第32話 新たな風

 

 

 とある日の昼下がり。ジーベルグ王国軍第二部隊隊長の執務室で、憧れ、尊敬する上司を前にしたフェアニーアは、一人の女について語っていた。


「子どもたちが言うには、とても不思議な方だそうです」


 フェアニーアは穏やかな顔をしているが、どこか楽しそうでもあった。


「優しくて明るい方だけれど、世間知らずで、けれど物知りでもあって。若くして高貴な身なりをしており、ふらっと立ち寄っては、共の者につれられて帰っていく。どこかの物語から飛び出してきた、名のない姫のようだと」


 確認し終えた書類を机の上に置いて、ジャグマリアスは背もたれに身を預けた。机の前に立っているフェアニーアに視線を移す。深い海のような青に見つめられても、フェアニーアは綻ぶ顔を隠すことはない。


 レマルダ先生はお元気か、と不意に尋ねたジャグマリアスに答える形で話し出したフェアニーア。レマルダ、子どもたち、そして時折公園にやってくるという女へと話題が変わっていく。


「私は会ったことがなく話を聞いただけですが、とても聡明で快活な印象を受けました。ルルという方なのです……ジャグマリアス様もご存知ではないですよね」


「聞いたことのない名だな」


「やはり……」


 呟くように落としたフェアニーアとは対照的に、ジャグマリアスは僅かな笑みを浮かべた。


「残念そうだな。気があるのか、そのルルとかいう女に」


「えっ、そ、そんな」


 顔を赤くしたフェアニーアは、すぐに否定の意を示す。狼狽える姿には栄誉ある軍人の風格はなく、年相応の青年の戸惑いが見て取れた。


「何をおっしゃるんですかジャグマリアス様。会ったこともない人ですよ。それに私はリメルフィリゼアという、身に余る立場を授かっていて……」


 リメルの夫、リメルフィリゼア。天から与えられた栄えある立場に持して、他の女性を想うことなどあってはならない。それが、フェアニーアが己に課した戒律だった。


 いくらリメルフィリゼアに、リメルの他にもう一人伴侶を得てもいいという特権があったとしても、フェアニーアは一生リメルとだけ添い遂げるつもりだ。


 いかにも真面目なフェアニーアらしい考えだとジャグマリアスは思った。そしてもう一つの、隠された気持ち。見通したジャグマリアスは、やはりそれもフェアニーアらしいと感じたのだ。真面目で優しい男、昔から何ら変わらないひたむきな姿。


 リメルを、瑠都を、傷付けたくない。戒律を抱いたフェアニーアの、もう一つの気持ち。


 つい先日までマーチニのことで気をふさいでいた瑠都を見て、その気持ちは一段と強くなった。


 だからあってはならないのだ。会ったこともない女に、想いを馳せるなど。


「まあいい」


 ほのかな笑みを浮かべたままのジャグマリアスに、違いますからねと念を押すフェアニーア。そんなフェアニーアに、ジャグマリアスはリメルについての話を切り出した。


「パーティーのことだが、私からルトさんに話そう」


「やはり声を掛けられるのですね」


「心配か」


「いえ、そういうわけでは。ただ慣れない場所でしょうから……」


 フェアニーアは言葉を濁した。


「かといっていつまでも隠しておくわけにいかないだろう」


 それに、と続けたジャグマリアスの言葉を、フェアニーアは静かに聞いた。


「間違いなくリメルはこの世界に訪れ、私やフェアの妻となった。それを知らしめるいい機会だ」


 ジャグマリアスが笑みを消した。背後にある大きな窓から入る日の光を浴びて、眩い金色の髪が更なる輝きを放った。美しく、誰よりも強い心を持った人。その心に一筋の冷たさを刻んだ人。出会った時からずっと変わらない、憧れ、尊敬する孤高の光。


