第21話 花贈りの夜
メイスは色とりどりの花に囲まれて、頭を抱えていた。周りには同じように花を前にして悩む男性や、あらかじめどんなものにするか決めていたのか店に入ってきてすぐに店員を呼び注文する男性もいた。
花贈りの夜の当日、メイスは花を眺めながらあれでもないこれでもないと考えを巡らせ、昼間から活気に満ちた花屋の中を歩き回る。
今日は学校が早く終わった。遊びに行こうという友人の誘いを断って目的の花屋まで走ってきたまではよかったのだが、何を買うか一向に決まらない。ここに辿り着くまではあれこれと考えていたというのに、メイスは自分の優柔不断さに深い溜め息を吐いた。
瑠都にはこの色が似合うだろうな。でもこっちの色のほうがいいかもしれない。いっそのこと組み合わせてはどうだろうか。いやでも、これとこれを合わせるのはよくないのかもしれない。あ、この花の素朴な感じがとても可愛らしい。でも待てよ、せっかくの花贈りの夜なのだから大輪の豪華なものを選ぶべきなのだろうか。
ぐるぐると巡る思考に破裂しそうになる頭を抱えたメイスの体に、どんと衝撃が走る。突然に肩を組まれことに驚いてそちらを見やれば、よく知った友人の顔が近くにあった。
「よっ、メイス」
「びっ、くりしたー。どうしたの」
にやりとした顔を向けられて、メイスはそう尋ねる。
「たまたまここの前通ったんだけど、もしかしたらいるかなと思って」
当たりだったな、と笑う友人はメイスの肩に回していた手を離して、賑やかな花屋の中を見渡した。
「それにしても人が多いな。やっぱ今日花贈りの夜だからか」
「うん……」
「で、お前はもう決めたのか」
「……まだ」
「そんなことだろうと思った」
今日一日どこかそわそわと落ち着かない様子だったメイスは、学校が終わったあと他の友人の誘いを断って急いで帰っていった。花屋など慣れない場所であろうに、リメルのために懸命に花を選ぼうとしている。
昔から仲がよく、なんでも知っていると思っていたメイスの、知らなかった一面。リメルフィリゼアという存在になって、その事実にこの前まで戸惑っていたというのに。花を選ぶその姿からは、妻であるリメルを大切に想っているということがひしひしと伝わってくる。
「店員さんにも聞いたんだけど、花束でも一輪でもなんでもいいんだって。要は気持ちが大事だって言われたんだけど……どれがいいかな」
「お前……」
「ん?」
「幸せなんだなあ」
「えっ」
しみじみと言われて、メイスは顔を赤くする。なんだよ突然、と返すが、決して否定することもない。
「ほら、俺も手伝ってやるから早く選ぼうぜ。お前一人だったら日が暮れる」
「え、あ、ありがとう」
友人は素直に礼を述べたメイスの背中を押して、花選びを再開させる。店の中は相変わらず、誰かを想う人の熱気で賑わっていた。
「今から花市場に?」
「そうだよ。花といえばやっぱり隣町の花市場が有名だからね」
自分の店の前に置いた椅子に座っている女は、馬に乗ったままで話すマーチニにちらりと視線をやって口から白い煙を吐き出した。
「仕事はいいの?」
「昼から休みをもらったんだよ。まあ少し延びちゃったんだけどね」
「へー、わざわざねえ。あんたそんなことする人だったっけ」
偶然店の前を通ったマーチニに声をかけたはいいものの、返ってきた答えが面白くなくて女はつんと顔を背ける。
「結婚して初めての花贈りの夜だからね。せっかくだから珍しい花でもあげようかと」
「花贈りの夜とか、興味あったんだ」
マーチニは優しい男だった。誰にでも等しい優しさを持った、ずるい男。女はマーチニのことを、そう思っていた。そんな男が、たった一人にだけその優しさを向けることなど、今までに一度だってなかったはずなのなのだ。
「でも花を渡すだけなんだからすぐに終わるでしょ。今夜さ、トムたちが飲みにくるんだって。あんたも来なよ」
