第40話 予想外の接近
「こほっ」
リメルの館の一階にある居間。その広い空間に、フェアニーアが小さく咳をする音が響いた。夕食を終えて寛いでいた瑠都とメイス、食後のお茶を運んできたフーニャの視線が、フェアニーアへと集まる。
「大丈夫ですか」
「ええ、すみません」
心配そうに眉を下げる瑠都を安心させるために微笑んだフェアニーアだったが、言葉の最後に被るようにして、また咳が続いて出る。
「風邪ですかっ。た、大変です……!」
近付いてきたフーニャに、フェアニーアは首を横に振って否定を示した。
「いえ、風邪ではないと思うのですが……」
言いながら立ち上がったフェアニーアにつられて、瑠都も思わず立ち上がる。フェアニーアはそんな瑠都に、また申し訳なさそうな笑みを向けた。
「まだ早いですが、今日は先に休ませてもらいます。ルトさん、明日はよろしくお願いしますね」
居間を出ていくフェアニーアの背中を、フーニャが追っていった。
「お医者様をお呼びしましょうか」
「大丈夫ですよ。寝れば治ると思うので」
「じゃあ暖かくして寝てくださいね。毛布を十枚ほどお持ちします……!」
「それはちょっと……」
段々と遠ざかっていく二人の声を聞きながら、瑠都とメイスは顔を見合わせた。鏡に映った己を見ているかのように、瑠都もメイスも同じ表情をしていた。心配と、不安と。それから過ぎる嫌な予感。
瑠都が初めて出席するパーティーは、明日に迫っていた。
「残念ですが、今日はとても外出できるような状態ではありません」
フェアニーアの部屋の前、閉じられた扉を背にして、サフが言った。
パーティー当日、珍しく昼を過ぎても起きてこなかったフェアニーアは、呼び寄せられた医師によって、風邪だと診断された。様子を窺いにきた瑠都にサフが告げたのは、今日のパーティーにフェアニーアは参加できないという事実だった。
「フェアニーア様はどうしても参加したいとおっしゃっていたのですが、今日は安静にしておくべきだと私とお医者様とで説得して、なんとか納得していただけました」
真面目なフェアニーアを説得するのには、だいぶ骨を折ったらしい。サフは困ったような笑みを浮かべていた。
「あの、フェアニーアさん、今は……」
小さく声を落とした瑠都は、躊躇うように言葉を切った。瑠都が言いたいことが分かったのか、サフが答える。
「今は眠っておられます。処方された薬が効いているのか、少し落ち着いたように見受けられます」
「そうですか……」
伏し目がちにほっと息を吐いた瑠都を、サフは柔らかな眼差しで見下ろした。
「フェアニーア様より言付けを預かっております」
サフの言葉に、瑠都は顔を上げた。
「せっかくのパーティーにご一緒できず申し訳ない、と」
「そんな……」
風邪を引いてしまったのも、パーティーに出席できないのも、フェアニーアのせいではない。それなのに、辛い中で瑠都を気遣うような言葉を残してくれたのだ。
「私は必要な物を取ってまいります。そろそろミローネかフーニャが迎えにくると思いますので、ルト様も準備なさってください」
サフは一礼してから、背を向けていた扉から離れて歩いていく。その背中を見送ってから、瑠都は扉へと近付いた。閉じられた扉に、そっと触れる。
「……ゆっくり、休んでくださいね」
眠っているフェアニーアには届かないくらいの、小さな声。いってきます。そう呟いて、扉から手を離した。
「ルト様、やはりこちらにいらっしゃいましたか」
サフの言った通り、すぐにミローネが迎えにきた。そろそろ準備に取り掛かりましょうかと促されて、その場を後にした。
全身鏡を前にして立つ瑠都の斜め後ろで、フーニャが瞳を輝かせている。胸の前で手を組んで、満面の笑みを浮かべていた。
「ルト様っ、とーってもお綺麗ですよっ! さすがですう」
「あ、えっと……」
「ジャグマリアス様もメロメロですよきっと! いや、絶対に! ああ、フェアニーア様は本当に残念でしたね……」
「フーニャ、ルト様が困っていらっしゃいますよ」
