第30話 幕は初めから閉じたまま

 

 

 これもすべて、アキのせいだ。エレーナは苛立つ気持ちをなんとか抑えようと、リメルの館の前で大きく息を吐いた。


 急な呼び出しを受けて何事かと出向いてみれば、あろうことかアキはエレーナをたしなめた。アキはいつも自信なさげな顔をしていて、エレーナがいなければ何もできないような女だ。そんな女に窘められることなど、エレーナの矜持が許すはずもなかった。


 エレーナは思う。

 どうしてアキや、この館の主であるリメルのような、自分では何もすることができない弱い女が、のうのうと息をしていられるのかと。自ら動き出すこともなく、いつも誰かの助けを待っている。エレーナはそんな女が、大嫌いだった。


 アキを振り切った帰り道でも、リメルの館に辿り着いてからも、苛立ちが収まることはなかった。それでもそろそろ切り替えなくてはいけないと考えながら、エレーナは歩を進めた。


 この館の中ではまだ、おおらかに微笑んでいなければ。リメルフィリゼアの妻に相応しい、美しく優しい女であらなければ。


 エレーナは玄関の重い扉を開けた。館の中には静寂が広がっていた。その静寂がいつもとは違う冷たさを滲ませている気がして、エレーナは眉を顰めた。


 居間にはまだリメルフィリゼアたちが残っているだろうか。思うままに進む足、その先にある居間からは、一切の声も物音も聞こえてこなかった。





「マーチニ様、お帰りだったんですね」


 居間に入ったエレーナは、愛しい人の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄った。居間にはエレーナが予想していたよりも多くの人がいたのだが、真っ先に目に入ったのはマーチニであった。


 マーチニは駆け寄ってきたエレーナを見下ろした。眼差しに宿る穏やかさが、やはりいつもとは違う色合いを帯びている気がした。


 ソファーに座っているジャグマリアスとフェアニーア、メイス。そのソファーの後ろでエレーナをじっと見つめているフーニャ。立ったままのマーチニと、その横にいたエルスツナとトム。


「誰だ」


 エルスツナがエレーナを見て、訝しげにそんな言葉を発した。トムが呆れたように溜息を吐く。


「ほら、エレーナだよ。何度も話しただろ」


「何を」


「……お前、もしかして俺の話全然聞いてなかったのか」


「聞いてない」


「ほんっと、お前ってやつは……」


 トムは震える拳を握って声を荒げた。


「旅から戻って一回もここに帰ってないって言うから、何があったのかよく分かるようにあれこれと話してやってたっていうのに、っておい聞いてんのか!」


「聞いてない」


「エル……!」


 ふざけんな、と叫んでから、トムは握った両手の拳をエルスツナのこめかみに当ててぐりぐりと回した。


「痛い」


「ちょっとは反省しろ!」


 エルスツナの幼なじみであるフェアニーアはその賑やかな光景を、苦笑いを浮かべながら見守る。エルスツナは職場の上司を相手にしても特別に尊ぶことはないらしい。トムに同情を抱きながらも、口を出すことはやめておいた。


「……どうしてここに」


 マーチニに寄り添っていたエレーナは、初めて会うエルスツナに名乗るより先に、トムの存在が引っかかって小さく声をこぼした。


 トムがマーチニの友人だということはもちろん知っている。あの夜だって、二人は他の数人の友人らも交えて共に飲んでいたのだ。


 そしてトムもマーチニと同様、あの夜の記憶をなくしている。エレーナの嘘も知るはずがない。それなのに、エレーナの心はざわりと波立った。


 なぜ、トムはここにいるのか。マーチニに招かれでもしたのか。しかしエレーナのことはまだ世間に公表されていない。エレーナもいる館にそう易々と他人を呼ぶことなどしないだろう。


「あー……久しぶり」


 トムがエルスツナから手を離してエレーナにぎこちなく挨拶する。居間はまた静寂に包まれた。エレーナは居間にいる者たちの顔を見渡した。皆真剣な顔をして、エレーナを見ていた。


