第35話 矢印が向かう先

 

 

 激しく降り続く雨の音が、館の中にまで聞こえてきていた。まだ昼間だというのに、どんよりとした空を窓越しに見上げても一筋の光すら見つけることができない。


 瑠都は静かな部屋の中、ベッドの上で寝息を立てる桃色のぬいぐるみに視線を移した。ルビーは昼も夜も関係なく、よく眠る。瑠都がルビーに与えているリメルテーゼが関係していたりするのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、瑠都はベッドに近付いた。


 ルビーの頭をそっと撫でると、僅かばかり身動みじろぎする。ぬいぐるみなので、閉じることのできない目は開いたままだ。宝石のような赤い目が、室内の明かりを受けてきらきらと輝く。


 瑠都はルビーをもう一撫でしてから、物音を立てないようにして扉へと向かった。目的地の定まっていない散策。今日は雨が降っているから、館の中だけになるだろう。

 伏し目がちにゆっくりと開いた扉の先に、影が差していた。驚いた瑠都はそれが誰の影か確かめるため、勢いよく顔を上げた。


 そこには、瑠都の想像から一番外れた人物が立っていた。灰色がかった水色の髪に、澄み切った空のような青の目。銀色の縁をした眼鏡の向こうからその目に見下ろされて、瑠都の背筋がぴんと伸びた。


 エルスツナは、瑠都の部屋の真ん前に立っていて、今も部屋の主を見下ろしている。偶然前を通りかかっただけかもしれない、という希望にも似た考えはすぐに立ち消えた。


「いつから、ここに……」


「ついさっきだ。ずっと立ち尽くしていたわけがないだろう」


「……えと、何か、用ですか」


「用もないのに来るわけがないだろう」


 ならば、その用とやらを早く言ってくれればいいのに。内心でこっそり思った瑠都が口を噤んだ時、エルスツナは手に持っていた何かを瑠都に押しつけた。柔らかな感触を思わず受け取ってしまった瑠都は、まじまじとその物体を見た。


「……ぬいぐるみ?」


 ルビーの半分ほどの大きさしかない、白いクマのぬいぐるみ。ルビーと同じように、きらきらと輝く宝石のような目は、緑色をしている。確かに可愛らしいのだが、なぜエルスツナは急に、このクマを瑠都に差し出したのか。


 頭上に疑問符を浮かべる瑠都の戸惑いをさして気にすることもなく、エルスツナはその冷静な眼差しを瑠都に向け続けている。


「それを側に置いておけ」


「え?」


「リメルテーゼが充分に満たされれば、それもあのうさぎみたいに動くかもしれない」


「ルビーみたいに……」


 瑠都は腕の中のクマを見た。今はぴくりとも動かない、ただのふわふわのぬいぐるみ。リメルテーゼを得れば、命を宿したように動き出すのだろうか。


「あのうさぎが動き出したことに、リメルテーゼが関係していることは明らかだ。しかし、魔法を使ったわけでもないのに、どうやって充分なリメルテーゼが渡ったのかは分からない。ただ側に置いておけばいいのか、もっと特別な要因があったのか」


 エルスツナは考え込むように眉根を寄せながら、饒舌に話し始めた。


「だからそれを側に置いておけ。特別なことをする必要はない。あのうさぎと同じように扱って動き出したなら、リメルテーゼの高い有能性が証明できる。そうなれば、もっと色々なことに活用できるはずだ」


 普段はほとんど瑠都に話しかけることもなく、なんの関心もなさそうに横を通り過ぎるだけのエルスツナ。職場である魔法研究所に籠もって、家に帰ってこない日も多い。そんなエルスツナが、今はこうもまっすぐに、瑠都と向き合っている。