エルスツナの上司であり、マーチニの飲み仲間でもある第一級魔法員トムの名を出して誘う女。タバコに口を付けながらマーチニの表情を窺う。マーチニは少しだけ思案するような素振りを見せたものの、とうに答えは出ているようだった。
「せっかくだけど今日はやめとくよ」
マーチニはその理由を口にはしなかったが、女にはすぐ分かった。
今日が、花贈りの夜だからだ。
満ちた月の下で男性が妻や恋人に花を渡し、口付けを交わす一年に一度の夜。わざわざ遠い隣町まで珍しい花を買いにいってやるくらいなのだから、マーチニも妻であるリメルと共にゆっくりと過ごすのつもりなのだろう。ジーベルグの人にとって大切な一夜ではあるが、マーチニにとってもそれほどの価値があるものだったのだろうか。
「もう行くよ。間に合わなくなっちゃうからさ」
マーチニは手綱を握り直して、女にそう告げた。返事をしない女は足を組み替えて、マーチニの顔をじっと眺めている。白い煙がまた赤い唇から吐き出された。
「じゃあ」
「ねえ、」
最後のつもりで発したマーチニの言葉は、女の甘ったるい声に遮られた。
「もうあたしと遊んでくれないの?」
赤い唇がゆっくりと弧を描いた。扇状的な笑みを浮かべて、熱い視線をマーチニに向ける。昼過ぎの町中、タバコの煙をくゆらせる女は確かに夜の顔をしていた。
「また今度ね」
予想通りの答えが返ってきて、女は今度こそ満足感で胸を満たした。突然に異なる世界へやってきて、この優しい男を夫にしてしまったリメル。でもやはり、リメルも町に溢れる他の女となんら変わりないのだ。マーチニにとって優しくするべき相手、ただの愚かな女の一人。
「……と言いたいところだけど、可愛い奥さんができたからね。遠慮しておくよ」
女のタバコを持った手が、口元までやってきたところでぴたりと止まった。
「本当にもう行かないと。またトムたちと飲みにくるからさ。あと……体調が悪い時くらいタバコやめときな」
ひらひらと手を振ったマーチニは手綱を引いて、今度こそ隣町にある花市場に向かって馬を走らせていった。
その後ろ姿を、女は呆然と見送った。
確かに女の体調は万全ではない。定休日だった昨日熱が出て寝込んでいたのだ。まだ気だるさが残る体を外の空気に晒していたところに、マーチニが通りかかった。
そんな素振りを見せた覚えもないというのに、どうして気付いたのだろう。
「……ほんと、いい男」
小さく呟いて、女はタバコの火を消した。
その夜、魔法探しの旅に行っていない三人のリメルフィリゼアの内、瑠都と夕食を共にしたのはメイスただ一人だった。ゆったりと穏やかに過ぎていく時間。時折何か言いたげにそわそわとするメイスに首を傾げたりもしたが、何事もなく夕食を終えた。
瑠都は今、リメルの館にあるバルコニーの柵に手を掛けて、煌めく空と遠くで色めく町の景色を眺めていた。満ちた月が地上に淡い光をもたらしている。その優美な白い光を受けて、今宵は花たちがより一層輝きを増すのだろう。
その花で誰かが笑顔になり、そして涙したりするのだろうか。一つ一つの花に、瑠都はそっと想いを馳せた。
「やっぱりここにいた」
ぼんやりと景色を眺めていた瑠都は、聞き慣れたその声に静かに振り返った。バルコニーの入り口辺りに立っているマーチニは、笑顔でその視線に応えた。
「おかえりなさい、マーチニさん」
「ただいま」
柔らかに言葉を交わした二人は暫しそのままで見つめ合っていたが、やがてマーチニが柵に触れたままの瑠都に近付いていく。そして、すぐ側までやってきたマーチニは大事そうに抱えていたものを瑠都に差し出した。
反射的に受け取った瑠都の眼前が、青く染まった。
「これ……」
マーチニが瑠都に差し出したもの、それは青い花の花束だった。
百合によく似た形の花は淡い青色をしていた。絢爛でありながら気品さすら携えたその青は月光を浴びて、より鮮やかに瑠都の視界を染めていく。
驚きに満ちた顔で見上げてくる瑠都に、マーチニは笑みをこぼした。
「どうしてそんなに驚くの。今日は花贈りの夜でしょ」
