第37話 暗闇と視える者

 

 

 体を揺らした振動に、徐々に意識が引き戻されていく。微かに声を漏らしながら、瑠都はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。しっかりと開いたはずの目に映るのは、一面の暗闇。


「……まっくら」


 頭が鈍い痛みを訴えていて、うまく思考することができない。こめかみに触れようとして、瑠都はようやく、自身の手が体の前で縛られていることに気が付いた。


「え……」


 どんなに力を込めても、手が自由になることはなかった。恐怖心が一気に込み上げてくる。それと同時に、意識を失うまでのことがはっきりと蘇った。


 変わった店主が営んでいるという宝石店。二つの大きな麻袋。縛られた店主と、現れた男。


 男に妙なものを嗅がされてからの記憶がまったくない。あの男が、きっと瑠都をここに連れてきたのだ。恐怖と不安に支配されて、瑠都は唇を噛んだ。


 瑠都がいる場所は、光が完全に遮断されていた。相変わらず真っ暗な視界。なんとか状況を把握しようと、体を動かしてみる。頬からは、固くて冷たい感触がした。耳に入る音と、体に伝わる振動。どうやら、何かの乗り物の床に寝かされているらしい。


 縛られた手を使って、無理に体を起こした。薬の影響か未だに体は重く、頭もぼんやりとしている。起きあがった際に背に触れた壁へと、そのまま身を預けた。



 メイスとガレは、どうしているだろうか。あれからどれほどの時間が経ったのか分からない。待っているばずの瑠都がおらず、慌てて探してくれているかもしれない。


(何してるんだろう、私……)


 迷惑も、心配もかけて、いったい何をしているのだろう。


 こんなはずではなかった。今日は町の図書館に行って、ゆっくりと過ごす予定だったのだ。夕方になる前に館へ帰って、留守番をしているルビーを抱き締めて、ミローネやフーニャに、今日の出来事を話して。そんなふうに穏やかに、過ごしていけると思っていた。


「どうしよう……」


 どうにかしてここから逃げ出さなくては。早く方法を考えようと思うのに、頭をよぎるのは後悔ばかりだった。


 鼻の奥がつんとする。泣いてはいけない、何度もそう自分に言い聞かせた。



「……目が覚めた?」


 一人きりだと思っていた空間に、唐突に響いた知らない声。驚きのあまり体を仰け反らせた瑠都は、背中を預けていた壁に思い切り頭を打ち付けた。ごん、という大きな音が虚しく響く。


「いたっ」


「……大丈夫? 驚かせたなら、ごめん」


 思わず声を上げた瑠都に、また誰かが話しかける。落ち着いた調子で紡がれる声は、若い女のものだった。


 未だ激しく動悸する胸を縛られたままの手で押さえながら、瑠都は顔を動かして辺りを探った。けれど暗闇の中では、声の主を探し出すことなど不可能だった。


 瑠都と同じように、あの男に連れてこられたのか。いつからここにいるのか。驚きから立ち直りきれていない瑠都が、何から問うべきなのか迷っていると、見計らったかのように女の声が響いた。


「あなたも宝石店で捕まったの?」


「はい……」


「そう、私も同じ。使いで行ったら宝石強盗が入ってきた」


 瑠都は嫌な気配を感じた麻袋を思い出した。あの中にはやはり宝石が入っていたのだ。瑠都も女も運悪く強盗に出くわして、 攫われてしまった。


「……あのおじいさん、大丈夫でしょうか」


 自身も自由を奪われているというのに、瑠都に逃げろと言ってくれた宝石店の店主。どうか無事であってほしいと祈りながら、瑠都は小さな声をこぼした。


「大丈夫、無事」


 女は端的に言った。確証があるかのように言い切った女に、瑠都は少しの違和感を覚えた。


「あの……ここはどこなんでしょうか」


 瑠都よりも先に起きていた女は、もしかしたら知っているかもしれない。違和感を拭えないままではあったが、期待を込めて尋ねてみる。けれど女は一拍置いてから、別の話を切り出した。


「普通に話していいよ、私もそうしてる。……きっと、年は近いと思うから」


「え? う、うん……」


 なぜ、年が近いと思ったのだろう。戸惑いつつも了承を示した瑠都の返事を聞いてから、女は先程の瑠都の疑問に答えた。


「今いるのは商人用の馬車の中。一度目を覚ました時に見た。どこに向かってるかは分からないけど、ジーベルグからは今日中に出るつもりかもね」


「そっか……」


 走る馬車が揺れる度、体に振動が伝わる。馬車が進むにつれ、瑠都の知る場所が遠ざかっていく。強くあらねばと思うのに、気持ちは益々沈んでいった。


 真っ暗な馬車の中、声色を落とした瑠都の不安に気が付いたのか、女は慰めの言葉を口にした。


「安心して」


 短い言葉に、瑠都は顔を上げた。相手の姿はやはり見えるはずもない。


 落ち着き払った、あっさりとした口調の女。その言葉からはずっと、なんの不安も焦りも感じない。


「……うん」


 一人きりで心細かった暗い空間に、同じ境遇の、それも年齢も近いらしい誰かがいてくれるのは、心強かった。消えることのない後悔を、今ならば少しだけ閉じ込めておける気がした。