ミローネに嗜められて多少勢いは収まったものの、フーニャは未だ瑠都を褒めちぎっている。ぎこちなく対応しながらも、瑠都は改めて鏡に映る自身の姿をじっくりと見つめた。
七分袖の淡い水色のドレス。胸元と袖に施された白いフリルは、腰にある金色の刺繍辺りから裾へも扇状に広がっていた。清楚でありながら華美なドレスは、リメルとしての品位を損なわないような高貴さすら漂わせている。
そんな立派なドレスを纏う瑠都自身も、きちんと化粧を施され、髪は編み込んでいわゆるハーフアップにされていた。
いつもとは違う自分。着飾っているのが恥ずかしくもあり、少しだけ嬉しくもある。結婚式の時とはまた違った感情がちらりと顔を覗かせていた。
このドレスで、今の着飾った自分で、リメルとしてたくさんの人の目に触れる。共に行くジャグマリアスにも、出席できないフェアニーアにも恥をかかせないようにしなければ。改めて決心すれば、思わず、よし、と声が漏れた。
胸元に置いた右手をぎゅっと握る。ドレスで見えはしないが、その手の下にはリメルの証である花が咲いている。
(大丈夫……)
自らへ言い聞かせるように、何度もそう心の中で繰り返した。
準備を終えた瑠都は、ミローネとフーニャと共に一階へと向かった。階段の下には、サフとジャグマリアスが立っていた。
瑠都の姿を認めたジャグマリアスが、端正な顔に華やかな笑みを浮かべる。眩いばかりのその笑みに、瑠都は思わず歩みを止めてしまう。
「ルト様?」
名前を呼んだミローネに、慌ててなんでもないと返してから、ぎこちなくジャグマリアスの元へと歩み寄った。
「お美しい、とてもよくお似合いですよ」
そう言ったジャグマリアスは、黒い燕尾服を身に纏っていた。いつもの白い軍服とは正反対の濡れ羽色。さらりと流れる金色の髪が、眩しいほど輝いている。
礼服を完璧に着こなして堂々と立つ男に美しいなんて言われたところで、素直に喜べるわけもない。
瑠都はそっとジャグマリアスを見上げた。ジャグマリアスの瞳は、静かに瑠都を捉えていた。
いっそ神秘的にすら感じる、深い海のような青色。何もかもを見透かされてしまう気がして、瑠都は少しの間しかその瞳を見つめ返すことができなかった。
ジャグマリアスと瑠都の間には、いつもフェアニーアがいた。優しい穏やかな笑みで、二人の間を取り成してくれる。それが当たり前で、それ以外なんて起こり得ないと思っていた。
けれど今夜、フェアニーアはいない。ジャグマリアスと瑠都は二人きりなのだ。
サフに促されて、瑠都たちは外へ出た。日の暮れた舘の前、一台の馬車が待ち構えている。
馬車の側には、三人のリメルフィリゼアが立っていた。どうやら見送りのため、ここで待っていてくれたらしい。
マーチニとメイス、そして不満気な顔のエルスツナ。エルスツナは仕事帰りにマーチニと出くわし、半ば強制的に待たされていた。
「やあ」
目を丸くした瑠都に、マーチニが軽快に声を掛けた。
「綺麗だね。まるで本物のお姫様みたいだ」
近付いてきていた瑠都は、その言葉にぴしりと固まった。着飾っているせいで、今日はよく褒められる。マーチニに限っては、瑠都に甘い言葉を寄越すのはいつものことなのだが。未だ慣れなくて戸惑う瑠都に、マーチニが笑みを深くした。
「褒め言葉は素直に受け取っておくべきだよ」
「う……」
マーチニは瑠都の前に立って首を傾げた。おかしな声を出した瑠都の頬を両手で掴んで、ゆっくりと上を向かせる。視線をさ迷わせる瑠都に、囁くような声を落とした。
「こっちを見て」
「あ、あの……」
「ルトちゃん」
ほんのりと染まった頬を親指で撫でたマーチニに誘われて、瑠都はおずおずと視線を向けた。深緑の瞳とかち合う。
「本当に、綺麗だ」
瑠都は色付いた唇を、躊躇いながらも薄く開いた。褒め言葉は素直に受け取るべきたよ、そんなマーチニの言葉を思い出しながら。
「ありがとう……ございます」
触れられている顔が熱くて、それどころか全身が甘い熱で溶かされてしまいそう。
周りの視線が集まっていることに気が付いて、瑠都が慌て出した頃、マーチニはやっと手を離した。名残惜しそうに、瞳だけが最後まで絡んでいた。