おかしそうに笑うマーチニに対して、瑠都は躊躇いを隠せないでいた。喉元までせり上がってきた言葉を飲み込むために口を噤んだ。腕の中にある花束からはほのかに甘い匂いがする。
一年に一度男性が妻や恋人に花を渡し、年々絆を深めていくという、花贈りの夜。確かに瑠都はマーチニの妻で、マーチニは瑠都の夫である。けれど決して想い合って結婚したわけではない。だから瑠都は花をもらえるなんて思ってもいなかったし、実際に花を抱いた今も、本当にもらってしまっていいのか迷ってしまう。
「……もらっていいんですか、私」
「もちろん。ルトちゃんのために選んだ花だからね。それとも、気に入らなかった?」
覗き込むように瑠都の反応を窺ったマーチニに、瑠都は何度も首を横に振ってみせた。
「そんなこと、」
言葉を切って、瑠都はもう一度マーチニを見上げた。
「……すごく綺麗です。本当に、こんな綺麗な花……嬉しい」
瑠都の黒い瞳は少しだけ潤みを帯びていて、夜空の星を反射したかのようにきらきらと輝く。嬉しい、と再び繰り返した瑠都を見つめるマーチニの瞳も、柔らかな優しさを帯びていた。
花束を抱えた瑠都の片手をさらったマーチニは、腰を屈めてその白い手の甲に口付けた。
「マ、マーチニさん」
「花を贈って、口付けをするまでが花贈りの夜だからね。今年も、来年も、永遠にこの関係が続いていきますように、ってそういう願いを込めて」
マーチニは瑠都の手を放すと、今度はそっと頬に触れた。感触を確かめるように、親指で瑠都の柔らかな唇を、ゆっくりとなぞる。
「ここはまだ許してくれないだろうから」
月の光を背負ったマーチニの深い緑の目が、触れたままの瑠都を見下ろす。返す言葉を探しながら、瑠都はぎこちなくその視線から逃れた。マーチニの手が、名残惜しそうに離れる。
「……その花、珍しいものなんだよ。息を吹きかけてごらん」
マーチニは近い距離のままで、瑠都に囁くようにそう教えた。瑠都は教えられた通り、青い花の一つに息を吹きかけた。しかし、これといって花に変化は見られない。
「耳を近付けて」
「耳?」
マーチニの言葉に首を傾げるも、瑠都は素直に自身が息を吹きかけた花に耳を近付けた。すると、花から音が聞こえてきた。心地よく紡がれる、美しい旋律。
「音楽が聞こえる……」
目を丸くする瑠都は、一度顔を上げてマーチニにそう伝えてから、また花に耳を傾ける。言葉の乗っていない、オルゴールのような静かな旋律。心地よさと温かな優しさが瑠都の心を満たしていった。
「すごい……これも魔法?」
「そうだよ。育てる時に色んな魔法が織り込まれてるんだ。隣町の花市場にはそういう珍しい花が他にもたくさん売られてるんだ」
瑠都の耳に届いていた音が止む。けれど息を吹きかければ花はまた歌い出した。
「花市場……いつか行ってみたいです」
こんなに綺麗で珍しい花が、他にもたくさんあるという花市場へ。どんな花があるのだろう、そう考えるだけで瑠都の胸は躍った。
隣町まではどれくらいの距離があるのか、どうやって行けばいいのかは分からないが、それでも訪れるいつかの日を楽しみに思い描いた。
そこでふと、思ったこと。
(そうか、マーチニさん、わざわざ隣町まで行ってくれたんだ)
その事実に気が付いて、瑠都はなんともいえない気持ちになった。先程まで躍っていたはずの胸が、何かに急に締め付けられたかのように小さく音を立てた。
「一緒に行こうか」
「え……」
「今度の休み、一緒に行こう」
マーチニはなんの躊躇いもなく、そう言った。その瞳にはただまっすぐな光しか宿っていなくて、瑠都はまた口をつぐんだ。けれど今度はすぐに、口を開いた。
「……はい、行きたいです、一緒に」
よし決まり、と返したマーチニに、瑠都も笑んだ。
「……ルト?」
マーチニと約束を交わしたあとすぐに、瑠都は別の声に呼ばれて再びバルコニーの入り口を振り返った。
そこには、瑠都とマーチニを交互に見やるメイスがいた。
「メイス? どうしたの?」
