……」


 ジャグマリアスを褒め称えていたノムーセが、突然深く息を吐いた。ノムーセの後ろで、彼の息子の内の一人が表情を歪める。


「もうすぐ三十にもなるというのに未だにふらふらと遊び回ってばかりで、ろくに仕事を手伝いもしない。あげく滅多に家に帰らないのを嫁に責められる始末」


 ノムーセが言葉を紡ぐ度、元々刻まれていたダンの眉間の皺が更に深いものになっていく。


「近頃の私は、ダンがいつ神に見放されるのかと肝を冷やしてばかりいるのだ。まったく、バラッドレ家の次男として情けない……。ジャグマリアスくんを見習わせてやりたいな」


 父親のぼやきに耐え兼ねたのか、苛立ちを隠そうともしないダンは固く口を結んだまま、足早にその場から去っていく。背中を向ける前のダンと一瞬だけ目が合った気がして、瑠都は息を呑んだ。


「言いすぎですよあなた……ダンが可哀想ですわ」


「あれはきつく言わないと聞かない男なのだ」


「……お父様、お母様。リメル様とジャグマリアス殿の前ですよ」


 残ったもう一人の息子に嗜められて、やっとノムーセと妻は言い合うのをやめた。


「そうであったな。いや、申し訳ない。みっともないところを見せてしまったな」


「いえ……」


 笑いながら言うノムーセに、ジャグマリアスは動じることもなく答えた。


「さて、仕切り直しといこう」


 ノムーセが手を叩くと、すぐに使用人がやってきた。ノムーセと息子は使用人から酒の入ったグラスを受け取る。


「皆、聞いてくれ」


 大広間は楽しそうな話し声と笑い声で満ちている。そんな中で発せられたノムーセの声が、全員の耳に届くことはない。だがあっという間に人から人へと伝播していき、招待された貴族たちが次々に口を閉ざしてノムーセに注目する。


 ノムーセの前に立っていたジャグマリアスが、また瑠都の背中に触れた。その手に促されて、瑠都はジャグマリアスと共にノムーセの前を開けた。


「皆、私の誕生日を祝うために集まってくれてありがとう。誕生日に皆の顔が見られるだけで、私は幸せ者だ。そして今宵は嬉しいことがもう一つ……」


 グラスを持ってないほうの手を瑠都へ向け、ノムーセは続ける。


「我が国に二百年ぶりに降り立ったリメル、ルト様だ。名誉あるリメルフィリゼア、ジャグマリアス・トーセと共に、わざわざ足を運んでくださった。この幸福をしかと目に焼き付けよ」


 静まりかえった大広間に、声が響く。ノムーセは厳かにグラスを掲げた。


「貴きリメルに、感謝と祝福を」


 その言葉を合図に、貴族たちが一斉に動きを見せた。男はノムーセと同じようにグラスを掲げ、女は両手でドレスの裾をつまみ膝を曲げる。


 突如として大勢から向けられた、身に過ぎる敬意。戸惑う瑠都に、ジャグマリアスが小さな声で助言した。


「そのまま、堂々としていてください」


 迷いのない言葉を受けて、瑠都は横に立つジャグマリアスを見上げた。貴族たちを見据えるジャグマリアスの整った横顔になぜか言い知れぬ胸騒ぎを覚えて、思わず名を呼んでしまう。


「ジャグマリアスさん……?」


 か細い声の主をそっと見返したジャグマリアスは、館の前で瑠都を励ました時と同じような、微かな笑みを浮かべてみせた。


「動じる必要はありませんよ。儀礼など、ただ受け止めるだけで構いません」


 いつもと同じ顔色、調子の狂わない声色。そしてどんな時でも濁ることのない、深い青色の瞳。不思議な引力を持ったその瞳の奥、ちりりと燻る冷たい影が、音もなく息をした気がした。





 ノムーセの側から離れたジャグマリアスと瑠都の元には、貴族たちが代わる代わる挨拶に訪れていた。

 皆丁寧に名乗ってくれるのだが、何せ人数が多いものだから、全員の名前を覚えきるのは至難の技だった。


 目の前で饒舌に話す白髪の男の名もそうだ。彼と共にやってきた、甥だという男の名と経歴もろとろ、瑠都の頭からは今にもこぼれ落ちてしまいそうになっている。


 時折相槌を打っているジャグマリアスは、当然白髪の男のことも、この場にいる全員の名と家柄も、すべてを把握しているのだろう。今日は風邪で寝込んでいるフェアニーアだってそうだ。彼らは生を受けたその瞬間から、こんな華やかな世界の一員だったのだ。


 ちなみに、ジャグマリアスの手にはもうグラスは握られていない。ここに来るまでの間、どこかのテーブルに置いてきたようだった。結局一度も口を付けなかったグラスは、今頃使用人にでも回収されているだろう。


「それにしてもリメル様は本当に麗しく、気高い雰囲気を纏っておられる。そうまるで、近付くことも許されない花のようでいらっしゃいますな」


 今日はよく花に例えられる。花がリメルの胸に咲く証だからなのか、それとも貴族たちの常套句なのだろうか。

 大げさに褒め称える白髪の男の話を聞きながら、瑠都はそんなことを考えていた。


「リメルフィリゼアともあれば、最早ジャグマリアス様の地位は磐石ばんじゃくですな。お祖父様もさぞ喜ばれたでしょう。これでトーセ家もやっと、」


「伯父上様」


 甥が、慌てて白髪の男を制した。


 思い当たったのか、今まで調子よく話していたはずの白髪の男が、急にしどろもどろになった。


「ああ、いえ、その……結婚なされたので、お祖父様も安心されたでしょう、ということでして」


 ジャグマリアスが態度を変えたわけでも、何を言ったわけでもないのに、白髪の男は誤魔化すように言い訳を並べていく。甥は冷や汗を掻いた青い顔で、視線を床に固定していた。


 唐突に変化した空気。異様な雰囲気になった理由も分からず、瑠都はただ事の行く末を見守るしかなかった。


(お祖父様……)


 白髪の男が口にしたことを、心の中で繰り返す。父親でもなく、母親でもなく、祖父。


 そういえば、結婚式に参列していたジャグマリアスの親族は、祖父と祖母だけだった。


 今日のパーティーにも、フェアニーアの両親は揃って参加しているが、ジャグマリアスと同じトーセ家の人間は誰一人として見かけていない。


 ジャグマリアスは何も言わない。

 瑠都の反応を探ることも、慌てる目の前の男たちに笑みを向けることもなかった。


「ああ、アタワ家のご子息がいらっしゃいましたぞ。確かジャグマリアス様と彼とは親しい間柄だとか。積もる話もあるでしょうから、どうぞ遠慮なさらずお行きください」


 白髪の男はこちらに向かってくる一組の男女を見つけて、勢いよく捲し立てた。その表情からは、やっとこの場から逃れられるという安堵がいとも容易く読み取れた。


「ええ、そうですね。失礼いたします」


 あっさりと言い放ったジャグマリアは、行きましょうかと瑠都に声を掛け踵を返す。その大きな背中に付いていく瑠都が、ジャグマリアスに何かを問うことはなかった。



 アタワ家の子息と呼ばれていた男とジャグマリアスは、出会うなり握手をし、幾分か砕けた様子で言葉を交わす。


 なるほど確かに親しい間柄のようだと思った瑠都は、アタワ家の子息と共にいた女にじっと見つめられていることに気が付いた。


 瑠都と目が合ったことを知ると、女は満面の笑みを浮かべた。そしてすぐさまドレスの裾をつまみ、見事なほど優美な仕草で膝を曲げたのだった。

 

 

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