「どこに行ってたの?」


「……え」


 一度も言葉を発していなかったマーチニに問われて、エレーナは端正な顔を見上げた。静かな空気を壊してくれたマーチニに、喜色を浮かべながら答える。きっとマーチニは、夜に出かけたことを心配してくれているのだ。


「友人に会いにいってたんです。夜しか時間が取れなかったみたいで」


「その友人はアキっていう子かな」


 マーチニを見上げるエレーナの瞳が揺れた。


「え、ええ、そうです。ああ、あの夜のことを証言したからアキの名前を知っていたんですね」


 会ってきたばかりの女の名前。口先だけで友と呼ぶアキの名前が、なぜマーチニからこうもすっと出てくるのか。納得できる理由を無理矢理に見つけて、エレーナは笑みを張り付けた。


 マーチニは何も言わずに片手を上げた。そこには、鳥の形をした物体が乗っていた。白い体に、赤い首輪。いったい何かと首を傾げたエレーナに構うことなく、マーチニは首輪にあるボタンを押した。


『――ほんとは、誰の子なの?』


 鳥から聞こえた声に、エレーナが目を見開いた。よく知った声、先程まで嫌になるほど聞いていた、アキの咎める声。


『そんなの知らないわよ』


 吐き捨てるような言葉。自身の唇からこぼれた、覚えのある台詞。


「な、に……」


 二人きりの狭い部屋で飛び交っていたはずの言葉の応酬が、白い鳥から次々と漏れていく。


『本当にマーチニ様の子なら、わざわざ証言を頼んだりしないわ』


「やめてよ、」


 懇願の声を上げても、止まらない白い鳥。手にするマーチニはただ黙ってその鳥を見下ろしていた。


『よくないよやっぱり。だって、相手はリメルフィリゼアだよ? 天が選んだリメルの夫で』


『天罰が下るとでも言いたいの?』


「やめてっ、お願い、なんなのこれ……」


『少し責めただけですぐに泣きそうな顔をしちゃって、あれは本当に惨めで笑ったわ』


「マーチニ様っ!」


 マーチニがもう一度ボタンを押すと、鳥から流れていた音が止まった。エレーナとアキの会話のすべてを居間に響かせた鳥は、再び沈黙を取り戻す。


「……なんですか、これ。悪い冗談ならやめてください」


「冗談? ついさっき、アキとの会話を録音したものだよ。俺には、君の声に聞こえるんだけど、本当に覚えがない?」


 エレーナは唇は噛み締めた。


 誰も、アキ以外には誰も知らないはずのエレーナの秘密。確かに飲み屋の部屋には他に人はいなかったはずだ。

 エレーナはマーチニとの距離を更に縮めた。擦り寄るように体を密着させ、潤んだ瞳で媚びた声を上げた。


「ごめんなさい……。アキに会ったのが久しぶりで、ついはしゃいで、ふざけてしまったんです。全部、嘘ですから。私のおなかの子は間違いなくマーチニ様の子です」


 柔らかな体を押しつけても、マーチニの表情は変わらない。いつもの笑みも穏やかさも消えた眼差しが、鳥からエレーナへと移った。


「……信じてください、マーチニ様。私の中には確かにあなたの子が」


「エレーナ」


 懇願するエレーナの名前を、マーチニが静かに呼んだ。低く響いた声を聞いて、エレーナの動きがぴたりと止まった。


「俺は最初から、君の言うことを信じてはいないよ」


 諭すような口調で、マーチニはそう言った。


「え……」


 マーチニの腕に触れていたエレーナの腕が、力をなくしてだらりと落ちた。


「正しくは、君が会いにきた日、城で君に抱き付かれた時からだけどね。だから今日までずっと、子どもが俺の子じゃないって証明するために、色々な証言を集めてたんだ」


「証言……」


「あの夜の帰り道、俺が一人で歩いているのを目撃した人。遠くなっていく俺の後ろ姿を見送ってた君の様子を、家の窓から何気なく見てた人。俺が誘いに乗らなかったとアキに話していたのを聞いた人。その他にも色々ある。心当たりがありそうな人に一人一人話を聞いていくのは骨が折れたけど、これで嘘を暴く充分な証言が集まったはずだ」


