第24話 あなたの心はどこにある

 

 

 女は言った。

 ずっと前から、遠目で見るマーチニに憧れを抱いていたと。



 三ヵ月前のある夜、店で出会ったのは本当に偶然だった。数人の友人らと飲みに来ていたマーチニの姿を見つけた時、その店を選んだ自分の幸運に心から感謝した。


 一人の友人を連れて、一緒に飲みませんかと声を掛けた。快く受け入れてくれたマーチニの笑顔は今でも鮮明に思い出せる。胸の高鳴りは間違いなく本物で、ああ私は運命に出会ったのだと、本気でそう思った。


 緊張のあまり少しの酒しか口にできなかった女とは違って、マーチニや他の男たちは大量の酒をあおっていた。夜も更けきって解散する頃には、すっかり出来上がっていた。



 女は帰ろうとしていたマーチニを店の外で呼び止めた。そしてずっと想っていたと告げた。マーチニは女の好きな笑顔のままで、ありがとうと言った。

 マーチニの顔はわずかに上気していて、相当酔っているのだとすぐに分かった。


 この様子ではもしかしたら、明日には忘れてしまっているかもしれない。女とこうして向かい合っていることも、告げた想いも。


 それでもいいと、女は思った。忘れてもいいから、焼き付けたいと。


 だから、家に来ないかと誘った。そんな酔った様子で帰らせるのは心配だからともっともらしい言葉で取り繕ったのは、ただの女の情念と劣情だった。


 マーチニは、やはり女の好きな顔のままで、いいよ、と言った。心配そうな視線を寄越す友人を置いて、女はマーチニを連れ帰った。


 それからのことはとても言葉にできない。

 生まれて初めて感じる、身に余るほどの幸福と熱すぎる眩暈の奥に見た愛。


 そう確かにあの夜、二人は心の底から愛し合っていた。





「朝起きたらマーチニ様はいなかったから……もう会うことはないんだろうなと思ったんです」


 でも、と言葉を続けながら、女、エレーナは腹を優しく撫でた。


「マーチニ様の子どもが宿っていると分かって、私、嬉しくて。だってまたマーチニ様に会える理由ができたし、それに……これからもずっとマーチニ様と一緒にいられるということでしょう」


 嬉しそうに笑むエレーナとは対照的に、同じ部屋にいた他の四人は皆神妙な面持ちで子が宿っているというエレーナの腹を見た。


 レスチナールの町中でエレーナに子どもがいると告げられたあと、詳しく話を聞くために場所を変えていた。


 城の中の一室には、瑠都とマーチニ、エレーナと、リメルの館から呼ばれたミローネ、ミローネに引っ張ってこられたメイスの五人がいた。ソファーの一つには瑠都とマーチニが、対面するソファーにはエレーナが一人で座っている。


 二つのソファーの間にあるテーブルの横には、難しい顔をしたミローネが立っており、少し離れた場所に置かれた椅子には、動揺が隠せていないメイスが座っている。


「……確かに君とは一度飲んだことがあるけど、店を出てからのことはまったく覚えてないんだよね。でも目が覚めた時はちゃんと自分の部屋で寝てたんだけどな」


 マーチニは穏やかな口調でそう言ったが、エレーナの主張をすべて信じているわけではないようだった。隣で顔を伏せた瑠都の気配を感じ取って、深緑の瞳をすっと細めた。


「たくさん飲んでいらっしゃったから、きっと記憶をなくされているんです。でもこの子は、マーチニ様の子で間違いありません」


 信じてくださいと声を震わせたエレーナはマーチニをまっすぐに捉えていた。町で声を掛けてから今に至るまで、エレーナは懇願するような視線をマーチニに送るばかりで、瑠都を含め他の者を気にとめることはほとんどなかった。


「大体の話は分かりました。今日はもう日も暮れます。続きはまた後日にしましょう」


 ミローネが難しい顔のままで、平行線を辿る話を切り上げた。


 エレーナは腹に宿る子の父親はマーチニだと訴えるが、マーチニは記憶がない分迂闊なことも言えず、すぐにはっきりと認めることもできない。


 何せマーチニはリメルの夫であるリメルフィリゼア。リメルにも、他のリメルフィリゼアにも関わることであり、自分一人だけで済む問題ではないのだ。


 そのことをよく理解していたミローネが切り上げたのだが、エレーナは少し不満そうに端正な顔を歪めた。


「共を付けますので、今日の所はお帰りください。妊娠されているのであれば、夜風も多少お体に障るかもしれませんので」


 しかしミローネに体のことを言われて、渋々ではあったが納得したようだった。


「……分かりました。でも私、帰る場所がないんです」


「なぜです」


「今まで住んでいた所は、もう引き払いました。だって、マーチニ様の伴侶になれるんだから、もう帰る必要もないでしょう。それに……」


 そこでエレーナはようやく瑠都を見た。揺れた波打つ金色の髪につられて顔を上げた瑠都を試すように射抜く。


「ずっと、印があるという理由だけでマーチニ様の妻と名乗るリメル様が羨ましかったんです。私も同じ妻になるのだから、一つも引けを取りたくない。早く同じ場所に立ちたいんです」