興味がなさそうなエルスツナとは一言も話せなかったが、先程のマーチニと瑠都のやり取りを見て、瑠都と同じように赤くなっていたメイスとはいくつか言葉を交わす。
「フェアニーアさん、風邪なんだってね」
「うん、そうみたい」
「緊張するだろうけど……がんばって」
慣れない場所へ行く瑠都の背中を押すような、
そうしてジャグマリアスと瑠都は馬車に乗り込み、パーティーが行われる、貴族ノムーセ・バラッドレの舘へと出発した。心地よく澄みきった、月がよく見える夜だった。
大きく深い溜め息を吐いたマーチニに、横に並んでいたメイスが顔を向けた。
遠くなっていく馬車を見つめるマーチニは、笑みを浮かべてはいるものの、どこか渋い表情だ。
「どうかしましたか」
「いや……」
不思議そうに尋ねたメイスに答えようとして、マーチニは一度言葉を切った。珍しい仕草に、ますます疑問を抱く。
「綺麗に着飾った奥さんが他の男と出掛けるのを見送るのは、案外辛いものだね」
苦笑と共に告げられたマーチニの想いを聞いて、メイスは思わず押し黙った。なんて返すのが正解なのか、分からなかった。自分の気持ちを正直に話そうとしたところで、きっとうまく言葉にならなかっただろう。
「もういいだろう、俺は舘に戻る」
馬車が見えなくなったのを確認して、会話に参加する気のないエルスツナが動き始める。
「エルくんもそう思わない?」
舘に戻るというエルスツナの言葉が聞こえているのか、いないのか。綺麗に流したマーチニが、エルスツナに同意を求めた。足を止めてマーチニを見るエルスツナ。すぐに顔を逸らして、冷たい声色で返す。
「思わない」
短く落として、エルスツナは舘の出入り口へ向かう。少し離れた位置に立っていたせいか、今までの会話は使用人たちには聞こえていなかったようだ。
「夕食の準備をしますね!」
なぜか敬礼をしてから、フーニャがエルスツナのあとを追う。サフとミローネもそれに続いた。
「……まあ、その『他の男』も同じ夫なわけだから、あんまり文句は言えないけどね」
マーチニは最後に、メイスにそう言った。
リメルフィリゼアになったから、瑠都と出会えた。リメルフィリゼアになったから、自分以外の夫が存在し、その想いも知ることになる。
メイスの脳裏に、いつかの黒が蘇った。
フェアニーアは、微かに目を開けた。ぼんやりと映る暗い天井を見つめて、ようやく今の状況を思い出す。
体がだるく、思うように動かない。
今は何時だろうか。ジャグマリアスと瑠都はもう出発しただろうか。確かめようにも、そんな気力すらない。
ジャグマリアスにも、瑠都にも、パーティーの主役であるノムーセにも、申し訳ないことをしてしまった。約束を
無責任さと不甲斐なさを責めたところで、今更遅い。どんなに願っても、体はフェアニーアの言うことを聞いてはくれなかった。吐く息が熱い。眩暈を起こした時のように、視界が揺れる。
瑠都は大丈夫だろうか、そんなことを考える。
ジャグマリアスが付いているから、きっと大丈夫だ。そう思ってフェアニーアはようやく、ジャグマリアスと瑠都が今夜二人きりだということに気が付いた。
大丈夫だろうか、もう一度繰り返した言葉は、どちらに向けられたものだったか。
フェアニーアはなぜか、ジャグマリアスと瑠都の間には、自分がいるのが当然だと思っていた。いるべきだと、思っていた。
いつも瑠都に対し、立派なリメルフィリゼアとして接するジャグマリアスは、瑠都を無下にはしないだろうし、瑠都もあからさまに避けたり逃げたりするわけではない。
それなのに、自分が二人の間にいなければ何かが違ってしまう気がして、フェアニーアはずっとそこに立っていた。
熱のせいか、目を閉じればあっという間に意識が遠ざかる。閉ざされる前に、ふと思考が別のところに飛んでいった。
(……そういえば、ドレス姿、見られなかったな)
ドレスは水色なんですよ、そう嬉しそうに話していた瑠都が、最後に瞼の裏に浮かんだ。
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