「違う、嘘を吐いているのはその人たちです……! マーチニ様は私よりも、そんな、赤の他人の言うことを信じるんですか」


「じゃあこの鳥はどうなるんだい? 録音されてる声は確かに君の声だ。紛れもない自白、何よりの証拠だと思うけど……。なんなら、今からアキに聞いてこようか。きっとこの鳥の存在を知ったら、すぐに教えてくれるはずだ」


 エレーナはマーチニから身を離した。今までは黙っていたアキも、エレーナを窘めた今ならば本当のことを話すだろう。


 エレーナは居間にいる者の顔を順に見た。事の行く末を見届けようと口を開くこともしない彼らの中に、エレーナの味方をしてくれそうな者は一人としていなかった。


「みんな私を疑ってるの? そんな……あまりにもひどいわ」


 肩を震わせて弱々しく両手で顔を覆ったエレーナ。近くにいたトムが重い口を開いた。その口調からは憤りと苛立ちが感じられた。


「いい加減認めろよ、マーチニの子どもなんて嘘だってな。世の中にはなあ、やっていいことと悪いことがあるんだよ。踏み込んじゃいけない領域ってもんが必ずあるんだ」


 踏み込んではいけない、領域。


 天から授かった縁で結ばれるリメルとリメルフィリゼア。縁を取り決めた神の、聖なる領域とでも言うつもりなのか。それともまさか、瑠都とマーチニの間には、立ち入ることの許されない絆があるとでも。


「馬鹿らしい」


 エレーナは顔を覆っていた手を離し、吐き捨てた。


 瑠都とマーチニ、二人の間には、愛など欠片もなかったはずだろう。本物の心を捧げることも、永久とわに慈しみ合うことだって、なかったはずなのだ。


 リメルとリメルフィリゼア。天から花を与えられた、運命で結ばれた者たち。刻まれた印に揺るぎない想いが宿っていると言うのなら、それこそ他者の付け入る隙などないではないか。他者の介入を一切許さない、二人だけの色鮮やかな花園。


「……やめてよ、そんなの。くだらない」


 細い体は頼りなく震えていた。潤んだ瞳から一筋こぼれた涙は、エレーナが望んだものではなかった。意思に反して流れる冷たさに、一番驚いたのは自分自身だった。


「……マーチニ様、私、本当にあなたのこと……」


 その先は言葉にならなかった。いつもの穏やかさを取り戻した深緑の瞳が、エレーナを見つめていた。


「ごめんね」


 申し訳なさそうに深緑の瞳を細めて小さく笑ったマーチニは、エレーナがそれ以上の想いを告げることを許さなかった。



「……でもどうして、初めから嘘だって分かってたんだよ」


 素朴な疑問を抱いたトムが、マーチニに問う。エレーナもその答えが知りたくて、霞む視界にマーチニを映し続けた。


「香りだよ。エレーナからは、俺の知らない香りがした」


「香り? 記憶がないんだから知らないのは当たり前だろ」


 トムは不思議そうに両肩を上げた。


「確かに記憶はない。だけど俺は、抱いた女の香りを忘れるほど野暮な男でもないさ」


 エレーナの香りに覚えはない。だから絶対に触れてはいない。そう言い切ったマーチニに、トムが呆れた視線を送った。何を言ってるんだか、この男は。


 エレーナは、かっと赤みを帯びた顔を歪めて、唇を噛んだ。悔しさと悲しみの滲んだ表情のまま、踵を返して早足に居間から出ていく。


「お、おい!」


 思わず声を大きくしたトムは、逃げたエレーナと追わないマーチニを、どうしたものかと見比べていた。今まで黙っていたフェアニーアが、その様子を見かねてマーチニに話しかけた。


