第23話 甘い温度もいつかは消えて

 

 

 見渡す限り、眼前に広がるのは一面の花とたくさんの人。活気が溢れるこの場所は、レスチナールの隣町バルザディアにある花市場だ。


「すごい人……花もたくさん」


「でしょう。ここはいつもすごく賑やかなんだ」


 マーチニは隣で目を輝かせている瑠都を見て、くすりと笑みをこぼした。


「どこから見ていけばいいのか迷っちゃいますね」


 楽しそうに声色を弾ませる瑠都は、初めての遠出に浮き足立っていた。



 マーチニは花贈りの夜に約束した通り、瑠都を隣町の花市場まで連れてきてくれていた。いつもとは違う空気が吸えること、マーチニが本当に約束を守ってくれたこと、約束の日が爽やかな晴れだったこと。そのすべてが嬉しくて、瑠都は表情を緩めた。


「あ、」


「おっと」


 横を通った人たちに押しやられて、瑠都の体がよろめいた。揺れた体をそっと支えたマーチニの手から温度が伝わって、瑠都の頬に熱が宿る。


「大丈夫かい?」


「大丈夫です……ありがとうございます」


 離れていく手を思わず目で追ってしまって、慌てたようにすぐ逸らした。少しの寂しさを感じたなんて、そんなこと、あってはならないはずだから。



 瑠都は今日、町娘のような動きやすいドレスの上に、フード付きのマントを着ていた。今はフードを被っていないが、素顔を晒しても瑠都がリメルだと気付く者はいない。


 マーチニもいつもの紺色の軍服でない。それでも擦れ違う女性たちが目で追っていくのは、端正な顔立ちと人当たりの良さそうな笑みを携えていることが関係しているのだろう。


「そうだ、マリーから預かった手紙があるんです」


「マリー様から?」


「花市場の主人に渡すようにって言われたんです」


 瑠都は鞄の中を探って、一つの手紙を取り出した。白い封筒には綺麗な字で花市場の主人であろう人物の名前と、差出人であるマリーの名前が書かれている。


 この手紙を主人に渡す必要があるのだが、花市場にはたくさんの人がいる。その中で会ったこともないたった一人を見つけ出すことは容易ではない。


 立ち尽くす瑠都の手から、マーチニは手紙を抜き取った。


「ちょっと君、いいかな」


 マーチニは近くを通った従業員に声をかけた。


「これをここの主人に渡してほしいんだ」


 そんなことを言われたのは初めてだったのか、女性の従業員は驚いたような顔をしたが、マーチニに微笑みかけられて頬を染めた。


「ええと、シンさんにですよね」


「そう」


 マーチニは封筒に書かれた宛名をちらりと確かめてから頷いた。


「お預かりします」


「よろしく」


「……よろしくお願いします」


 手紙を受け取った従業員に、瑠都も頭を下げる。そんな瑠都とマーチニを見比べてから、従業員はシンと呼ばれた主人の元へ向かった。





「やあやあ、お待たせしたね」


 近くの花たちを眺めながら待っていると、二人の後ろから声が掛かった。眼鏡をかけた温厚そうな男性がにこやかな表情を浮かべて近付いてくる。


「君たちがルトさんとマーチニさんだね。はじめまして、この花市場の主人のシンです」


「はじめまして、瑠都です」


「どうも」


 花が好きなマリーはこの花市場に足繁く通っているらしい。花市場の主人であるシンとも交流があると、瑠都はマリーから聞いていた。


「手紙を読んだよ。花市場に興味を持ってくれてありがとう。花を愛でるという気持ちは、一介の人であろうと、一国の姫であろうと、リメルやリメルフィリゼアであろうと、同じように美しいものだね」


 シンは嬉しそうにそう言った。


「ここは広いから、どこから見ようか迷ったでしょう。ゆっくり案内させてくれたまえ、さ、どうぞ」


「でも、お仕事中じゃ」


「大丈夫、ちょうど時間ができたところなんだ。それにマリー様からも、二人をよろしく頼む、案内をしてあげてほしい、と手紙をもらったから」


 あの手紙にはそんなことが書いてあったのか。花市場に行くと教えた時にすぐに手紙を書いて満面の笑みで差し出したマリーの姿を思い出して、瑠都は苦笑いを浮かべる。


「自慢になってしまうが、ここの花市場は本当に素晴らしいんだ。世界各地から集めたたくさんの花たちが、こんなにも美しく咲き誇っている。私が世界で一番好きな場所であり、その場所をあなた方にもよく知ってもらいたい。そのためには、私が案内するのが一番だ。何せ、ここの魅力を一番に理解しているのもまた私なのだからね」