 幼い情景を思い出しながら、フェアニーアは揺るがない眼差しをジャグマリアスに向け続けた。





「……夢かしら」


 マリーは瑠都とメイスの間に立っている淡い桃色のぬいぐるみを見て、思わず頬に手を当てた。


「わたくしにはルビーが動いているように見えるのだけれど」


「そうなの、動けるようになったんだよ」


 あっさり頷いた瑠都に、マリーは猫のような大きな目を更に大きくさせた。




 立ったままで説明を受け、やっと事情を理解したマリーは、まじまじとルビーを見た。頭を撫でれば、ルビーは少し耳を垂らして大人しく身を任せた。


「なるほど……リメルテーゼというのは本当にすごいものなのね。魔力を受けて自発的に動けるようになるなんて」


「動けるようになったらますます可愛くなっちゃって。懐いてくれてるし、連れてきちゃったの。ごめんね」


 眉を下げた瑠都に、マリーは笑った。


「いいのよ、人数も多いほうが楽しいじゃない。椅子をもう一つ用意して。……さすがに食事とかはできないわよね?」


 マリーは近くにいた侍女に椅子を待ってくるよう指示したあと、瑠都に尋ねた。瑠都は縦に一度頷いて、ありがとうと口にした。瑠都とメイス、そしてルビーは侍女に席まで案内された。


 城の庭園の一角に用意されたお茶会の席。植物園とはまた違う、草花が咲き誇る広い庭。自然を愛する王家が代々大切にしてきた豊かな景観。


 四つの椅子にそれぞれが腰掛けると、すぐに侍女が紅茶とお菓子を持ってくる。瑠都とメイスを招いたマリーのお茶会は頻繁に行われているが、今日からはそこに桃色のぬいぐるみが加わった。