 並々ならぬ魔法と魔力への情熱。どうやらそれはリメルテーゼにも向けられていて、ルビーを動かした不思議な魔力のことを解明したいようだった。


 頼んだ、とも、協力してくれ、とも言わないエルスツナ。瑠都が了承の意を示すのも待たず、何に活用するのかと聞き返す暇すら与えずに、その場を立ち去った。


 部屋の前にぽつりと残された瑠都は、遠のくエルスツナの背中を見つめながら、腕の中のぬいぐるみを抱き締めた。





 しばらく立ち尽くしてから、あてどなく歩き出した瑠都は、館の一階にある、書庫へと辿り着いていた。


 椅子に腰掛けると、抱き締めたままだったクマのぬいぐるみを、目の前のテーブルの上に座らせた。


 動き出す前のルビーと同じように扱えばいいのなら、ここまで持ってくる必要はなかったのだが、なんとなく持ってきてしまった。


 瑠都は人差し指で、クマの鼻を軽く突いた。


 ルビーの赤と色違いの、輝く緑の目。託されたこのぬいぐるみがいつか動き出したとして、その時、エルスツナはなんと言うのだろう。


「……あの子がルビーなら、君はエメラルドだね」


 白いクマは、今はまだ何も答えない。当たり前なのに、瑠都はそれが少しだけ寂しかった。



「……ルトさん?」


 唐突に声を掛けられて、瑠都の肩がびくりと跳ねた。慌てて顔を上げると、本棚の横にフェアニーアが立っていた。


「フェアニーアさん」


 思わず立ち上がった瑠都に、フェアニーアが近付いてくる。


「ごめんなさい、邪魔してしまって。誰かいるとは思わなくって……」


 読書を邪魔した上に、一人言を聞かれてしまったかもしれない。瑠都の顔がほんのりと赤くなる。フェアニーアは、にこやかな笑みを浮かべた。


「いえ、邪魔になどなっていませんよ」


 瑠都に着席を勧めてから、フェアニーアは持っていた数冊の本をテーブルの上に置いて、自らも瑠都の隣の椅子に腰掛けた。


「そのぬいぐるみは?」


 クマを見つめたままのフェアニーアに尋ねられて、瑠都はこれまでの経緯を話した。話が進むにつれ、フェアニーアの顔付きが段々と険しくなっていく。


「……ったく、エルのやつ」


 フェアニーアは呆れたように小声で言った。


「すみません、いつもエルが失礼なことばかりして。言う通りにしなくてもいいんですよ」


「いえ、そんな……。側に置いておくだけなら、簡単ですし。私にできることがあるなら、協力させてください」


 申し訳なさそうに眉を下げながら、フェアニーアはありがとうございますと、感謝の言葉を口にした。


 フェアニーアは相変わらずクマを見つめている。クマの向こうに、不躾で一方的な幼なじみの姿を見ているかのような、険しい眼差し。


 沈んだ雰囲気を変えようと、瑠都が口を開いた。


「フェアニーアさんは、ずっとここにいたんですか」


「え、ああ……はい。本当は町の図書館に行こうと思っていたのですが、あいにく、この大雨でしたので」


 激しい雨音が書庫にまで届いている。出掛けるのも躊躇ってしまうほどの、激しい雨。図書館という言葉に、瑠都が反応した。


「図書館、私も行こうと思ってたんです」


「そうなんですか」


 笑みを見せた瑠都に、フェアニーアもまた表情を緩める。それにほっとして、瑠都は続けた。


「雨がすごかったから、明日に延期したんです」


 本当は図書館のあと、公園で遊ぶ子どもたちの所へ行くつもりだった。明日は子どもたちがいない日なので、目的地は図書館だけになるだろう。


 けれどそのことを、瑠都はフェアニーアには話さなかった。


 公園に通っていること、フェアニーアならば咎めることも、止めることもないだろうに。深い意味もないまま、瑠都はそれ以上のことを言葉にしなかった。


「町の図書館は大きいですから、きっと気に入る本がたくさんあると思いますよ。明日は仕事なので、ご一緒できないのが残念ですが……また今度、一緒に行きましょうね」


「はい」


 微笑み合った瑠都とフェアニーア。

 明日はガレと一緒に行く予定だということ。学校が休みだというメイスも誘おうかと思っていること。のんびりと話してる間も、雨音は鳴り続く。


「フェアニーアさんは、図書館に行くことも多いんですか」


「そうですね、休みの日にはよく行きますよ。それに、図書館のあとは……」


 フェアニーアは、そこでぴたりと言葉を止めた。考え込むような仕草を見せたフェアニーアに、瑠都が不思議そうに首を傾げた。


「フェアニーアさん?」


 瑠都の呼び掛けに引き戻されたらしいフェアニーアが、慌てたように取り繕う。


「すみません、なんでもありません」


 フェアニーアは微かな笑みを浮かべながらも、そっと瑠都から視線を逸らした。



 躊躇う理由なんて、ないはずだろう。


 図書館のあとはいつも公園に寄るのだと、はっきりそう言ったところで、なんの後ろめたさもないはずだろう。公園には、子どもたちがいて、恩師がいて、そして時折、とても不思議な人が訪れるらしいのですと、そう言うだけで、よかったのに。



――気があるのか、そのルルとかいう女に。


(何を言うんだ、ジャグマリアス様は)


 違う、そんなこと、あるわけがない。あの日からずっと、フェアニーアは頭の中で、何度も否定を繰り返していた。


 ただ高貴な人が、子どもたちに会うためだけに公園に通うなど珍しいから、気になるだけなのだ。子どもたちが楽しそうに、レマルダが穏やかにその人のことを語るから、どんな人か知りたくなっただけなのだ。


(それだけの、はずだろ……)


 今日は、朝から雨が降っている。


 ルルという名の不思議な人も、この雨空を見上げて、公園に行くことを諦めたりしたのだろうか。

 もし、晴れていたならば、今日こそ会えていたかもしれない。


 フェアニーアは自分が考え付いたことに驚いて、息を飲んだ。


(俺は今、何を……)


 横を見れば、瑠都が相変わらず心配そうに、フェアニーアを自身の黒い目に映していた。


 やめよう。こんなこと考えるのは、よくない。

 意思など関係なく、天に定められて自分の妻となったこの人を、悲しませたくはない。その気持ちは、確かに本物だった。


「……もうすぐですね、パーティー」


「え?」


 話題を逸らしたフェアニーアに、瑠都は小さな声で、そうですね、と返した。


「この間、仕立て屋さんが来てくれたんです」


「ああ、あの強烈な……」


 フェアニーアも仕立て屋のことを知っていたらしい。


 あの日、たっぷりと時間は掛かったが、なんとかパーティーで着る瑠都のドレスのデザインが決まった。

 長時間に渡る議論に疲れを覚えたのも確かだが、瑠都以上にミローネとフーニャ、仕立て屋が疲れていたことを思い出した。


 それに、仕立て屋が館に来た日は、瑠都とジュカヒットが、玄関の扉の前で偶然会った日でもある。



――それなら、逃げるか、俺と。


 低く響いた声が、今でも鮮明に思い出せる。ジュカヒットは何を考えながら、あの言葉を口にしたのだろう。


 消えない声が脳裏に甦って、顔に熱が宿ったのが分かった。フェアニーアから顔を隠すように、クマのぬいぐるみへ視線を移す。



 それから瑠都とフェアニーアは、とりとめのない話ばかりをした。時折訪れる沈黙の間に聞こえる、やまない雨音。早くやめばいいのにと思いながら、それぞれの思考を隠すような激しい雨が、どこかありがたくもあったのだ。

 

 

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