第31話 想うために生まれた

 

 

 人影の減った町の中を、瑠都はゆっくりとした歩調で進んでいた。夜が深くなるにつれて人と擦れ違うことも少なくなり、所々に設置された街灯の明かりだけを頼りにただ一人歩く。


 静寂の中で、足音だけがこつりと響いている。輝く月と瞬く星空を見上げることもしない瑠都の体を、冷えた夜風が撫でていった。


 白い鳥は、無事にトムの元まで届いただろうか。


 店からこっそりと抜け出して、ここに来るまでの間、考えていたのはそのことばかりだ。マーチニと、エレーナと、白い鳥のこと。

 うまく録音できていただろうか。マーチニはそれを知って、どう思うのだろう。


 伏せた目の奥にあの優しい笑顔が蘇って、瑠都の足が止まった。



 余計なことを、したのではないだろうか。


 マーチニはトムにはエレーナの嘘のことを教えていたが、瑠都には何も言わなかった。知られたくなかったから、心配を掛けたくなかったから、言ったところでどうしようもないと思ったから。どんな理由にせよ、何も言ってくれなかったのは事実なのだ。


 エレーナとアキの会話を録音したのは瑠都ではなくトムだと、そう伝えてもらおうと瑠都は思った。マーチニはどうして関係のない瑠都がこんなことをしたのかと、責めることはしないだろう。けれどきっと、困ったように笑うのだ。


 それに、マーチニには知られたくなかった。


 外にまで出てエレーナを追ったこと、それほど必死だったこと。泣いてマーチニをふりほどいたくせに、役に立ちたいなんて考えたこと。


 伏せたままの視界が、徐々に滲んでいく。あふれた涙が、一つ二つと地面に落ちて染みを作った。


 どうして急に涙がこぼれたのか、瑠都は自分でもよく分からなかった。ただ締め付けられたように胸が痛くて、せり上がってくるものをこらえきれなかったのだ。


 マーチニとまた、元のように笑い合えるだろうか。遠くなった距離を縮めて、触れた手を解かずにいられる、そんな日常を取り戻せるだろうか。


「……っ、もうやだ、」


 お願いだから止まってと、嗚咽を漏らしながら何度も涙を拭う。拭っても拭っても止まらないそれがひどく疎ましかった。街灯の明かりで伸びた影が、頼りなく揺れる。迷子のように立ち尽くした瑠都を見つける者は誰もいない。



 前方から、一つの足音が聞こえた。


 通りかかった誰かの邪魔にならないようにと、瑠都は濡れた顔を手で隠した。やがてその者は不審がりながらも横を通り過ぎ、帰路に就くのだろう。


 だが、足音は瑠都の前で止まった。


「……ルトちゃん」


 その声を聞いて、また涙がこぼれた。


 聞き覚えのある、優しい声色。顔を上げなくでも瑠都にはそれが誰か分かった。優しい深緑の目をした男が、目の前に立っている。


「どうして……」


 震えた瑠都の小さな声を聞いて、マーチニはそっと手を伸ばした。顔を覆った瑠都の手に、温かな手が触れた。下ろされた手は、そのまま強く握られた。


「ルトちゃん」


 もう一度名前を呼んだ。俯いたままの瑠都はまだ、その瞳にマーチニを映してはくれない。


 マーチニは手を離すと、今度は両手で瑠都の頬を覆った。親指で雫を拭う。


「どうしてここに……」


 瑠都がマーチニに、か細く問う。


「トムが館に来て、ルトちゃんが録音したものを聞かせてくれたんだ」


「え、」


 こんなに早く、という驚きを瑠都が声にすることはなかった。口を閉ざした瑠都の戸惑いを察してか、マーチニが続ける。


「ルトちゃんは部屋にいたはずなのにいったいどうなってるんだって。フーニャさんがもう一度部屋を見たらいなかったから、みんな大慌てさ。でも絶対見つけるからって約束で、俺が一人で迎えにきたんだ」


