第28話 微睡みに生じる息吹

 

 

 幼い瑠都が、一人でぽつりと立っていた。


 生まれ育った家の、二階へ続く階段の下。玄関のすぐ側でもあるその場所で、瑠都は待っているのだ。二階から母親が下りてくるのを。玄関の扉の向こうから父親が帰ってくるのを。


 家の中は静まりかえっていた。居間にあるテレビはとうの昔に消してしまった。かちりと時を刻む秒針の音も、ここまで届くことはない。


 小学校に入ったばかりの瑠都の顔は寂しげに伏せられていた。けれどその表情には、確かに少しの期待も滲んでいた。もしかしたら、下りてきてくれるかもしれない。もしかしたら、帰ってきてくれるかもしれない。求めた温もりを諦めるには、少女はまだ幼すぎた。



 いつもと変わらない光景の中に、ふと生じた違和感。目の前に何かの気配を感じて、幼い瑠都は顔を上げた。


 そこにいたのは、大きな狼だった。


 座っているはずなのに瑠都の背丈をゆうに越し、鋭い藍色の瞳でじっと見つめてくる銀色の大きな狼。艶やかな毛並みの獣は、牙を向けてくることもない。


「わんちゃん……」


 瑠都が呼び掛ければ、狼の綺麗な藍色の瞳が揺れた。瑠都はそっと手を伸ばした。頭まで届かなかった手は、狼の首に触れた。ふわふわとした感触に驚いて一度離れた手は、けれどすぐに元の場所へ戻っていく。感触を、温もりを確かめるように優しく撫でる小さな手。


 狼が来てくれたから、瑠都は一人ではなくなった。獰猛なはずの大きな獣を前にして、恐ろしいと感じることもなかった。嬉しさから綻んだ瑠都の顔を見て、静かな狼は何を思っただろう。


 今度は、狼が動いた。身を屈めた狼の口から赤い舌が覗く。その舌が、瑠都の頬を優しく舐めた。瑠都はざらざらとした感触に擽ったそうに笑い声を上げた。


 慰めてくれているような気がした。寂しさを紛らわせようと、その温もりを分けるように。狼は、瑠都の立場も想いも、すべてを理解しているようだった。


「……私、知ってるよ」


 瑠都からこぼれた声に、狼がぴたりと動きを止めた。瑠都の幼い瞳に向き合った、夜明け前の空のように輝く藍色の瞳。


「わんちゃん、ほんとはとっても、優しいんだね」


 銀色が揺れた。また開いた大きな口、覗く牙が狂気に歪むことはない。何か言いたげに狼の喉が低く唸った。しかし瑠都が、縋るように鳴いた声を聞くことはなかった。





「……夢」


 深い夜の中で、瑠都は目を覚ました。


 元いた世界の、家の中での冷たい記憶。何度も実際に経験して、何度も繰り返し夢に見た。またこの夢かと言いたいのに、一匹の狼の存在がそれを許さない。こちらの世界ですでに滅んだとされる、銀色の狼。


 狼の夢を見たことは今までにも何度かある。けれど、昔の夢に出てきたのは初めてだった。いにしえのリメルのことが書かれた本を何度も読んでいるから、ついにはこんな夢を見てしまったのだろうか。


 目覚めたまま天井を見つめていた瑠都は、寝返って体を横に向けた。そこには、同じベッドで掛け布団にくるまるルビーの姿があった。マーチニにもらった、うさぎのぬいぐるみ。



 あの日から、マーチニとは一度も顔を合わせていない。避けているのか避けられているのか、それすら最早分からなくなっていた。


 ルビーを抱き寄せながら、瑠都はそういえば、と思い出した。花市場からの帰り道、ルビーも魔法で動かせるかもしれないと言っていたマーチニの言葉を。


 帰ったら試してみようかと、優しく紡いだマーチニとの約束が果たされることはなかった。その帰り道で、エレーナに呼び止められたからだ。


「ルビー……」


 動かしてあげることのできなかった、柔らかなぬいぐるみの名前。瑠都の声は、静まった部屋の中でよく響いた。


 薄いカーテン越しに窓から入ってくる僅かな月明かりだけが、部屋の中に淡い光をもたらしている。はっきりとした時間は分からないが、朝はまだ遠いのだろう。闇が占める小さな世界の中で、強くルビーを抱き締め直した。そのふわふわとした感触に、夢で見た狼の姿が蘇った。


