第27話 雫に映った衝動と

 

 

 銀色のじょうろの先から、冷たい水が落ちていく。日光を受けてきらきらと輝く水は、花たちにとっては恵みの雨だ。


 城の奥にあるリメルの館。青々と広がる快晴の下では、鳥たちの囀りと、風が木を擽る音が優しく響いている。暖かい陽気に包まれて、瑠都は花壇で生き生きと咲く花たちに水をやっていた。


 初めはリメルである瑠都に水やりなどさせられないと言っていた使用人たちも、今ではすっかり瑠都の習慣だと認めてくれている。一通り水やりを終えた瑠都は、小さく息を吐いた。顔を上げれば眩い日光が降り注いで、すっと目を細めた。



 少しでも時間があれば、考えてしまうのはマーチニのことばかりだ。


 瑠都が初めてトムと会話した日からも、マーチニと顔を合わせる機会は減っていた。夜遅くに帰ってきて、朝早くに出ていく。そんな生活をしているマーチニと過ごす時間は極端に少ない。


 たまに顔を合わせた時でさえ、瑠都とマーチニとの間には今までとは違う、静かに沈んだ空気が流れる気がしていた。そんな空気の中で、トムが言っていた話は本当なのかと問うことなど、瑠都にはできなかった。


 誤魔化すように、なんのこと、と言われるかもしれない。まさか、エレーナの言っていることは本当だよと認められてしまったら、それこそ瑠都は自分がまっすぐ立っていられないのではないかと思った。


 日差しのせいか、考え事のせいか。くらりと一瞬だけ視界が霞んだ。片手で目を覆ってやり過ごす。


(……そろそろ戻ろうかな)


 一通り水やりは終えた。これ以上外にいて日差しにやられてしまったとあれば、ミローネやフーニャの気苦労をまた増やしてしまう。それでなくても最近は、マーチニとのことで心配をかけてしまっているというのに。


 花壇のすぐ側には、花を手入れするための道具が収納されている小屋がある。その小屋の中にじょうろを仕舞って、瑠都は館の中に戻るために玄関へと向かった。





 玄関の扉を開けようとした手は途中で止まった。瑠都が触れるより先に、中からゆっくりと扉が開いたからだ。


 そこから現れたのは、エレーナだった。エレーナは扉の前に立っていた瑠都に一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐに微笑んだ。


「……おかえりなさい。外は暑かったでしょう」


「いえ、そんなには……」


 エレーナは瑠都が水やりをしていたとは知らず、どこかに出掛けていたと思ったようだ。今度は瑠都がエレーナに話し掛けた。


「どこか、行かれるんですか」


「ええ、医者の所へ。わざわざ行かなくても呼びますからと皆様おっしゃってくださるのだけれど、少しは歩いたほうが体にもいいかと思って」


 誰の子であろうと、エレーナが子を宿していることは事実だ。瑠都は愛おしむように自身の腹を撫でたエレーナをじっと見つめた。


 たおやかに笑むエレーナはトムが言う通り、本当に嘘を吐いているのだろうか。そんな素振りも一切見せず、堂々としているエレーナ。瑠都はトムから預かった録音機能のある鳥を、まだ一度も使用していなかった。怪しい様子もまったくないエレーナに対して使用する機会がなかったからだ。


「マーチニ様も皆様も、労って優しくしてくれるから、ついつい怠けてしまって……いけませんわね」


 エレーナは外に出ると、後ろ手に扉を閉めた。そのまま横を通り過ぎていくのだろうと思っていた瑠都は、動かないままのエレーナに首を傾げた。


 そういえば、エレーナと二人きりになるのは初めてではなかっただろうか。黙ってしまったエレーナに声を掛けるべきか迷った瑠都が、躊躇いながらも口を開いた時、エレーナが浮かべていた笑みがはたと消えた。


「……あなた、泣いてマーチニ様に縋ったりしないのね」


 一瞬、何を言われたのかと瑠都の思考が固まった。聞き間違いだろうかと耳を疑った瑠都に構わず、エレーナは続ける。


「私以外の女を側に置くなって、惨めにも泣いて縋るかと思っていたの。少しつまらないけれど、そうよね……あなた、そんなことできる立場ではないものね。とても、可哀想な人だわ」


「……え?」


 エレーナの言葉が鋭い棘になって瑠都に向けられた。目の前にいるのは、ついさっきまで微笑んでいた女と本当に同一人物だろうか。今や嘲笑に変わったものを隠さないままで一歩、また一歩と近付いてくる。


「印があるだけで、愛されてもいないのに、のうのうとここにいるのはどんな気分? 凍えるほど冷たい家だわ。家族といっても、あなたは結局他人なのね。ほら、私の中には彼の子どもがいるのよ。愛して、愛されている何よりの証拠。……羨ましい? あなたにはきっと、一生手に入らないものだから」