 さ、行こうと早速歩き出したシンにマーチニは付いていこうとするが、瑠都は躊躇って足を踏み出せずにいる。


「お言葉に甘えよう、ね」


 マーチニはそんな瑠都を促して、小さな手を引いた。瑠都は何も言葉を返せなくて、大人しく従った。握られたままの手は離される気配がない。シンが振り返る前に離してほしい、そう思うのに、やはり口を開くことができなかった。先程は離れていったことが少しだけ寂しかったくせに、今度は離してほしいだなんて。随分自分勝手なものだと思いながら、瑠都はそっと手を握り返した。





「じゃあルビーも動かせるかもしれないんですね」


「そうだよ。体が大きいからたくさんの魔力が必要になると思うけどね。帰ったら試してみようか」


「はいっ」


 瑠都とマーチニの二人は馬に乗って帰路に就いていた。瑠都は一人で馬に乗れないので、マーチニが後ろから手綱を握り、前に座った瑠都はその腕にすっぽり包まれている。たわいのない話をしながらゆっくりと進んでいた。


 マーチニの後ろには花市場で買った花が入った箱が乗せられている。代金はいらないとシンは言ったのだが、世話になった礼もあるのでしっかりと払った。


 花市場には本当に珍しい花がたくさんあった。瑠都はずっと感激しきりであったし、マーチニも興味津々で説明を聞くなどして、二人は存分に楽しんだ。花市場のすべてを見れたわけではないのだが、時間の問題もあって名残惜しくも後にした。そのためまだ日も高く、眩しい日差しが二人を照らしていた。日焼けするからという理由でマーチニに被せられたフードの下で瑠都は目を伏せる。


 シンは、またいつでもおいでと言った。マリー様によろしく、とも。初めての遠出と、優しい出会い。こんなにいい日があっていいのだろうかと、ぼんやり考えた。


「疲れちゃった?」


「え? あ、いえ」


「ちょっと休憩しようか」


 マーチニは手綱を引いて、馬を脇道へと逸らした。木々の間を通り抜けていくと、湖畔へと辿り着いた。日の光を受けてきらきらと輝く小さな湖に、瑠都が思わず声を漏らした。


「わあっ」


「この間見つけたんだ。いい所でしょう」


 マーチニは馬から降り、瑠都が降りるのも手伝ってやる。馬の手綱を近くの木へ結び付けた。


 瑠都は早足で湖の近くへと寄っていった。湖の向こうからやってきた向かい風に吹かれて、被っていたフードが外れる。


 辺りには人の姿は見受けられない。漂う静けさの中、どこからか鳥のさえずる声が聞こえてくる。穏やかな情景に、瑠都は両手を広げて深く息を吸った。新鮮な空気が体中に広がる。