「……のがしてよいのですか」


「いいよ。捕まえたところで、別に俺は罪を償ってほしいわけでもないしね。みんなには迷惑掛けて申し訳なかったけど、今回は大目に見てやってくれないか」


 マーチニはエレーナの消えた先を見つめていた。今頃はもう館から出ただろう。もう二度と、ここに戻ってくることもない。


「……腹に子どもがいるのは本当なんだ。どんな子どもにだって、幸せになる権利はあるもんさ」


 腹を撫でる手付きの優しさも、向ける眼差しの温かさも、すべて本物だったと信じていたかった。


 マーチニの言葉に、異議を唱える者は誰もいなかった。



「だから誰なんだあの女」


 静かな空気を、唐突に壊した一つの声。発したエルスツナに、トムが心底呆れたように答えた。


「もう黙ってろお前……」


「はは」


 笑ったマーチニは、食事でもしながらエルスツナに詳しく話す必要がありそうだなと思った。


 エルスツナにしては珍しく空気を読んで、しばらく黙っていたのだが、日頃の行いゆえ誰からも褒められることはなかった。


「なんにせよ、これですべて解決したということだな」


 ソファーに座っていたジャグマリアスが立ち上がった。


「そうですね、色々とお騒がせしてすみません」


「酒の飲み方には気を付けることだな」


「ごもっとも」


 僅かに笑みを携えたジャグマリアスに、マーチニも苦笑を返す。


 ジャグマリアスは自室に戻るため、居間の出入り口へと向かった。フェアニーアも立ち上がってそれに続く。


「トムもありがとう、本当に助かったよ。本人による証言ほど強いものはないね」


 トムに向き直ったマーチニが礼を述べる。しかしトムは首を横に振った。


「いや、違うんだ。俺じゃなくて、これを録音してくれたのはリメル様、ルト様なんだ」


「……ルトちゃん?」


 トムの口から出た名前を、マーチニが繰り返す。ジャグマリアスもフェアニーアも足を止めた。


「俺はそう簡単にエレーナに近付けないから、一緒に住んでるルト様に託してたんだよ。怪しい動きを見せたら使ってみてくれって」


「しかし、それはついさっき外で録音されたものなんですよね? ルトさんはずっと部屋で休まれているのでは……」


 フェアニーアの指摘を受けて、トムが固まった。しばしの間を空けて、嫌な冷や汗がたらりと流れた。


「た、確かに……。じゃあいったい誰が」


「本当にルトさんは部屋にいるのか」


 ジャグマリアスが、フーニャに尋ねる。フーニャは何度も頷いて肯定を示した。


「は、はいっ。さっき様子を見にいった時も、ベッドで横になる人の気配がありましたし、すやすや寝息も聞こえてましたから!」


 フーニャが言い終えた時、居間の出入り口に影が差した。ゆっくりと姿を現したそれは、眠たそうに目を擦っている。


 淡い桃色のもふもふとした体に、宝石のようにきらきらと輝く赤い目。ぴんと伸びた二つの長い耳が、ぴくりと動いた。


「ルビー……」


 マーチニは思わずそのぬいぐるみの名前を口にしていた。瑠都に贈った大きなぬいぐるみ。瑠都が可愛がってくれていたことはよく知っている。


「……う、うう動いてるーっ!」


 フーニャの絶叫が響き渡った。両手で頬を覆ってルビーを凝視するフーニャの顔色は青い。


「夢? これは夢? でも私起きてるし……起きてるよね? そうだ、きっと魔法だ。でもこんな、生きてるみたいに動かす魔法なんて……」


 そこまで言ってから、フーニャは突然思い立ったように、慌てて走り出した。ルビーの横を通り過ぎて居間から出ていく。


「フーニャさんっ?」


 驚いたフェアニーアに呼び止められたことも気にせず、音を立てて階段を上がっていく。


 ルビーはおぼつかない足取りでソファーに近付くと、全身を使って上に登り、メイスの隣に座った。固まったメイスに構わず、寝息を立て始める。


 しばらくして、またフーニャの叫び声が響いた。三階から発せられたその声は、一階にいるリメルフィリゼアたちの耳にもはっきりと届いた。


「ルト様がっ、ルト様がいらっしゃいません……!」


 フーニャが扉を開け放したままの、三階にある瑠都の部屋。中には誰もいなかった。部屋のあちこちを探し回っても見つけられなかったフーニャのあるじは、人知れず姿を消していた。

 

 

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