 瑠都の目の前がぐにゃりと歪んで、視界に映るものすべてが霞んでいった。

 真っ白に、なっていく。考えてはいけないと警鐘を鳴らす頭の中で、それでもぐるぐると巡っていくもの。



――どうしてそんなこと、言われなくてはいけないの。


 そんなこと、ずっと、この印が宿った時からずっと。


「……知ってます。そんなこと……ずっと前から、私が一番よく知ってます」


 胸が痛い。締め付けるものから逃れることができない。ずっと自分の中だけにあったものが、人の手によって引きずり出されていく感覚。理解していたはずの感情も感傷もすべて晒されて、惨めにももう一度心の中を傷だらけにしていく。


 瑠都の後ろで音がした。立ち止まった足音にびくりと体を震わせた瑠都とは対照的に、エレーナは輝くような明るい笑顔を見せた。


「マーチニ様、おかえりなさい。今日は早いお帰りでしたのね」


 エレーナがその名を紡いだ瞬間、瑠都は体はひとりでに動き出していた。一度も振り返ることなく、玄関の扉に手をかけていた。

 今だけは、これ以上名を聞くことも、姿を見ることもしたくなかった。いや違う、できなかったのだ。


 知られたくない。惨めな想いも、歪んだ視界も、マーチニには知られたくなかった。


 ゆっくりと扉が閉まる音がした。けれど、一直線で階段へ向かう瑠都の背後でまた扉が音を立てた。


「ルトちゃん待ってっ」


 マーチニが追ってきたのだと分かっても、瑠都は足を止めなかった。


「待って、ルトちゃん!」


 もう少しで階段に辿り着こうという時、マーチニの手が瑠都の手首を掴んだ。引き止められた瑠都はそれでも振り向かなかった。


「……どうしたの。何か言われた?」


 マーチニは、瑠都とエレーナ、二人を包む空気がおかしかったことに気が付いていた。だから逃げた瑠都が振り向かない原因も、そこにあると思ったのだ。


 いくばくかの間を置いて、瑠都が首を横に振った。


 黙ったままの瑠都が振り返る様子はない。マーチニはそれが、ひどく悲しかった。何かあったはずのに、それを言うこともなく、頼る素振りすら見せてくれない。


 その原因が自分にあることも、マーチニはよく分かっていた。


 ゆっくりと、それでも確実に埋まっていっていたはずの二人の心の距離が、今は離れてしまっている。すべては自分のふがいなさが招いたこと。分かっていても、瑠都がもう、その黒い瞳にすらマーチニを映してくれないという事実が、痛いくらいに悲しかった。


 瑠都はエレーナのことも子どものことも、マーチニに問い質すことはしなかった。自惚れでなければ、ただ口を噤んだ瑠都だって何かしらの感情を抱いてくれたはずなのだ。


 瑠都がその感情を躊躇いもなく口にできるような人ではないと、分かっているつもりだ。それでも言葉にしてほしいと願うのは、男の浅はかな欲だっただろうか。


「……ルトちゃんは何も言わないんだね」


 気付けば、マーチニの口からはそんな言葉がこぼれていた。瑠都の肩が、微かに揺れた。


「ねえ、俺は……」


 瑠都はマーチニの言葉を待たなかった。階段を上ろうと動いた瑠都の体を、手首を握ったままのマーチニがまたも引き止めた。


「……離してください」


 マーチニに届いた瑠都の微かな声は、明確な拒否を示していた。離してくれと言った細い手は、小さく震えている。堪らなくなって、マーチニはその手を引いた。強引に振り向かせた瑠都の顔を見て、マーチニが息を飲んだ。


 やっとマーチニを映した黒い瞳からは、雫がこぼれていた。頬を流れる透明な涙は、顎を伝って床に落ちていく。止まることも知らずに、潤んだ瞳から、いくつもいくつも。


「……言ったら、何か変わりますか。言ったら、私のこと……想ってくれますか」


 滲む視界の先で、マーチニが驚いて目を見開いているのが分かった。その口からどんな言葉が漏れるのか知るのが怖くて、瑠都は力の抜けたマーチニの手から逃れた。


「……ごめんなさい、忘れてください」


 瑠都はそっと言い残して、階段を上がっていった。マーチニが追ってくることはもうなかった。


 誰にも会いたくないと瑠都が願った通り、自室に辿り着くまで誰かと擦れ違うこともなかった。部屋の扉を内から閉めて、背中を預けた。ずるずると背中を落として、座り込んだ。


 せり上がってくるものに耐えるように、音もなく悲鳴を上げる喉が痛い。うまく呼吸ができなくて、胸が締め付けられた。


 水やりになんて出るんじゃなかった。すぐにエレーナの横を通り過ぎていればよかった。マーチニにあんなこと、言うんじゃなかった。


 何も言ってくれないのはそっちじゃないと、責めればよかったのか。


 そもそも、花の形をした印を宿さなければ、こんな想いも、抱かなくて済んだのに。


 後悔ばかりがよぎった。いっそのこと、すべて捨ててしまえたらよかった。止まらない涙がその中の何を引き止めていたのか、瑠都だって、よく分かっていた。

 

 

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