第29話 まことを抱く者であれ

 

 

 日が落ちたとはいえ、レスチナールの町はまだ賑わいでいた。飲みにいく者、寄り添う恋人たち、遅くまで営業している店。そんな町の中を、エレーナは迷う素振りもなく歩いていく。


 エレーナから少しの距離を置いて、跡をつけていく人影があった。白い鳥を握り締めて、物陰からこっそり顔を覗かせているのは、およそこの状況にそぐわない立場の人物だ。二百年ぶりにこの世界にやってきた、尊いはずのリメル。そのリメルが共も付けず、一人でこっそりと町中に繰り出している。


 瑠都はエレーナに気付かれないよう慎重に、けれど見失わないように神経を尖らせて跡をつけていた。夜のレスチナールに訪れたのは初めてだったが、瑠都に町中をじっくりと観察する余裕はなかった。


 建物の影から影へ、必死な様子で物陰に隠れながら移動する瑠都を、擦れ違う人たちが訝しげに見つめていく。


 ここまで来てしまっては、もう戻れない。やり遂げるしか道は残されていないのだ。


 似つかわしくないことをしている。少しの不安と後悔と、大きな使命感。身の内では様々な感情が渦巻いているのに、それでも足は止まることを選ばなかった。





 エレーナは一軒の店の前で立ち止まった。波打つ金色の髪がふわりと風に靡く。豊満な谷間が見えるドレスの裾を揺らして、エレーナは店の中に入っていった。


 エレーナが店の中に消えていったことに慌てて、瑠都は物陰から飛び出した。


 洒落た看板を掲げた店は飲み屋だった。店の扉には小さな窓が付いていて、瑠都はそこから中の様子を窺った。いくつかあるテーブルの席はすべて客で埋まっていて、賑わう声が外まで漏れ聞こえていた。


「いらっしゃいエレーナちゃん。二階の一番奥の部屋を用意してるよ」


「アキはもう来ているかしら」


「それがまだなんだ。先に二階上がっとくかい」


 扉のすぐ側で、エレーナと店の従業員が会話している。二階という言葉を聞いて、瑠都は窓越しに店の中を見渡した。階段は店の奥まった所にあった。そこに向かおうとするエレーナを、客の一人が呼び止めた。


「おうエレーナ、久しぶりじゃねえか。最近見ないからどうしてんのかと思ってたんだよ」


 知り合いらしい壮年の男に話しかけられて、エレーナは足を止めた。少し煩わしそうに眉を顰めてはいるが、大きな声で笑う男にしばらくの間付き合ってやっていた。


(どうしよう……)


 瑠都は辺りを見渡した。ここで店の中に入っていくわけにはいかないが、このままエレーナが二階に上がってしまえば、追うことができなくなってしまう。


 未だエレーナが一階で動かずにいることをもう一度しっかりと確認してから、瑠都は店の裏に回った。


 店の裏には、従業員用だと思われる扉があった。そこからなら、容易に中に入ることができるだろう。ドアノブに触れようとした手が、直前で止まる。



 こんなこと、許されることではない。分かっているから、躊躇った。


(動け、お願い、動いて……)


 瑠都は唇を噛み締めた。決心して家を出たはずなのに、ここまで来ても躊躇ってしまう。そんな自分が、ひどく情けなかった。


 片手に持った白い鳥を見た。トムの想いを乗せた鳥。もしこの場にいたのがトムであったなら、きっと躊躇うことなどなかったはずだ。強い気持ちのままで、すぐに扉を開け放つだろう。


 けれど瑠都だって、力になりたかったのだ。真実を明らかにしたいと思った気持ちに、偽りなどなかった。


 止まっていた手を伸ばした。ひんやりとした感触のドアノブに触れて、ゆっくりと回した。


 扉を開けると、また賑やかな声が聞こえてきた。顔だけを覗かせれば、慌ただしく料理を運ぶ従業員の姿が見えた。中に入って静かに扉を閉める。色々なものが置かれた店の裏側、従業員に気付かれないように身を屈めて進んでいく。


 二階に続く階段の下に辿り着いた。客席の様子を確かめれば、未だエレーナは動いていない。階段は奥まった所にあり、エレーナが立っている場所からは精々五段目までくらいしか見えないだろう。木でできた階段の一段目に足を置けば、みしりと鈍い音を立てた。一段一段慎重に上がるよりかは、多少音を立ててでも気付かれない内に駆け上がったほうがいい。