 瑠都が部屋から抜け出したことは、もう皆に知られてしまっている。その事実に気が付いて、瑠都は謝罪を口にした。


「ごめんなさい」


 マーチニの手が、触れた時と同じように優しく、ゆっくりと瑠都の頬から離れていく。


「謝るのは俺のほうだよ。心配かけて、迷惑かけて……こんな無茶までさせて、ごめんね」


 瑠都は大きく首を横に振った。


 白い鳥が届いてすぐにトムは館へ、マーチニの元まで走っていった。そして、マーチニはすでに録音されたものを聞いている。

瑠都より先に帰ったはずのエレーナは、どうしているのだろう。瑠都はおずおずと尋ねた。


「……エレーナさんは」


「出ていったよ。もう二度と、帰ってくることもないだろう」


 瑠都はエレーナの姿を思い浮かべた。自分という存在に絶対の自信と誇りを持ち、常に顔を上げて前を見据えていた人。マーチニに強い想いを寄せていた、子を宿した綺麗な人。


「ルトちゃんのおかげだよ。おかげで、疑いが晴れた。ありがとう」


 エレーナは、ついてはいけない嘘をついた。今でなくてもきっといつか暴かれ、同じような結末を迎えていただろう。


 けれど、エレーナがマーチニに向けた想いだけは、確かに本物だった。


 今宵、一つの想いが散ったのだ。そのきっかけを作ったのはエレーナ自身であり、マーチニであり、トムであり、そして瑠都でもあった。


 瑠都の目尻からまたあふれた雫が、顎を伝って流れた。


「ごめんなさい……」


 気が付けば、先程と同じ言葉が瑠都の口をついて出ていた。散った想い、もう二度と咲かない花に対する謝罪だったのかもしれない。


「……俺は、君を泣かせてばかりだね」


 マーチニが瑠都を強い力で抱き寄せて、その腕の中に閉じ込めた。後頭部に添えられた右手で胸板に押し付けられる。感じる温度に、くらりと目眩がした気がした。


「ねえ、ルトちゃん。初めて二人で星空を見上げた夜のこと、覚えてる? 君が、愛されてみたかったと言って泣いた夜のこと。……俺はよく覚えてるよ。あの日から、俺の中で何か変わったんだ」


 マーチニの鼓動が聞こえる。高鳴った心音が、優しく響いていた。


「いじらしくて、可愛くて、眩しくて。俺が側にいてあげようと、思ったんだよ」


 少しだけ体を離して、マーチニは瑠都の顔を上へ向ける。額へ、そっと口付けた。


「……ちゃんと想ってるよ」


 切実な感情を告げた声は少し掠れていた。頬へ、瞼へ、鼻先へ。顔中を辿るように贈られる、たくさんの口付け。


「どんな誓いよりも強く、どんな愛よりも深く、ルトちゃんのことを想ってる。こんな気持ち初めてだって言ったら……信じるかい」


 眉を下げたマーチニの熱い吐息が瑠都の唇に触れた。色付いた唇のすぐ横に落とされた、柔らかな感触。



 マーチニは恋に夢を見たり、憧れを抱く男ではなかった。


 運命の人との出会いを待ち望む者の喜びも悲しみも、他人事のように遠くから眺めていた。


 分かり合える、その人となら幸せになれる。そう信じて多くの者は夢を見る。確証など、どこにもないというのに。それならば誰に恋したところで、一緒ではないか。愚かなことだと、マーチニは思った。思って、いたのだ。


 リメルになったのが誰であっても、こんな感情を抱けただろうか。答えはもう、分かりきっている。

 瑠都だから、目の前にいる少女だから、マーチニの心はこんなにも熱い感情を宿した。


 分かり合えるか、幸せになれるか。やはり確証のない問い。けれどそんなこと、どうでもよかった。


 唯一無二だと、生まれる前から知っていた。運命と呼ぶべき愛しい人が、側にいる。


 それだけでもう、充分だろう。


「好きだよ」


 目尻へ口付けて、きらりと流れる前の涙をさらった。


「マーチニさん」


「ん?」


「マーチニさん……」


 言いたいことも伝えたいこともたくさんあるのに、瑠都は名前以外の言葉を口にすることができなかった。


 まっすぐに見上げたマーチニの想いが優しく瑠都を包んで、強く心を締め付けた。


 マーチニの軍服の胸元あたりを、弱い力でぎゅっと握った。存在を繋ぎ止めようと、懸命に触れた手。


 言葉はなくても、それが答えだとマーチニは思った。


 マーチニは瑠都の額に、自身の額をくっ付けた。近い距離で見つめ合う。瑠都はもう、視線を逸らさなかった。互いの瞳にはっきりと映った、互いの熱情。


「……ああ、やっと俺が映った」


 嬉しそうに笑ったマーチニにつられて、瑠都も思わず笑った。


 全身で感じるマーチニの温度が、ひどく心地いい。もう二度と手離したくはなかった。いつまでも側にいてほしいと願った。今宵ならば神様はそんな願いを、きっと叶えてくれる。




 神様は笑っているだろう。


 やっとかと、優しく呟きながら。胸に咲いた花の意味を、やっと知ったのか。


 それは想い想われる約束の花。泣いてもいい、迷ってもいい。ただその印だけがいつも変わらず咲き続けていること、どうか忘れないでいてほしい。





 やがて、リメルの館には一つの噂が流れてくることになる。


 あの時に町を出たエレーナは、年の離れた裕福な商人と結婚して、元気な子を産んだらしい。


 女ってのは怖いねと言ってマーチニが肩を竦めるのは、まだもうしばらくあとの話である。

 

 

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