第22話 知らずの歯車
「もう少しお休みになられたほうがよいのでは……」
心配そうに体を支えるミローネに、瑠都は大丈夫ですと、か細く答えて笑ってみせた。
今朝いつもの時間に起床した瑠都だったが、体調が優れず再びベッドに沈んでいたのだ。昼前に目を覚ました瑠都は、まだ少しの気だるさが残る体を無理矢理動かして起きあがった。
リメルフィリゼアたちはもうとっくに出掛けてしまっているだろうし、部屋の外からは使用人たちが忙しなく働く足音が聞こえてくる。
自分だけがまだ温かなベッドの中で惰眠を貪っていることがなんとなく申し訳なく思えて、起きあがった瑠都。心配そうな視線を寄越すミローネにもう一度大丈夫だと繰り返した。
実際、熱が出ているわけではないのだ。だからミローネが医者を呼ぼうとした時も止めた。
「さっきよりかは
「本当ですか」
瑠都の肩にカーディガンをかけたミローネは、頑なによくなったと言い張る主を未だ心配しながらも、その言葉を信じることにしたようだ。
「お疲れが出たのでしょうか」
この世界にやってきてから突然に今までとは違う環境に身を置くことになった瑠都。順応しようと気を張る内に疲れが溜まったのではないかと、ミローネは予想していた。
「ともかく、今日はゆっくりお過ごしくださいね。くれぐれも無理なことはなさらないでくださいよ」
念を押すように言われて、瑠都は大人しく頷いた。横で寝ていたルビーの頭を撫でてから、着替えるためにベッドから降りた。
部屋の中は静まりかえっている。窓際に椅子と小さなテーブルを持ってきた瑠都は黙々と刺繍に勤しんでいた。マリーに連れられて城で刺繍を習ってから、瑠都はその楽しさにすっかり夢中になってしまっていた。
朝食と昼食を兼ねた軽めの食事を取ったあとすぐに刺繍を始め、もうどれくらいの時間が経ったのだろうか。窓を叩く雨音に、瑠都は手を止めて顔を上げた。
今日は一日どんよりとした雨空だったが、いよいよ降り出したらしい。
旅に出ている一団はこの雨の影響を受けていないだろうか。そんなことを考えながら窓越しに空を見上げる。背もたれに身を預けて、息を吐いた。刺繍に集中していたせいか、少し肩が痛い。
そういえば、今日は子どもたちが公園に遊びにくる日ではなかっただろうか。次第に強くなっていく雨音。この様子では、今日の遊びは中止だろう。残念がる子どもたちの顔が簡単に思い描けた。
子どもたちは瑠都がリメルだということを知らない。一歩も下がることもなく等身大でぶつかってきてくれる子どもたちはそこはかとなく明るくて、一緒にいると自分も元気になれる気がするのだ。それに子どもたちの先生であるレマルダも、瑠都の訪れを優しく受け入れてくれる。
この世界のことについてよく知らない瑠都だったが、レマルダはそれを不審がることもなく優しい笑みを携えて色々なことを教えてくれた。子どもたちは大人だからという理由で瑠都のことを「先生」と呼ぶが、レマルダの前では瑠都もまた一人の生徒のようだった。
この間は木に纏わる不思議な話を教えてもらった。
公園にあるベンチに影を落とす大きな木は、この世に一本しか存在しない奇妙な木だというのだ。誰にもその起源や、名前すら知られておらず、世界中どこを探しても同じ木は見つけられないという。
そしてこの木には、なぜか二種類の花が咲くらしかった。形も色もまったく違う花が、同じ木に咲く。寄り添うようにして咲く赤と白の花はとても美しくて、見る者の視線を釘付けにして離さない。散る姿さえどこか幻想的で、蕾から枯れ葉まで人の記憶に鮮明に焼き付く、奇妙で、不思議な花。
赤い花と白い花は同時には咲かない。まず赤い花が咲き、次に白い花が咲く。二つの花の寿命は短く、赤い花が散ると白い花が散る。
どうしてそんな咲き方をするのか、古来より人々の議論の種であったらしい。
それはただの花の一つの咲き方、世界に一つしかない木に咲くから珍しいだけであって、それほど特異なわけではない。
それは二つの花の奪い合い、赤い花の養分を吸い取って白い花が咲き、赤い花も寄り添った白い花から養分を奪い返そうとする、だから二つの花は短命なのだ。
「あなたはどう思う?」
レマルダは静かに話を聞いていた瑠都に、そう尋ねた。
「私は……」
考える瑠都を、子どもたちが急かす。
「……二つの花は、想い合っているんじゃないでしょうか」
今はまだ花が咲いていない木を見上げる。緑の葉は風に吹かれて、そよそよと優雅に揺れていた。
「あなたが生きるなら私も生きる。あなたが還るなら私も還る。
そこまで言ってから、瑠都は今の自分の状況を思い出して頬を赤らめた。