 そう考えて、瑠都は上を見据えながら更に足を踏み出した。


 店の二階にはいくつかの個室があったが、どれも客はまだ入っていなかった。廊下の突き当たりにある従業員専用の扉から、誰か出てくる気配もない。静かな廊下で瑠都は、従業員がエレーナに一番奥の部屋を用意していると言っていたことを思い出した。


 一番奥の部屋の扉を開けた。さほど広さのない室内には四角いテーブルと椅子があり、客が荷物を入れるための棚が設置されているだけだった。中に入ってあちこち歩き回ってみるが、瑠都が隠れられそうな場所もない。


 どうしよう、小さくこぼした瑠都が眉を下げた時、部屋の外から二つの声が聞こえてくる。二人分の、女の高い声。エレーナがやってきたのだ。


 瑠都が一歩後ずさる。思わずテーブルにぶつかった。部屋の中を見渡すも、やはり隠れる場所はない。冷たい汗が、つと流れた。


 その時、とある場所が目に入った。うまく隠れられるか冷静に考える暇もなく、瑠都は一目散に駆け出した。





「呼び出しといて遅れるなんてどういうことなのかしら」


「ごめんね、ちょっと仕事が長引いちゃって。今はお酒飲めないんだっけ、何か食べる?」


「いらない」


 話しながら、エレーナともう一人の女が入ってきた。エレーナに、アキと呼ばれた女だ。それぞれ椅子に座ると、早速エレーナが切り出した。


「……で、話ってなんなの」


「待って。その前にお店の人にしばらく来ないでって伝えておかないと」


「もう伝えてあるわよそんなこと。私は鈍間のろまのあんたとは違うのよ」


「あ、そうなんだ。ごめんね……」


 上下関係の垣間見えるやりとりを、瑠都は部屋の外で聞いていた。


 部屋の窓の外にある、細長いベランダ。

 あの時、隠れる場所を探した瑠都は慌てて窓を開け、ここに下りたのだ。ここならば、エレーナたちが窓を開けない限り気付かれることはないだろう。細長いベランダには各部屋ごとの区切りがなく、端までずっと続いている。所々に置かれた植木鉢では、様々な種類の花が育てられていた。頼りない柵の向こうには、暗い路地だけが見えた。


 本来ならば窓から出入りするものではない。唯一の出入り口は廊下の突き当たりにあった従業員専用の部屋から繋がる錆びた扉だけだ。そこから人が出てこないことを、床に座って忍ぶ瑠都は切に願った。


 少しだけ開けておいた窓から、二人の女の声が漏れ聞こえてきた。瑠都は手の中の白い鳥、赤い首輪に付いているボタンを押した。


「今はリメルの館に住んでるんだよね」


「そうよ。そんなこと聞くために呼び出したわけ?」


「いや、そういうわけじゃないんだけど」


 言い淀んだアキに、エレーナが苛立たしげにテーブルを人差し指で数回叩いた。


「……私、エレーナとマーチニ様があの日一緒に帰ったって証言するように言われただけで、詳しいこと知らないでしょう。だから、もっと詳しく知りたいなと思って」


 無言のエレーナに態度で急かされて、アキはおそるおそる言った。


「あの日、確かにエレーナは帰るマーチニ様を追って店を出たけど……誘いに乗ってくれなかったって次の日に言ってたじゃない。ねえ……ほんとは、誰の子なの?」


 部屋の空気が変わった気がした。背もたれに身を預けたエレーナの赤い唇が、艶やかな弧を描いた。撫でた腹の中ですくすくと息をする赤子、その子はいったい誰の血を引いているのか。


「そんなの知らないわよ」


 笑みの混じった声で、吐き捨てるように言った。


「もちろん心当たりは何人かいるけど、どれも私の夫になるには不釣り合いな男ばっかりだし。顔はいいけど仕事もしないろくでなし、金はあるけど醜男ぶおとこ。どうしようか迷っていた時に、思い出したのよ。子どもができた頃、マーチニ様と会っていたんだわってね」


 悠々と自慢するかのようにアキに事のあらましを述べていく。息を飲んだアキの驚きに満ちた顔を、エレーナは満足そうに見下した。



 エレーナは言った。


 マーチニには確かに、憧れに似た好意を抱いていた。端正な容姿の、女に優しい、柔らかな性格の男。軍人であり、紺色の軍服を身に纏って町を歩く姿は、いつだって女の目を引いた。


