第26話 協力者
「ほら、触ってみてください」
エレーナはメイスの手を引いて、自らの腹に導いた。ぴしりと固まったメイスに構わず、艶やかな笑みを浮かべたままで続けた。
「この子も家族になるんですもの。仲良くしてやってくださいね」
「え、は、はい……」
メイスが触れているエレーナの腹には、一つの命が宿っている。か細いエレーナの体は今、エレーナだけのものではない。また別の幼い命が小さく、それでもしっかり息をしているのだ。
メイスは、なんとも不思議な気持ちになった。命の起源を追うことは途方もない。それでもその神秘がいたく心を打った。
(いつか、いつか僕も――)
自らの血を引いた幼子を抱くのだろうか。
そんなことを考えてしまうのも、至極当たり前のことであった。今はまだ遠く思えるが、やがて辿り着く未来ではきっとそうなっていればいいと思った。温かい家庭の中で笑い合うメイスと幼子と、そして瑠都。
メイスの顔がぼわっと熱を宿した。気付かれないように少し顔を伏せながら、エレーナの腹から手を離した。
普段は夫婦というよりかは、友人として仲良くしているメイスと瑠都。けれど間違いなくメイスは瑠都の夫であり、瑠都はメイスの妻である。ならばいつか二人の間に、無邪気に笑む幼子がいたっておかしくない。
(何考えてるんだよ……)
気恥ずかしさを覚えたメイスは、自分の中にそんな理想が存在していたことに驚いた。けれどもメイスはその理想を、すんなりと受け止めることができた。そうか、とすんなり納得することができたのだ。
「あらルト様」
メイスはエレーナのその声に、伏せていた顔を上げた。
居間の入り口に立っている瑠都は、ソファーに座るメイスとエレーナをじっと見つめていた。名を呼んだエレーナと目が合って、軽く会釈する。
「今メイス様にお
嬉しそうなエレーナの言葉が終わるより先に、メイスは立ち上がって瑠都の近くへ寄っていった。
「出掛けるの?」
瑠都の格好を見てから、メイスが尋ねた。
「うん、マリーと約束してて」
穏やかな口調で言った瑠都に、メイスは少しだけ
瑠都はここ最近、出掛けることが多くなった。それも、一人で。今までであったらメイスを誘っていたようなことでも、一人で行ってしまうのだ。
寂しくもあったが、それ以上にメイスは心配だった。瑠都はこの家にいたくないから、頻繁に出掛けているのではないだろうか。
エレーナは、マーチニにも他のリメルフィリゼアにも、近い距離で接する。躊躇いなく話しかけ、壁などまるきりないかのように微笑みかける。
メイスはエレーナがそうやってこの家に馴染んでいこうとする度、瑠都がゆっくりと離れていっているような気がしていた。家からも、リメルフィリゼアたちからも。
「ルト、大丈夫?」
メイスは瑠都にだけ聞こえる声で囁いた。問いを受けて、瑠都の黒い瞳がゆらりと揺れる。何か返そうして開いたはずの口は、すぐに閉じられた。
「……うん」
メイスに届いたのは、短い言葉だけだった。
瑠都は城の中をゆっくりとした歩調で歩いていた。穏やかに過ぎていく時間。今日はいつ、家に帰ろうか。
マリーと約束しているなんで嘘だ。
あの家にいると、どうしても息が詰まってしまう。外に出ていれば多少は気が紛れる。嫌なことばかり考える自分からも、遠ざかることができた。
「ごめんなさい」
「おっと、すみません」
瑠都の謝罪は、ぶつかりかけた相手の謝罪と重なった。
相手の男は魔法員の証である白いローブを着ていた。見知らぬ顔にもう一度頭を下げた瑠都を、男は目を見開いて凝視している。立ち去る様子のない男に、瑠都は首を傾げた。
「……あの?」
「え? ああ、すみません。えっと……リメル様ですよね」
男は瑠都のことを知っていたらしい。遠目に見たことがあって、という男の言葉を、瑠都は静かに聞いていた。
「俺、魔法員のトムっていいます」
「トムさん……」
瑠都はその名に聞き覚えがあった。
「マーチニとは飲み仲間で」
あの夜、マーチニとエレーナが飲み屋で出会ったという夜。マーチニと一緒にいた男の中の一人だ。
「あとエルは一応部下なんですけど」
「そうなんですね」
「可愛くないでしょあいつ、愛想ないし」
「はは……」
「その上頑固なとこもありますからね。魔法の宿の研究に付き合わされて俺も寝不足ですよ」
「お疲れ様です……」
取り繕うように言葉を発していたトムと、律儀に返す瑠都。二人の間に、暫しの沈黙が流れた。
目の前のトムは何かに悩むように眉根を寄せている。このまま立ち去っていいものだろうかと、瑠都は思った。
「……大変でしたね、今回は」
「え?」
「あー、えっと、マーチニのことで」
マーチニとエレーナ、子どものことはまだ公にはされていない。トムはあの夜一緒にいたことから事情を聞かれて知っていたのだろう。
二人の間にはやはり沈黙が漂った。返す言葉を探す瑠都を前にして、トムは大きく息を吸った。
「ああもう! 迷う必要あるか俺!」
突然響いた大きな声に身を固くした瑠都に、トムが詰め寄った。
「リメル様、俺に協力してください!」
「協力?」
