第38話 伸ばした手

 

 

 ジーベルグ城の静かな客間に、一人きり。ソファに身を預けた瑠都は何をするでもなく、ただぼんやりとくうを眺めていた。

 瑠都はここで、ある人物の訪れを待っていた。約束の時間よりも早く着いてしまい、こうして一人で暇を持て余している。


 ゆったりと過ぎる時間に段々と気も緩んできた頃、客間の扉が勢いよく開かれた。大きな音にびくりと肩を震わせた瑠都が顔を向けるより早く、入ってきた人物に力強く抱き締められた。


 突然のことに目を丸くした瑠都は、慌ててそれが誰かを確かめる。煌びやかなドレスに、見覚えのある赤毛。柔らかな温もりで包むのがこの国の姫であり、約束していた人物であると知って、瑠都は安心したように息を吐いた。


「マリー?」


 未だ離れないマリーの背中に触れながら、名前を呼ぶ。そうすればマリーは抱き締める腕の力を更に強くした。


「マリー様、扉を開ける時はもう少しお静かになさいませ」


 マリーが開け放したままだった扉を閉めながら、マリーの侍女が注意する。


「申し訳ございませんルト様。驚かれたでしょう」


「あ、いえ……」


 眉を下げて謝る侍女に、瑠都は首を横に振ってみせた。その時、マリーがやっと体を離す。それでもまだ近い距離のままで、何かを確かめるように瑠都の顔や肩に触れてくる。


「心配したのよルトっ! 怪我はないの? 痛いところは?」


 捲し立てるような口調とは違って、マリーの表情は今にも泣き出してしまいそうだった。



 瑠都が宝石店で事件に遭遇し、連れ去られてしまったのは、一昨日のことだ。馬で駆けてきたガレに助けられて馬車から出た瑠都が目にしたのは、折り重なるようにして倒れる二人組の宝石強盗だった。ガレはあっという間に二人を倒してしまったらしい。


 そんな頼もしいガレは瑠都の無事を確認するなり、謝罪の言葉を述べた。瑠都を置いていってしまったこと、助けにくるのが遅くなったことに対する謝罪だった。


 けれど瑠都は、謝らないでほしいとガレに言った。謝るのはガレではなく、自分のほうだと。声を追ったことも、宝石店に入ったことも、瑠都が自分で選んだことなのだ。


 あのまま連れ去られていたら、どうなっていたのだろう。考えただけで身震いする。安堵と申し訳なさで胸をいっぱいにした瑠都の背後で鳴る、もう一つの足音。


 振り返った瑠都の目線の先にいたのは、同じように宝石店から連れてこられた女だった。暗闇の中で瑠都を励ましてくれた、視える女。


 瑠都と同様ガレによって助け出された女は、静かに瑠都を見つめていた。左耳の下で一つに纏められた紺色の長い髪が風に靡く。女は瑠都と視線がかち合ったことに気が付くと、その場で膝を付いた。


「え……あ、あの」


 焦った瑠都が、女とガレを交互に見た。ガレも女の行動の意味が分からなかったのか、不思議そうな顔をしている。瑠都の戸惑いに気付いているはずの女は、それでも顔を上げることなく口を開いた。


「リメル様とは知らず、無礼な振る舞いをいたしました。申し訳ございません」


「そんな……」


 ガレが呼んだ瑠都の名を聞いた女は、瑠都がリメルだと気が付いたらしい。


「私は占者キィユネの弟子、アヴィハロ。あなたの話は日頃より、キィユネ様からも伺っております」


「キィユネさんの……。あの、顔を上げてください」


 瑠都は女、キィユネの弟子だというアヴィハロの側へ寄った。躊躇いながら肩に触れても、アヴィハロは動こうとしない。共に暗闇の中に閉じこめられていた時とは、口調も態度も違ってしまった。


 瑠都がアヴィハロにかける言葉を探していると、メイスと王国軍の護衛・警備部隊隊員二人がやってきた。すぐにレスチナールへと戻ることになり、瑠都はそれきりアヴィハロと話す機会を失ってしまった。




「どうしたの? やっぱりどこか痛むの? 大変だわっ!」


「ち、違うの。ごめんね、ちょっと一昨日のこと思い出してて……」


 マリーの悲鳴にも似た声で、現実に引き戻される。本当かしら、と疑うマリーに、本当だと繰り返す。


「……本当に?」


「うん、ほんと」


 安心させるために笑顔を見せた瑠都を、マリーはもう一度強く抱き締めた。


「心配したんだから……」


「……ごめんね、マリー」


 瑠都もマリーを抱き締め返す。柔らかな温もりは、どこまでも優しかった。扉の近くで控えている侍女も、温かな眼差しで二人を見守っていた。


 体を離したマリーは、拗ねたように頬を膨らませた。


「一昨日も昨日も会いにいこうと思ったのに、どちらもお父様に止められたの! 一昨日は『今日はもう日も暮れる。ルトも休みたいだろうからやめておきなさい』って言われたし、昨日は『ルトはまだ疲れているだろうからやめておきなさい。明日会う約束をしているんだろう』って! ひどいでしょう、まるでわたくしがいるとルトの心が休まらないみたいじゃない」