 だからあの夜偶然にも店で出会った時、今までになく気分が高揚した。それと同時に、これで自分のものになったと確信したのだ。


 エレーナには、自分が美しい外見をしているという自覚があった。迫って落ちない男はいなかったし、マーチニもそんな男の一人だと思っていた。


 しかし、店を出た所で呼び止めたマーチニは、エレーナの誘いを断った。


「また今度ね、綺麗なお嬢さん」


 マーチニはそんな言葉を残して、闇夜に消えていった。


 エレーナはマーチニを諦めきれなかった。数日後同じ店に顔を出したのも、マーチニにまた会えるのではないかと考えたからだ。マーチニは来ていないのかと店主に尋ねれば、店主は来ていないよ、と答えた。


「この前マーチニさんと一緒に飲んでた子だな。残念だけど今日は来てないんだ。昨日は来てたんだけどね。ふらっと入って来て、飲み過ぎてあの夜の記憶がないんだけど迷惑かけなかったかって、聞いてくれたんだよ。ま、すぐ帰っちまったけどさ」


 そうなの、冷めたように答えたエレーナは、マーチニがあの夜の記憶をなくしていることを知った。


 そして、子どもができたと分かった時、そのことを思い出した。


 あの夜、マーチニを連れ帰ったことにしてしまえば。愛し合ったことにしてしまえば。

 この子を、マーチニの子どもとして産むことができる。


「思った通り、マーチニ様は否定しなかったわ。記憶がないんですもの。まあ認めてくれたわけでもないけど、それも時間の問題よ。これも、証言してくれたあんたのおかげ」


 同罪だろうと、エレーナは暗に言っていた。青い顔をしたアキに、エレーナは続けた。


「本当にマーチニ様の子なら、わざわざ証言を頼んだりしないわ。頼まれた時点で、あんただってうっすら気付いていたでしょう。あまつさえ、金も受け取っているんだから」


「でも、」


「何よ」


 青いままの顔を伏せたアキ。


「でも、エレーナはそれでいいの? それで幸せなの?」


 アキの問いに、エレーナは一瞬面食らったような顔をした。アキが自分の身を案じてくれていることに驚いたのではない。当たり前のことを聞いてどうすると、呆れたのだ。


「当たり前じゃない。これでマーチニ様の妻になれるのよ。きっとみんなが羨ましがるわ。しかも、マーチニ様はリメルフィリゼア。私は麗しいマーチニ様と、リメルフィリゼアの妻という最高の名誉を手に入れたのよ」


 エレーナと腹の子のことは、未だ世間に知られていない。公表されたあとの羨望の眼差しと悔しむ女の顔を思い浮かべて、エレーナは声を出して笑った。


「それに、他のリメルフィリゼアも素晴らしい人ばかりなのよ。そんな人たちと一緒に暮らして、まるで私がリメルになったみたい」


「……やっぱりやめようよ」


 楽しげに話していたエレーナは、アキの言葉に動きを止めた。


「よくないよやっぱり。だって、相手はリメルフィリゼアだよ? 天が選んだリメルの夫で、」


「天罰が下るとでも言いたいの?」


 エレーナはテーブルを強く叩いた。その音に、アキの肩がびくりと揺れた。


「逆よ。私は無理矢理リメルの夫なんかにさせられるリメルフィリゼアの心を救ってあげてるの。むしろ、天に感謝されるべきよ。リメルと愛のない結婚をしたマーチニ様に、愛を教えてあげるんだもの」


「エレーナ……」


「あんなリメル、マーチニ様にはふさわしくない。少し責めただけですぐに泣きそうな顔をしちゃって、あれは本当に惨めで笑ったわ」


 エレーナが立ち上がった。そのまま扉に向かう。


「帰る。時間の無駄だったわね」


「待ってよエレーナ」


「何。渡した金が足りなかったの? 金が足りないからしつこいわけ?」


「違う、お金は返すからっ」


「それとも、私と一緒じゃないと男に声を掛けられないから結婚させたくない?」


「違うよ、待ってっ、待ってエレーナ! 私は、」


 激しく言い争うエレーナとアキが、部屋から出ていった音がした。足音が小さくなるのと同時に、声も次第に遠のいていく。


 瑠都は口元を押さえていた手を離して、白い鳥の首輪のボタンをもう一度押した。そうすれば鳥は羽を広げて瑠都の手元から飛び去っていった。


 トムのもとへ飛んでいったのだろう。辿り着けばトムが、鳥に録音したエレーナとアキの会話を取り出してくれるはずだ。


 しかし瑠都に、飛び去った鳥を見送る余裕はなかった。立ち上がることもできなくて、壁に背を預けたまま静寂と夜風に包まれた。


 聞いた事実への驚きと戸惑いが、大きく胸の中を支配していた。瑠都は震える右手を、自身の胸に当てた。リメルの証である花の印が刻まれている場所。リメルフィリゼアたちとの絆を宿した、一輪の花。