「あなたっ……」


 声を荒げたミローネは、思いとどまって唇をかんだ。


 この世界にやってきた瑠都が、突然にリメルという存在だと告げられ、知りもしない者と結婚することになり、戸惑い、苦しみ、悩み、それでもリメルフィリゼアたちに段々と心を開いていく様子を、ずっと側で見てきた。


 それなのに、印があるだけで、なんて。ミローネはそんな言葉を、瑠都には聞かせたくなかった。天は、この幼気な少女をどれだけ過酷な運命に落とせば気が済むというのだろうか。


「……あの」


 瑠都が小さく口を開いた。この部屋に入ってから初めて発せられた瑠都の言葉に、皆が注目する。


「館にある部屋、使ってください。いつも綺麗に掃除してるから、すぐに使えると思います」


「ルトちゃん」


「ごめんなさい、私先に帰ります」


 驚いたように名前を呼んだマーチニを見ることもなく、瑠都は立ち上がった。悲しそうに眉を下げたマーチニは、黒い髪の向こうにある瑠都の横顔、その表情を窺うことすらできなかった。


「本当に? ありがとうございます」


 嬉しそうに両手を合わせたエレーナに軽く頭を下げてから、瑠都は部屋を出ていった。


「ぼ、僕も一緒に帰ってます」


 慌てて立ち上がったメイスに、ミローネがよろしくお願いしますと声を掛けた。


 二人が退室し、静まりかえった部屋。


「……スティリオ様に報告に行ってくるよ。さすがに何も言わないわけにいかないしね。ミローネさんは一緒に来てくれるかい」


「はい」


「人を呼ぶから、君はリメルの館に行っておいてくれ」


「待っていてはだめですか。それか、私も一緒にスティリオ様の所へ」


 エレーナが立ち上がってミローネの隣に並んだマーチニに問えば、マーチニは困った顔で丁重に申し出を断った。エレーナは分かりましたと残念そうに呟く。


「じゃあね」


 けれど去っていこうとするマーチニの背を見て、もう一度その名前を呼んだ。振り返ったマーチニに抱き付いたエレーナの柔らかい腕が、追い縋るように背に回った。


「突然こんなこと告げてごめんなさい。でも本当に、嬉しかったの……。焦っていたから、リメル様にもひどいこと言ってしまって。あとで、ちゃんと謝ります」


 マーチニがエレーナを抱き締め返すことはなかった。


「私、がんばってこの子を産むわ。がんばって、いい奥さんになるから。……好きよ、マーチニ様」


 ふわりと漂ったエレーナの甘い香りを、何かを思案するような面持ちでただ受け止めていた。





「ルト、待って! ルト!」


 何度目かのメイスの呼び掛けに、瑠都がようやく足を止めた。


「……私、なんて嫌な女なんだろ」


 小さくこぼした瑠都の言葉は、駆け寄ってきたメイスには聞こえなかったようだ。



 いつかはこんな日がくると、分かっていたではないか。


 天が伴侶と決めたリメルとは違う。リメルフィリゼアが自ら選んだ、愛で結ばれた伴侶。そんな相手がいたほうがいいと、そう思っていたはずではないか。なのに実際この時が来て、瑠都は素直に喜ぶことすらできなかった。


 マーチニの顔を見ることもできす、部屋を飛び出した。名前を呼んだマーチニはあの時、どんな顔をしていたのだろう。


「ルト? ……大丈夫?」


 立ち止まったままの瑠都の顔を、メイスが覗き込んだ。その問いはきっと、先程の部屋での出来事を指しているのだろう。


 瑠都は微かに頷いた。その手を、メイスが握った。


「帰ろう」


 優しい声色で促したメイスに手を引かれる。二人は静かに歩き出した。メイスはそれ以上何も言わなかった。


 瑠都は繋がれた手を見た。瑠都よりも大きくて、温かい手。いつかこの優しい手も離れていって、また別の誰かの手を握るのだろうか。


(……ほんとに、嫌な女)


 いつかはちゃんと離すから、今はまだ、繋いだままでいてほしい。今度こそちゃんと笑顔で、よかったね、ってそう言うから。だから、それまでは。


「……ごめんね」


「なんでルトが謝るの?」


 瑠都の言葉を受けたメイスはおかしそうに、でも少しだけ寂しそうに笑った。

 

 

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