 ルビーの体に顔を埋めている瑠都の頭に、何かが触れた。気のせいかと思って放っておくが、やはり頭の上で何かが動いている。


 おそるおそるルビーの体から顔を上げる。そうすれば頭の上にあったものは離れて、今度は瑠都の顔に触れた。それは、自身が抱き締めているルビーの手だった。


「……え?」


 ルビーの手は瑠都の顔のあちこちを触った。赤い目には、驚いた顔をした瑠都が映っている。今度はルビーが、愛しい者に擦り寄るように瑠都の胸に飛び込んだ。


「ええっ?」


 瑠都が驚きのあまり体を起こした。離れたことに、ルビーが寂しそうな顔をした気がした。ぬいぐるみであるルビーに表情はないはずなのに、瑠都にはそう感じられたのだ。


 瑠都はルビーを抱きかかえて、部屋から飛び出した。突然に動き始めたルビーのことを誰かに伝えたかった。


 廊下には一定の間隔で明かりが灯っているが、それでもやはり闇夜のほうがまさっていた。真夜中、明かりは少しの安らぎを誇るだけで、どこか頼りない。瑠都は足元に注意しながらも、はやる気持ちを抑えきれずに走った。


 しかしその足は、階段を下りて二階に辿り着いたところでぴたりと止まった。


(……誰に、伝えるんだろう)


 ミローネやフーニャも寝てしまっているだろうし、わざわざ起こすわけにもいかない。リメルフィリゼアたちも、それは同じ。


 立ち止まった瑠都の腕の中から、ルビーが抜け出した。確かめるように床を足で何度も踏んでから、瑠都の周りをあちこちと動き回っている。


 途端に、瑠都の気持ちが深く沈んでいった。昔に戻ったかのような錯覚。冷たい家に、一人きりで立っている。あの優しい狼が、夢の中のように現れてくれるはずもなかった。


 ルビーが、寝間着越しの瑠都の足に抱き付いた。己の存在を主張するかのようなその行為に、瑠都の固い心が解れていった。


「……そうだね。ルビーがいてくれるね」


 しゃがんで目線を合わせた。赤い目が、きらきらと輝いている。その目が、瑠都から離れて階段のほうへ向いた。下から続く階段、つられてそちらを見た瑠都は、音を立てずに二階へと上がってくるジュカヒットの姿を認めた。


 闇の中から現れたジュカヒット、きめ細かな白い肌が際立っている。黒い軍服に身を包んだ男は、少し前から瑠都がそこにいることに気が付いていたらしい。驚く様子は一切なかったが、瑠都の足元に桃色の動く物体を見つけて一瞬だけ動きを止めた。


「ジュカヒット、さん」


 瑠都の目の前に、漆黒を纏ったジュカヒットが立った。


「それは」


 短い言葉で問われて、瑠都は慌ててルビーを抱き上げた。桃色の顔をジュカヒットに向ける。


「この子が、ルビーが、動いたんです」


 ルビーは抱き上げられたままで、ジュカヒットに手を伸ばした。その手は届くことはなかったが、やはり動いているのだとジュカヒットに証明するには充分だった。


「誰かに魔法を使ってもらったのではないのか」


「いえ……突然、動き出して」


 あまりに動くので、瑠都はルビーを床に降ろしてやった。ルビーは迷うこともなくジュカヒットの足に抱き付く。怒られないと確信しているようなルビーを、ジュカヒットは好きにさせた。


「リメルテーゼだろう」


「リメルテーゼ……?」


「リメルテーゼも魔力の一つ。自らの魔力を知らずの内に注いで、ついには動けるようにまでなった」


「じゃあ、私の魔力で動いてるってことですか」


 ジュカヒットは静かに頷いた。


 瑠都は未だジュカヒットの足に抱き付いたままのルビーを見た。いつの間にか、桃色のぬいぐるみに魔力を注いでいたらしい。ぬいぐるみを動かす魔法が使われたわけではない。満ちた魔力が、ルビーに命にも似た意思を与えたのだ。


 瑠都の意思ではなく、自らの意思で動いているルビー。動いてほしいと、魔力を与えた瑠都が願っていたからだろうか。ジュカヒットから離れてまた辺りを歩き回るルビーに、愛しさに似た感情が込み上げる。


 ジュカヒットが、軍服のマントを外した。靡いた黒いマントは、瑠都の肩に掛けられた。突然与えられた温もりに、目を丸くした瑠都。見下ろすジュカヒットの色付いた唇が薄く開いた。


「冷える」


 ジュカヒットに言われて、瑠都は自分の格好を見た。薄い寝衣のままで飛び出してきたことを思い出して、顔を赤くした。


「あ……」


「部屋まで送る」


 ジュカヒットはそれ以上何も言わなかった。その代わり、瑠都の肩に掛けたマントを強く巻き付けた。少しずっしりとしたマントからは、爽やかな甘い香りがした。


 歩き出したジュカヒットに続こうと瑠都がルビーのほうを振り返る。そうすればルビーは駆け寄ってきて、瑠都の手を握った。そして空いているもう片方の手で、少し先に進んでいたジュカヒットの手を握った。