――嘘、だったんだ。


 腹の子がマーチニの子だというのは、エレーナの嘘だったのだ。


「マーチニさん……」


 心の中だけで唱えたはずが、いつの間にかこぼれていた。浮かんだままで消えてくれない深緑の瞳に、もう憂いが帯びることはないだろうか。胸元に添えたままの手を、強くぎゅっと握り締めた。





 ジャグマリアス、フェアニーア、メイスの三人は夕食を終えたあと居間に移り、食後の時間をゆっくりと過ごしていた。


 魔法についてメイスに話してやるフェアニーアと、珍しくそれに付き合って居間に残るジャグマリアス。カップが空だったことに気が付いたフーニャが、声を掛ける。


「ジャグマリアス様、紅茶のおかわりはいかがてすか」


「もらおう」


 たった四文字で答えただけなのに、どこまでも絵になる男だ。さすが仕える主の夫と感心しながら、フーニャはいそいそと準備をする。


 冷静を装ってはいたが、動作の端々が楽しそうに弾んでいた。近くで見ていたメイスには、フーニャの考えていることが簡単に読み取れた。


 しかしメイスと違って、フーニャと過ごす時間の少ないフェアニーアは、まったく違うことを思ったようだ。


「ルトさんは大丈夫でしょうか」


 心配そうに尋ねたフェアニーア。


「はい! ついさっき様子を見に行った時も、特に変わった様子はありませんでした。起こすのも申し訳ないので声はお掛けしていないんですけど、落ち着かれてるようでしたよ。すやすや寝息も聞こえてましたし」


 にっこり笑ったフーニャに瑠都の様子を聞いて、フェアニーアは安心したように短く息を吐いた。


「それならよかった」


「お見舞い……」


「え?」


「お見舞い、行きますか。行っちゃいますか。もしかしたらもう起きてるかもしれないですし、そうだそれがいい!」


「お見舞い? え?」


 楽しそうに目を輝かせたフーニャに、フェアニーアは困惑する。瑠都の侍女はこんな性格だっただろうかと今更ながらに思った。


「女性の部屋に勝手に入るわけには……」


 フェアニーアらしい、真面目な言葉でやんわりと断ったのだが、フーニャは聞く耳を持っていなかった。


 メイスは慌ててフーニャの名を呼んだ。このまま放っておけば、夫婦だから問題ないですよまったく、とでも言いそうだったからだ。


 実際フーニャはそう口にしかけたのだが、それは突然現れた別のリメルフィリゼアによって遮られることになる。


 物音に気が付いて、皆が居間の入り口に視線をやる。そこにはマーチニが立っていた。


「マーチニ様、おかえりなさいませ」


「ただいま」


 フーニャが近くに寄っていく。マーチニは居間の中をぐるりと見渡して、誰かを探しているようだった。


「エレーナは?」


「エレーナさんですか。用事があって出かけてるって、ミローネさんが言ってましたけど」


「そう……」


 視線を落としたマーチニが立ち去ろうとするのを、フェアニーアが呼び止めた。


「マーチニ殿」


 いつもとは違う様子のマーチニ。何かを感じ取ったのは、フェアニーアだけではなかった。海の色をした深い青の瞳で、ジャグマリアスもマーチニを見ていた。


「何かあったのですか」


 そう投げ掛けるフェアニーア。


「いや……」


 マーチニは否定を示すものの、すぐに口を閉ざした。逡巡するような仕草を見せたあと、ゆっくりとまた口を開く。


「実は……」


 その時、慌ただしい足音が近付いてきた。


「おい、マーチニいるか!」


 現れたのは、館の住人であるエルスツナと、魔法員でありマーチニの友人でもあるトムだった。首に手を回されて連れてこられたらしいエルスツナが、息を切らしたトムに文句を垂れる。


「まだ解析終わってないんだけど」


「緊急事態なんだ、お前がいたほうがすんなりここに入れると思ってな。甘いもん奢るから許せ!」


「……とりあえず離せ」


 一気に騒がしくなった空気。いるはずのない人物の登場に、マーチニが目を丸くする。


「なんでトムがここに?」


 トムはそう聞いてきたマーチニに、手のひらを上にして差し出した。その上には、白い鳥が乗っていた。マーチニは汗を流したトムの顔と、白い鳥を見比べた。


「マーチニ、これでお前の潔白が証明できるぞ!」

 

 

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