「な、なーんて」
誤魔化すように笑った瑠都に子どもたちは、ルル先生はいつも不思議なことを考えるねと感心した面持ちで言った。
「……昔の教え子に、あなたと似たようなことを言っていた子がいました」
レマルダはどこか懐かしそうに目を細めた。
「まるで仲睦まじい
めおとってなあに、と無邪気な声色で問う子ども。物知りな子どもがそれに答える。
「あの子にも教えてあげたいわ」
同じようなことを考える人がここにいるわよと、そう教えてあげたい。
価値観は人それぞれ違うけれど、それでも自分と同じようなことを口にした人がいたのなら、ふと立ち止まってその存在を確かめてみたくなるでしょう、と。
二人の運命の歯車が噛み合えば、いつか出会う日だってくるかもしれない。そう言ってレマルダは微笑んだ。
(歯車か……)
あの日のレマルダの言葉を思い出した瑠都は、果たして自分の歯車は動いているのだろうかと思った。
世界を渡った時に大きく動いたはずの歯車は、今はもう止まってしまっているのではないだろうか。
この世界にやってきてから、今まで。
突然に変わった環境に未だ戸惑いは多いが、周りの者は皆優しくて、瑠都にいつも手を差し伸べてくれる。
自分はただその優しさを受けて、リメルという平穏な枠にひっそり収まっているだけなのだと、瑠都は時々考えることがあった。
いつもいつも、待っているだけ。
誰かに背中を押されなければ、動き出すこともできず。誰かが手を引いてくれなければ、その手を握り返すことすらできない。
一人では何もできない。誰かがいてくれるから、優しくしてくれるから、こうして異なる世界でも息をしていられるのだ。
何もできない者の歯車が動くはずもない。ただ平穏な、回らない運命の歯車の上で、静かに時だけが過ぎていく。
――あなたは、なんにもできないんだから。
瑠都は母親の口癖を思い出した。母親はいつも決まって、呆れたようにそう言っていた。
(……それはきっと正しかったよ、お母さん)
落ちていく思考に目を伏せた瑠都を、自室の扉を叩く音が現実に引き戻した。
「はい」
答えれば、失礼しますと声を掛けてから執事のサフが入室してきた。瑠都も立ち上がってサフのほうへと寄っていく。
「体調が優れないと伺っていたのですが、お加減はいかがでしょう」
「もうよくなりました、ありがとうございます」
「それは、ようございました。朝お出かけになったリメルフィリゼア様たちも、大層心配されておりましたよ」
瑠都の顔色を確かめたサフは、よくなったという言葉が強がりではないと判断したようだ。安心した様子でにこやかな表情を浮かべた。
「実は城から連絡がありまして。魔法探しの旅に出掛けられていた方たちが帰路に就かれたようですよ」
「そうなんですか」
サフの情報に、瑠都は驚いて声を上げた。明るくなった顔には、どこか喜色が含まれている。
「魔法、見つかったんでしょうか」
「そこまでの情報は入ってきていないのですが、一行にはジャグマリアス様もいらっしゃいますからね。魔法探しにおかれましても必ず成果を上げてきたお方です」
「なるほど……」
瑠都に届くジャグマリアスの評判は、いつも良いものばかりだった。まさに非の打ち所のない完璧な男。よほどすごい人なのだなと感心する瑠都に、サフは一通の手紙を差し出した。
「……これは?」
「城へ届いた知らせの中に、フェアニーア様からルト様へ向けられた手紙もございました」
「フェアニーアさんから?」
もらっていいんですか、とおずおずと尋ねた瑠都にサフは、あなた宛なのですからもちろん、と答えた。
しかし、瑠都は受け取ろうと前に伸ばした手をぴたりと止めた。急に後ろを振り返った瑠都、その視線の先には窓がある。
「ルト様? いかがされましたか」
「あ、いえ……音が」
「音?」
「多分、雨音だと思います」
「ああ、随分雨が強くなってきましたね。どうやら明朝まで降り続くようです」
二人は窓から視線を外して、目を見合わせた。
「フェアニーアさんたち、大丈夫でしょうか」
「ええ、きっと。心配なさらずとも、数日後には無事に戻ってこられます。皆様雨なぞに負けるお人ではありませんから」
そう言ってからサフがもう一度差し出した手紙を受け取った。どんなことが綴られているのか、楽しみにしながら封を切る。
どんよりとした曇り空から滴る雨粒が、窓を叩く。次第に激しくなる雨音に混じって、かちりと歯車が動いた音がしたのは、気のせい、だっただろうか。
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