「でも地面を歩かせていいの? ベッドにも上がるんだし」


 瑠都の隣の席に収まった桃色をまじまじと観察しながら、マリーは以前ルビーが瑠都の部屋でベッドの上に置かれていたことを思い出していた。


「実は、トムさんに魔法の道具をもらったの。このペンダントなんだけど」


 瑠都は手を伸ばすと、ルビーの首元を飾っていたペンダントに触れた。花を象った銀細工の中央にある赤い石が、ルビーの目のようにきらきらと輝いている。


「風とか色々な魔法が織り込まれて、ペンダントに入ってるの。これを着けてる者は汚れないから、ルビーの体の周りは常に清潔な状態を保てるんだって」


 難しくってそれ以上のことはよく分からなかったんだけど、と恥ずかしそうに瑠都が言った。


「トムって、廊下であった魔法員じゃない。そんな高度な魔法が使えたのね」


「ルーガさんにも手伝ってもらったんだって。ね」


「うん」


 同意を求められたメイスが頷く。ふうん、とマリーが声を漏らしても、瑠都の手がペンダントから離れることはなかった。


「……トムさんね、協力したお礼だってこれをくれたの」


 トムから託された白い鳥。録音した声は、少しはトムの、そしてマーチニの役に立ってくれたらしい 。


 瑠都はペンダントからするりと離した手で、ルビーの頬に触れた。命を宿したぬいぐるみ、マーチニからの贈り物。


「……マーチニのこと、解決してよかったわね。仲直りできたんでしょう」


 静かにルビーを撫でる瑠都に、マリーが優しい声色で話しかける。


 この間、城の廊下で会った時とは違う。友であるリメルの顔は晴れやかで、むしろ前よりも幸せそうに輝いているように思えた。それが嬉しくて、マリーの顔もつい綻ぶ。


「うん……。マリーもありがとう」


「わたくしは何もしてないわ。話を聞くことしかできなかったじゃない」


「そんなことない、充分だよ。すごく、嬉しかったから」


 笑い合う瑠都とマリーを、微笑ましく眺めていたメイス。冷めない内にと用意された紅茶のカップに口を付けた。


「で、仲直りのキスはしたのかしら」


「ごほっ、」


 柔らかな空気の中で、マリーが唐突に切り出した。メイスがあわや口に含んだ紅茶を吹き出しかけて、口元を押さえる。


「な……! 何言ってるのマリーっ 」


 慌てて咎めた瑠都の頬がほんのりと色付いたのを察して、マリーの唇が楽しげに弧を描く。


「その慌てよう……怪しいわ」


「もうっ、してないよ。ほ、ほんとだからね……」


 念を押した瑠都が、むせるメイスに大丈夫かと声を掛けた時。お茶会の席に近付いてきた、一つの影があった。


「――何がほんとなの?」


 突然に今までなかったはずの声が聞こえて、驚いた三人は一斉に声のした方向を見た。


 紺色の軍服を身に纏って、へらりと笑った男。


「マーチニさん」


 思わず名前を口にした瑠都に、片手を上げて応える。


「やあ」


 マーチニはルビーを抱き上げると、代わりにその椅子に座った。膝の上に乗せられたルビーが、不思議そうにマーチニの顔を見上げている。


「マーチニさん、どうしてここに」


 当たり前のように席に収まったマーチニに、やっと落ち着いたらしいメイスが喉を押さえながら尋ねた。


「自主的な休憩時間だよ」


「自主的?」


 メイスは、それはつまりサボりなのでは、という言葉を飲み込んだ。言ったところで、そうだよ、と悪気もなく返される気がした。


(……うん、絶対にそう言われるな)


 苦笑いを浮かべたメイスは、とりあえずは事の成り行きを静かに見守ろうと決めた。


「で、なんの話?」


 もう一度問うたマーチニに対し、瑠都は押し黙った。けれど一国の姫には躊躇いも何もなかったらしく、むしろ楽しそうに口を開いた。


「あなたとのことよ。ルトと仲直りした時、キスした?」


「キス?」


 一瞬だけ目を丸くしたマーチニだったが、目を輝かせるマリーと、そんなマリーを止めようとする瑠都を見て、すぐに状況を判断したようだった。


「ああ、キスね……どうだったかな」


 言葉とは裏腹に、さして考える素振りもないマーチニは、ルビーを支えていないほうの手でテーブルに肘をついて、そこに顎を乗せる。

 笑みを浮かべたままで見つめられ、瑠都の頬が染まる。色付いて顔を伏せた妻を映すマーチニの瞳は、優しさと温かさを抱いていた。


「どうなの?」


「知りたいですか」


「もちろん」


 意気揚々と頷いたマリー。テーブルから肘を離したマーチニは、たっぷりと間を空けてからぽつりと呟いた。


「……まあ、マリー様はまだ結婚されてないですからね。聞かないほうがいいかもしれないですよ」


「どういうこと?」


 意味深なマーチニの呟きに、マリーだけでなく瑠都とメイスも首を傾げる。


「知るにはまだ早いってことです。夫婦の話はどうも、刺激が強すぎていけない」


「ごほっ、」


 マーチニがにやりと笑って言い放った言葉に、メイスがまた新たに口に含んだ紅茶を吹き出しかける。


「ということはやっぱり……?」


 マリーが、期待に満ちた目を更に輝かせる。


「してないってば、もうっ」


 慌てて否定した瑠都はやはり頬を染めたままで、恥ずかしそうに瞳を潤ませている。


 きょとんとした顔で、皆(みな)の顔を順に見ていくルビーの頭を、マーチニがそっと撫でた。


「けほっ」


「大丈夫?」


 瑠都は身を乗り出して、メイスの背を軽く擦った。


「な、なんとか……」


 掠れた声で答えたメイスは、マリーとマーチニは組み合わせてはいけない二人だったのかもしれない、とこっそり思った。



 少し離れたところから見守っていたマリーの侍女が、賑やかなこと、とくすりと笑った。


 リメルが訪れる前は、この美しい景観の中でたった一人お茶を楽しんでいたマリー。永遠のものに思えた孤独は、もはや影もない。

 これも天のお導きと感謝した侍女は、さてマーチニの分のお茶も用意しようかしらと動き出したのだった。

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る