「……もうすぐ、」


 暫しの沈黙のあと、女が不意に切り出した。

 馬車の中の空気が変わったことに、瑠都は気が付いた。ぴんと張り詰めた緊張感に、心がざわりと音を立てる。


「もうすぐ助けが来る。あなたの知っている人が、あなたを助けようと、すごい速さでこっちに向かってる。だから大丈夫。安心していい」


 荘厳さを放ちながら、女は少しの淀みもなく言い切った。そうまるで、予言のように。


「薬が影響してるせいか、今はここまでしか分からない。ごめん、私は……役立たずだから」


 瑠都は暗闇を見つめながら、女の言葉を頭の中で繰り返す。先程から生じていた違和感の正体が、はっきりと分かった気がした。


「もしかして……視えるの?」


 瑠都は静かに、そう尋ねた。


 常人では知り得ないことを、見透かし、読み取り、感じ取る。不思議な力を持った、視える者。


 女は何も答えない。


 瑠都はそんな女を、急かさなかった。ただ静かに待つ瑠都の耳に、やがてまた女の声が届いた。


「……気味が悪いでしょう。忘れていい。ここから出たら、私のことも、私が言ったことも、忘れて」


 返ってきた言葉に、瑠都は息を飲んだ。



 女は、視えることなど、本当は知られたくなかったのではないだろうか。気味が悪いと自ら言った女が、その力を肯定しているようには思えなかったのだ。


 けれど沈む瑠都を慰めようと、励まそうと、女は視えたことを教えてくれた。


――あなたの知る人がもうすぐ助けにくる。だから大丈夫、安心して。


 その言葉のどこが役立たずで、気味が悪いというのだろう。


「そんなこと……そんなことない」


 視える女の辛さも、悲しみも、瑠都は何も知らない。だから、伝えたいことはたくさんあるはずなのに、何から口にすればいいのか分からなかった。それなのにいつの間にか、瑠都の口は勝手に言葉を紡いでいた。


「忘れたりなんか、しないよ……ありがとう」


 暗闇の中から、そう、と女のか細い声が聞こえた。


 また沈黙が訪れる。このまま、女はもう何も言わないだろうと瑠都は思った。ここから出たら、女はそっと瑠都の前から姿を消すのだろう。もう二度と、出会うこともないのかもしれない。なぜかそれが、悲しかった。


「あの……夢占いとかって、できる?」


 妙なことを言っている自覚はあった。苦し紛れに絞り出した話題。ぎこちない言葉は、女まで届いただろうか。


「……夢占い?」


 一拍置いてから、女は反応を示した。


「できるけど、どうかした?」


「最近、よく見る夢があって。何か意味があるのか知りたいの。よかったら……教えてほしいなと思って」


 窺うように言った瑠都に女は、いいよ、と返した。


「どんな夢?」


 調子の戻った女の声色に、瑠都は安心して息を吐いた。


「銀色の、狼の夢。前に、よくない夢だって言われたことがあって」


 マーチニにも前に一度、夢のことを話した。その時マーチニは、銀色の狼は不吉な物の象徴だと教えてくれた。


「確かに不吉。銀色の狼はこの世の嫌われ者。悪に味方して、闇に支配された愚かしい一族。夢で見るなんて、聞いたことがない」


「そうなんだ……」


 女は、銀色の狼の夢を見る人に出会ったことはないらしい。そんな不吉な夢を頻繁に見る自分は、いったいどうしたというのだろう。


 けれど瑠都の夢に出てくる狼は、悪や闇という暗いものからは大きくかけ離れているのだ。静かに佇む狼に脅威を感じたことは一度もない。

 そのことを女にも伝えようとするが、視える女はすでに見透かしていたらしい。


「でも、あなたは狼が恐ろしくはないんでしょう」


「う、うん」


「だったらきっと、別の意味を持つんだと思う」


「別の、意味?」


 耳を傾ける瑠都に、女は続けた。


「もしかしたらその狼は、鋭い牙で切り開こうとしているのかもしれない。あなたの未来や、運命や、心を。何かが変わる、そのために狼は待っている。夢の中で、あなたに見える所で、ずっと示している」


 瑠都は夢の中で見た、銀色の狼のまっすぐな眼差しを思い出した。夜明け前の空のように輝く、綺麗な藍色の瞳。


(狼は、待ってる。何かが変わる、そのために)



 突然、瑠都と女を乗せていた馬車が止まった。急に止まったことで大きく揺れ動き、瑠都は体勢を崩した。倒れんだ床に側頭部を打ちつける。ごん、と響いた音は外の喧騒にかき消された。


 激しく争う音と怒鳴り声に、瑠都は今日二度も打った頭の痛みもすっかり忘れて、慌てて体を起こした。


 喧騒はすぐにんだ。そして暗闇に光が差しこむ。誰かが馬車の荷台に繋がる入り口を開けたのだ。


 大きくなっていく光に照らされて、瑠都は久しぶりのまばゆさに目を細めた。入り口を開けた人物の姿は、逆光で影になっていた。


「ルト様!」


 その人物は瑠都の姿を認めて名を叫んだ。聞き覚えのある声、光に慣れてきた目が映した大きな体。


「ガレさん!」


 見知った頼もしい存在に安堵して、瑠都の体から力が抜けた。息を切らしたガレも、瑠都の無事を確かめて、幾分か表情を和らげた。


 ガレの背後から、一陣の風が舞い込んだ。その風に導かれるようにして、瑠都は光が差した馬車の中に目を向けた。


 反対側の壁に、瑠都と同じように背中を預けた女がいた。左耳の下で一つに纏められた長い紺色の髪が、風に吹かれて揺れている。


 女は目を見開いて瑠都を見ていた。淡い色をした唇が、ガレが呼んだ瑠都の名をかたどった。


 だが、女はすぐに驚きの表情を消した。また唇が動く。今度はそれがどんな音で紡がれて、何を意味していたか、瑠都には分からなかった。


 何かを悟ったかのような切なげな眼差しで瑠都を捉え続ける。女は、とても悲しい目をしていた。

 

 

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