なんのことだろうかと瑠都は戸惑った。初対面であるはずの瑠都が、トムに協力できることとはいったい。距離を縮めたトムの真剣な面持ちに、瑠都もまっすぐ向き合った。
「マーチニの子じゃないって、証明してやりたいんだ……!」
絞り出されたのは掠れた声だった。瑠都の心臓がどくりと、一際大きな音を立てた。
「……え?」
かろうじて平静を保とうとした瑠都の声は、少しだけ震えていた。吐息にも似た頼りない言葉が、小さな口からこぼれる。
「エレーナの腹の子はマーチニの子じゃありません。本人から聞いたんです。あいつ、記憶はないけど確証はあるみたいで……今もずっと証言を集めるために動いてます」
エレーナが現れてから、マーチニは誰に何を言われても否定も肯定もしなかった。自分の子ではないとも、自分の子であるとも。けれど心の内ではずっと、確かな否定を飼っていたというのか。
ならばエレーナが嘘を吐いていたということだ。いったいなぜ、なんのために。
ぐるぐると巡る思考の波に飲まれそうになる。哀れにも溺れて、沈んでいってしまいそうだった。それでもはっきりと瑠都の胸に刺さる、一つの棘。
「でも……」
ゆっくりと紡がれていく震えた言葉を、トムはただ黙って待っていた。
「でもマーチニさんは、何も……」
マーチニは何も言わなかった。何も、言ってはくれなかった。
頼りなかっただろうか。言ったところで仕方がないと判断したのだろうか。関係ないと、思ったのだろうか。
「あいつ、そういう奴なんですよ。へらへらしてるように見えて、本当はすごく
――大丈夫だよ、ありがとう。トムだって最近は忙しいんだろ。こっちはなんとかなるからさ、俺なんかに構ってる暇があるんだったら早く帰って寝るこった。じゃあ行くよ……ありがとな。
トムはマーチニと町中で出会い、話を聞いた夜のことを思い出した。何か協力できなかいかと問うたトムに返ってきた、マーチニの優しさ。
「でもやっぱ、放っておけなくて。
トムは瑠都の両肩に手を置いた。縋るような手が、どうしようもなく熱かった。
「でも俺は一緒に住んでるわけじゃないし、エレーナとは一度飲んだことがあるだけで、接点があるわけでもない。となると、近くにいる人に協力してもらうしかない。エルに頼もうかとも思ったけど、あいつ絶対協力なんてしてくれないですから」
お願いしますと必死に頼むトムに、瑠都は何も言えなかった。
瑠都の肩から手を離したトムは背負っていた鞄から、両手の中に収まる大きさの、鳥の形をした物体を取り出した。
「これ、俺が作った魔法の道具なんです。首輪のボタンを押すと録音が始まって、もう一回押すと停止する。停止ボタンが押されると、鳥は羽ばたいて俺の元までやってくる」
トムから差し出された鳥の置物を、瑠都は思わず受け取ってしまった。白い体の無機質な鳥、唯一の色を差す首輪の赤。
「録音機能があるとバレないように、再生機能を付けてないんです。だから俺の元に飛んできたらすぐ聞けるように手を加えます」
次々と取り出されていく白い鳥は、瑠都の手の中に既に三つも乗っている。
「なんでもいいんです。リメルの館でエレーナが怪しい動きを見せたら、使ってみてください。……お願い、できますか」
真剣な面持ちのトムが瑠都をからかっているわけではないということは、よく分かる。けれど、すんなり受け止めきることもできなかった。
本当にマーチニの子どもではないのだろうか。信じて、いいのだろうか。
真実を知りたいと思った。だから瑠都は、トムに頷いてみせた。
「ありがとうございますっ」
トムは、勢いよく頭を下げた。
「マリー様待ってくださいませっ。どちらへ行かれるのです」
「どこってルトの所に決まってるでしょう」
廊下の向こうから、よく知る声が近付いてきた。現れたのは、きらびやかなドレスを身に纏ったマリーだ。
「ルト? どうしてこんな所に。わたくしも今から会いにいこうと思ってたところなの」
マリーは瑠都の姿を見つけて、猫のような大きな目を丸くした。掛け寄ってくるなり、瑠都を強く抱き締めた。後ろからは、息を切らした侍女が追ってきている。
「……あなたは?」
「魔法員のトムです。お邪魔してはいけませんので、もう去ります」
存在を見つけて首を傾げたマリーに、トムはあっさりとした挨拶を向けた。
「では、リメル様……よろしくお願いします」
真摯にもう一度頭を下げたトムは、踵を返して去っていく。
その態度に疑問を抱いたマリーだったが、自分の用事を優先させることを選んだようだった。体を離して、瑠都の頬に両手を添える。
「ルト、マーチニのことを聞いて心配していたのよ。すぐに会いにいけなくてごめんなさい」
「ううん……」
大丈夫かと、メイスと同じように尋ねられて、瑠都は小さく頷いた。マリーは心配そうに、瑠都の顔を覗き込んだ。
瑠都は忙しいはずのマリーが、自分のためにわざわざ時間を作って、駆け寄ってきてくれたことが何よりも嬉しかった。
「……ありがとマリー」
マリーはもう一度瑠都を強く抱き締めた。柔らかくて、優しい匂いがした。
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