 後ろから足音が近付いてくる。隣に並んだマーチニも、同じように両手を広げた。


「……うん、癒されるね」


「はい」


 暫しそのままで揺れる湖を眺めた。二人の間に会話はなかったが、不思議と気まずくはなかった。


 静かな均衡を破ったのは、瑠都だった。


「……そういえば、いにしえのリメルは湖に身を投げたんですよね」


 悲しみと絶望に追いやられて、自ら命を絶った遠い昔のリメル。そのリメルを飲み込んだのも、今目の前に広がっているような、静かで美しい湖だったのだろうか。


「そうだったね」


 マーチニは瑠都ほど感傷に浸る様子もなくさらりと言った。


「ルトちゃんはあの本よく読んでるよね」


「なんだか、手放せなくて」


 いにしえのリメルのことが書かれた本は、未だ書庫に戻らず、瑠都の部屋にあった。幾度となく手に取ったのに、気付けばまた読み返してしまっている。


 同じリメルの話だからか、そのリメルが悲しい運命を辿ったからか、それとも。


「……あの本を読んでから時々、銀色の狼の夢を見るようになったんです。だから気になるのかもしれない」


「銀色の狼の夢?」


 マーチニは片眉を上げて、瑠都の言葉を繰り返した。瑠都は頷いて肯定を示す。


「そりゃ、よくない夢だ」


「どうしてですか」


「銀色の狼はこの世界では嫌われているし、不吉な物の象徴みたいなもんだよ。闇に魅せられて、最後の最後にリメルを追い詰めた悪い奴だからさ」


「悪い奴……」


 瑠都の夢に出てくる銀色の狼は、いつもただまっすぐにこちらを見つめてくる。鋭い牙で襲いかかってくることもなければ、敵意に満ちた眼差しを向けられることもない。


 だから瑠都は、その銀色の狼を恐ろしいと思ったことは一度もなかった。


「悪いことが起きる前兆だったりして」


「えっ」


「はは、冗談だよ」


「も、もう……」


 からかうように言ったマーチニに抗議の視線を寄越してから、瑠都はしゃがんで湖に手を伸ばした。


 触れた水は冷たい。瑠都の手が入った所から徐々に広がる波紋が、やがて飲み込まれるようにして消えていった。




 夕暮れ時、町が茜色に染まる頃、瑠都とマーチニを乗せた馬はレスチナールの町中を緩やかな速度で進んでいた。瑠都はマーチニによって再び目深に被せられたフードの奥で、暮れていく町の様子を眺めた。ジーベルグ城が段々と近付いてくる。


 今日という一日が、もうすぐ終わってしまう。

 それを残念だと感じる自分がいることに気が付いて、瑠都は少しだけ戸惑った。


「……マーチニさん」


 か細い声で瑠都に呼ばれたマーチニは、なんだい、と穏やかな口調で返してやる。


「今日は本当に……ありがとうございました」


 自身の腕の中で小さく礼を述べた瑠都に、マーチニは人知れず笑みをこぼした。


「楽しかった?」


「はい、とても」


「それならよかった」


 マーチニもまた、このゆるりとした優しい時間もあと少しで終わってしまうなと考えていた。それまではまだ腕の中の幼い妻を独り占めしていよう、なんてそんなこと、前は考える男でもなかったろうにと、自身の隠しようのない変化を感じていた。


「また……」


 瑠都は何かを言いかけて、けれどすぐに口を閉ざしてしまった。


「また?」


「なんでも、ないです」


 マーチニが促しても、瑠都は誤魔化すように首を横に振った。


「教えてよ」


 けれどマーチニがもう一度乞えば、瑠都はおずおずと口を開いた。


「……また、一緒にお出掛けしてくれますか」


 それは、小さな願いだった。祈りに似た問いにも思えて、マーチニは驚いたように目を丸くした。


 もし誰かが今の言葉を聞いていたなら、些細なことだと笑うだろうか。そんなことすら口にするのを躊躇ったのかと。


 けれどマーチニは、そんな思いは一切抱かなかった。いじらしくて、幼くて、なんて眩しい願いだろうか。


「……もちろん。喜んでお供しますよ、我らが姫君」


 フードの上から、そっと瑠都の頭に口付けた。ほんの微かな熱情に、瑠都が気付くことはなかった。今はまだそれでいいと、マーチニは満足げに笑った。



「マーチニ様!」


 その時、沿道から声が掛かった。

 耳を擽る高い声に、呼ばれたマーチニと、つられた瑠都が顔を向ける。


 そこには、一人の女が立っていた。女は馬が止まったことを確認すると、すぐ側までやってくる。

 波打つ金色の髪、茶色の瞳はどこか潤んでいるように思えた。豊かな胸の谷間が目に入って、瑠都は思わず視線を逸らした。


「君は確か……」


 マーチニは女に見覚えがあったようだが、それ以上のことは思い出せなかったらしい。


「私、エレーナです。一度だけ飲みの席でご一緒したことが」


「ああ、そうだったね」


 女の潤んだ目はまっすぐにマーチニを捉えていて、瑠都を気にする様子はなかった。思い出したように声を上げたマーチニに、不安げな顔を見せる。


「……覚えてませんか、あの夜のこと」


 静かに落とされた女の声を聞いて、瑠都は再び視線を向けた。どくりと、音を立てた心臓が脈打つ。


 女は緩やかな手付きで自分の腹に手をやった。慈しむように撫でた手が、やがてすべてを奪っていく。


「私……おなかに、あなたの子どもがいるんです」

 

 

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