 瑠都とジュカヒット、その間で二人と手を繋ぐルビー。帰り道を行く仲の良い親子のような光景だった。暫しの沈黙が流れる。


「ええっと、」


 じっとその光景を見下ろすジュカヒットに、瑠都が慌てて声を出す。どうやって止めさせようか、考えた瑠都はルビーをもう一度抱き上げることにした。そうすれば自然に手は解かれるし、ジュカヒットを困らせることもないだろう。


 しかし、結果として繋がれた手が解かれることはなかった。


「このままでいい」


 ジュカヒットが短くそう言って、また歩き出したからだ。真ん中のルビーは嬉しそうに付いていき、瑠都もそれに引っ張られる。


 今日も帰りが遅かったんですね。夕食は済まされましたか。


 話したいことはたくさんあったのに、瑠都は何も口にできなかった。同じようにジュカヒットも、部屋に着くまで黙ったままだった。辿り着いてマントを返すと、途端に冷たい空気が体に触れた。穏やかに過ぎていく時間が、もう少しだけ続けばよかったのにと、そう思った。





 次の日の夜のことだった。


 その日瑠都は体調が万全とは言えず、皆よりも先に休んでいた。目が覚めた時体は楽になっていたのだが、喉が乾きを訴えていた。水をもらおうと、部屋から一歩踏み出す。まだ夜も更けきっていない時間、リメルフィリゼアたちは夕食を取っている頃だろうかと思った。


 心配をかけないよう、気付かれない内にミローネかフーニャに頼もう。それか自分で調達できれば。そんなことを考えながら歩いていると、階下から二つの声が聞こえてきた。それはミローネと、エレーナの声だった。


「こんな時間からですか」


「ええ、友人がどうしてもこの時間しか空いていなくって。馬車もいりませんし、共もいりませんから。着替えたら行ってきますね」


「しかし、身重の体で……」


「大丈夫ですから。ああ、見送りもいりませんよ。皆様の給仕中でしょう」


 どうやらエレーナは、こんな時間から出かけるらしかった。訝しげに見つめるミローネの視線を気にも留めず、廊下の向こうに消えていった。ミローネも諦めたように溜息を吐いてから、一階へと下りていった。


 瑠都は踵を返して、部屋へと戻った。ルビーがベッドから降り立ち、どこに行っていたのかと言いたげに走り寄ってきた。


 ルビーが動くことはまだジュカヒット以外には誰も知らない。ミローネやフーニャが部屋にいる時、ちょうどルビーは寝ていたからだ。


「どうしよう、ルビー」


 瑠都はルビーに視線を合わせた。


 身重の体でありながら、夜に一人きりで出かけようとするエレーナ。こんな時間しか会えない友人とはいったい誰なのか。


(怪しい、といえば怪しいけど……)


 疑ってみたところで、本当のことなのかもしれない。友人は昼間は忙しく働いていて、一人で行くのも友人と二人でゆっくり話がしたいからなのかもしれない。


 けれどトムは、エレーナの腹の子はマーチニの子ではないと言った。マーチニの子ではないと、証明してやりたいのだと。


 エレーナの行く先に、真実を知るきっかけがあるかもしれない。踏み出したら、何かが変わるだろうか。視線を上げた先で、ルビーの赤い目が宝石のように煌めいた。



 瑠都は嬉しかった。


 マーチニがルビーに出会わせてくれたこと。月が輝く夜に花を贈ってくれたこと。隣町の花市場まで連れていってくれたこと。なんの隔たりもなく接してくれること。語らい、優しく笑んで、くれたこと。


「ルビー、ここにいてね。部屋から出ちゃだめだよ」


 瑠都はルビーの頭を撫でて言い含んでから、立ち上がった。急いで寝衣から動きやすい町娘のようなドレスに着替える。引き出しに仕舞っていた白い鳥を一つだけ取り出した。

 部屋から出て早足で歩く。階下の様子を窺えば、ちょうど二階に住んでいるエレーナが階段付近までやってきたところだった。手に持つ白い鳥を、ぎゅっと強い力で握り締める。瑠都はゆっくりと、深く呼吸した。


 何が起こるか分からない。無駄足になってもいい。もし、気付かれてしまったら。


(――その時のことは、その時考えよう)


 エレーナは見つめる瑠都にも気付かず、玄関へ向かっていた。エレーナが望んだ通り、見送る使用人は誰もいなかった。


 瑠都はエレーナを追うため、足を踏み出した。


 背を押されたわけでも、手を引かれたわけでもない。自らの意思で踏み出したまっすぐな一歩。それは紛れもなく、誰かを想う、一歩だった。

 

 

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