 そんなことないわよね、と瑠都の両肩を掴んで揺らしながら同意を求めるマリー。つい先程まで泣きそうな顔で瑠都のことを心配していたというのに、今ではすっかり子どものように父親であるスティリオへの不満を述べている。


「う、うん……」


 揺らされながらも同意する瑠都。


「……そういうところですわマリー様」


 スティリオが止めた理由を冷静に分析する、呆れた様子の侍女の声が聞こえた気がした。


 一通り騒いでやっと落ち着いたマリーが、体勢を整えるようにソファに座り直す。


「まあいいわ、こうしてルトも無事だったわけだし」


 こほん、と咳払いしたマリーが、猫のような大きな目に瑠都を映す。


「今日はここでお話しましょう」


「え? でも、今日はタツさんのところに行くんじゃなかったの?」


「そのつもりだったけど、ルトはまだ体を休めたほうがいいわ。今日は植物園にいくのはやめておきましょう。タツにももう伝えてあるの」


「そうなんだ……ごめんね」


「どうしてあなたが謝るの?」


 マリーはおかしそうに笑った。


 瑠都とマリーは今日、植物園にいる庭師のタツの元へ行く約束をしていた。幾分か歩かなくてはならないが、この客室と植物園は同じ城の敷地内。無理をしなくても行ける場所であるし、植物園でもそれほどの重労働をするわけではない。


 それなのにマリーは瑠都の体を心配して、その予定を変更してくれたらしい。


「……ありがとう、マリー」


 そう言えばマリーは、一瞬だけきょとんとした表情になった。けれどすぐにまた笑んでくれる。それはとても優しくて、綺麗な笑みだった。


「さ、お茶を用意してちょうだい」


「かしこまりました」


 言い付けられた侍女が、礼をして部屋から出ていく。二人になった室内で、マリーは再び一昨日のことを切り出した。


「でもすぐに見つかってよかったわ。ジーベルグからも出てしまっていたら大変だったもの」


「うん……。メイスがね、私と別れる前に宝石店について話してたことを思い出して、もしかして、と思って見にきてくれたんだって」


 メイスは、瑠都が待っているはずの場所へガレと共に戻ってきた。だがそこに瑠都の姿はなかった。宝石店かもしれないと予想して、そこで縛られた店主を見つけたメイスの不安と焦りはきっと、相当なものだっただろう。


 助け出された瑠都に触れたメイスの手は、微かに震えていた。


「そうなの……メイスを褒めてやらなくてはね」


 マリーは感心したように言った。それと同時に客間の扉が開く。出ていったばかりの侍女が、お茶の用意を携えて戻ってきた。あまりの早さに驚く瑠都の横で、マリーはそれが当然であるかのごとく受け止めていた。

 そんなマリーが何気に切り出した言葉に、瑠都の動きがぴたりと止まった。


「キィユネの弟子も一緒だったんでしょう」


 固まったまま動かない瑠都の顔を、マリーが覗き込む。


「ルト? どうかしたの?」


「う、ううん。なんでもないよ」


 笑って誤魔化す瑠都を怪しげに見つめるマリー。二人の前にあるテーブルの上には、侍女が鮮やかな手付きでソーサーやカップ、菓子を並べていっている。


「そう、一緒だったの。キィユネさんの弟子のアヴィハロ、さん」


「すごい偶然もあったものね。キィユネの唯一の弟子だからいずれ出会う機会もあったのでしょうけど、まさかそれより先に一緒に誘拐されるだなんて」


「私も、びっくりした」


「あの子、わたくしたちと同い年なのよ。だけどあまり話してくれないから、仲良くはできていないの。ねえ、どんな子なの? たくさん話した?」


 たくさん、話したよ。そう答えてから、瑠都は慰めてもらったことや夢占いのことをゆっくり口にしていった。興味深そうに聞くマリーに話しながら、瑠都はアヴィハロの姿を思い出していた。


 まっすぐに瑠都を映した、アヴィハロの灰色の瞳。なんらかの感情を滲ませたあの眼差しが、いつまでも脳裏にちらついて離れなかった。





 マリーと別れた瑠都は、城の回廊を一人で歩いていた。館まで送るというマリーや侍女の申し出を瑠都が断るのもいつものことだ。茜に染まり始めた空を見て、随分長い間話し込んでいたのだと知った。


 瑠都の足音だけがこつりと響く。目を伏せて歩く瑠都の体を、心地のいい風が撫でていった。


 ふと前方で人影が揺れた。意図せず自然に顔を上げた瑠都の視線の先に、一人の女が立っていた。


「……アヴィハロさん」


 瑠都の声が聞こえたのかは分からない。瑠都より先にこちらの存在に気が付いていたらしいアヴィハロは、回廊の先で立ち止まったまま、動こうとしなかった。


 動きを止めた二人を、淡い茜色が染めていく。落ち始めた影が、回廊の先にすっと伸びていた。


 やがて、二人は同時に歩き出した。再び足を止めた時も、瑠都とアヴィハロの間には一定の距離があった。互いが懸命に手を伸ばしても、指先が僅かに触れ合うだけだろう。


 アヴィハロは町娘のようなドレスを着ていた。師であるキィユネと同じマントを纏うこともなく、たくさんの宝石で彩られてもいない。右耳に一つだけ付けられた翡翠色の細長い耳飾りが、小さく揺れて目を引いた。


「どうしてここに?」


 口火を切ったのは瑠都だった。とりとめのないものではあったが、懸命に捻り出した質問でもあった。一拍置いてから、アヴィハロはゆっくり口を開いた。


「キィユネ様がスティリオ様とお会いになっているので、その付き添いに」


「なるほど……」


 納得した瑠都が声を上げる。そしてそれっきり、訪れる静寂。


 アヴィハロを見つめる瑠都とは違って、アヴィハロの視線はずっと瑠都から逸らされていた。その表情からは、なんの感情も読み取ることができなかった。



 一昨日は、暗闇の中で励ましていてくれてありがとう。言いたくないことまで、言わせてしまってごめんね。あなたがいてくれたこと、話してくれたこと、とても心強かったの。


 伝えたいことはたくさんあるのに、声にならない。暗い馬車の中にいた時と同じだと、瑠都は思った。


 あの時瑠都は、躊躇いから紡ぐべき言葉を見つけ出せずにいた。けれど、今は違う。瑠都はアヴィハロの反応が怖くて、何も言えなかったのだ。今どんな言葉を発して、気持ちを伝えたところで、アヴィハロは何も受け取ってくれない気がした。


 暗い馬車の中にいた時と違って、今はアヴィハロの姿がこんなにもはっきり見えている。立場も名前も知って、なんの隔たりもなく向き合っている。

 それなのに、暗闇で一緒にいた時より、二人の距離はずっと遠くなってしまった。寂しい、なんて、わがままだっただろうか。


「……もうすぐキィユネ様もお帰りになられると思うので、私もこれで。失礼します」


 沈黙を破ったアヴィハロは一礼してから、瑠都の横を通り過ぎていく。

 瑠都は思わず、去っていこうとするアヴィハロの細い腕を掴んでしまった。アヴィハロが振り向くと同時に、慌てて手を離す。


「ご、ごめんなさい」


 無意識に引き止めてしまった。やっと絡まった視線に、それを望んだはずの瑠都が戸惑う。一度口を結んでから、意を決して切り出した。


「……一昨日は、ありがとう。それから、ごめんなさい」


 アヴィハロの瞳が一瞬だけ揺れた。


「あの、これからも……馬車の中にいた時みたいに、普通に話しても、いい?」


 年は近いと思うから、普通に話していいよ。それは、アヴィハロが瑠都にかけてくれた言葉だ。


「……もちろんです」


 アヴィハロは短く答えた。瑠都はその答えに眉を下げて、続ける。


「私だけじゃなくて、できればあなたにも、そうしてほしい」


 互いがありのままでいられる、壁のない関係。あの暗闇の中にいた、二人のように。


「いえ、私は……」


 アヴィハロがすぐに示したのは、否定だった。けれど自ら言葉を切って顔を横に向けたアヴィハロは、思案するように目を細めた。

 横顔を見つめる瑠都は、そっと後悔した。


(また、悲しい目――)


 一昨日も見た、アヴィハロの表情。言ってはいけないことを、願ってはいけないことを、口にしてしまったのかもしれない。後悔する瑠都に、アヴィハロはゆっくりと向き直った。


「分かった。あなたがそう望むなら」


 決心したように、アヴィハロはそう言った。


「ほんとに、いいの?」


「うん」


「ほんとに?」


「うん」


 どこかで聞いたやりとりだと思いながら、瑠都は何度も確認をする。

 端的に答えるアヴィハロの口調は、確かに馬車の中にいた時の調子に戻っていた。


「ありがとう」


 礼を述べた瑠都の顔が、嬉しさと安堵から綻んだ。胸元を押さえながら笑顔になった瑠都を見て、アヴィハロが問う。


「そんなに嬉しいことなの?」


 簡単に読み取られてしまうほど喜びが滲み出ていたのだろうかと、瑠都は多少の気恥ずかしさを覚えた。だが率直な問いに、隠すことなく素直に答えた。


「もちろん」


 もしかしたら、答えたその声は少し弾んでいたのかもしれない。


「そう」


 受け止めたアヴィハロが、微かに口角を上げた。

 

 

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