もう寝たと思ってた、と言う瑠都に、さすがにまだ早いよと苦笑するメイス。
その視線が瑠都の持つ花束に向けられたことで、マーチニはメイスがここにやってきた目的を知った。
「なんだ、まだだったんだね」
「はい……」
驚いたように声を上げたマーチニに、メイスは肩を落とす。この若いリメルフィリゼアは何度も花を渡そうとしたがその度に思い止まったりしたのだろう、と容易に想像できて、マーチニは小さく笑みをこぼした。
メイスはぎこちなくも瑠都の前までやってくる。一度大きく深呼吸してから、後ろに隠していたそれを瑠都に差し出した。
「これ、受け取ってください!」
きゅうと目を瞑ったままメイスが差し出したものは、黄色と橙色の可愛らしい花の、小さめの花束だった。花束が一向に自分の手から離れていかないことが不安になったのか、目を開けて瑠都を見る。
「き、嫌いだったこの花? やっぱりあっちのほうがよかったかな……」
悲しそうに自問自答を始めたメイスの手から、瑠都は慌てて花束を受け取った。
「違うの、嫌いじゃないよ。ただ、びっくりしただけなの……」
瑠都は花束に顔を近付けた。太陽の光を目一杯浴びたのであろう可憐な花は明るさと力強さをその身に纏っていて、見ているだけでこちらも元気が与えられるようだった。
それは花の力。そして、メイスが瑠都のために選んでくれたのだという、その事実も、確かに瑠都の心を温かさで満たしていた。
「ありがとう、メイス」
「ううん」
照れているのを隠すかのように笑ったメイス。悩みながら選んだ花は無事に瑠都に渡すことができた。心の大半を占めていた不安や戸惑いから解放されてほっと胸を撫で下ろしたのだが、マーチニの言葉によって瞬く間に穏やかな気持ちは吹き飛ばされた。
「おや、口付けがまだじゃないか。俺はしたよ、残念ながら唇じゃないけど」
さらりと言ってのけたマーチニに、メイスが身を固くする。
「く、口付けっ? でも」
狼狽えたメイスに、瑠都も慌てて声をかける。
「いいのメイス、無理しないで」
花をもらっただけで充分に嬉しいのだ。それだけで、有り余るほどの幸せをもらった。懸命にそう伝える瑠都。
けれどメイスは意を決したように顔を上げた。
「メイス?」
名を呼んだ瑠都に近付いた。顔が近くなったことで生まれた恥ずかしさもすべて飲み込んで、瑠都の頬に口付ける。
唇を離せば驚いた顔の瑠都と視線がかち合う。花贈りの夜だから。想いを乗せる夜だから。この口付けが、永遠に続くであろう絆を守る、決して
近すぎる顔に気が付いたメイスは我に返り、慌てて距離を取った。
「ごめん」
「え、あ、ううん……」
マーチニには、互いに照れて顔を背ける若い二人の様子がなんともおかしかった。初々しいなと感じ入っているところに、もう一つの気配を感じて、そちらに目をやる。
「ルトちゃん」
「は、はい」
「残ってるリメルフィリゼアが全員揃ったみたいだよ」
マーチニに言われて顔を動かせば、視線の先にはジュカヒットがいた。その手の中にある、花束。瑠都は驚きを隠せないまま、まっすぐに瑠都に向かってくる漆黒を見つめていた。
(まさか、ジュカヒットさんまで)
ジュカヒットこそ、本当に花贈りの夜などに興味はないと思っていた。けれど実際に花束を持っているのだから、きっと瑠都のために用意してくれたのだろう。
メイスが場所を開け、マーチニが瑠都の両手を塞いでいた二つの花束をさらった。
相変わらずの気高さを纏った漆黒の美しい男が目の前までやってきて、静かに瑠都を見下ろす。マーチニやメイスを気にとめることもなく、ただ瑠都だけを黒い瞳に映している。
ジュカヒットは持っていた花束を瑠都に手渡した。真摯な眼差しに射抜かれて、瑠都は否定することも拒否することもできず、考える余裕すら与えられなかった。
自然と受け取ってしまった真っ白な花の花束。抱いた瞬間に芳醇な香りが漂ってくる。思考まで酔ってしまいそうになるほどの、蕩ける甘さ。
「遅くなってすまない」
「いえ……」
ジュカヒットは花束を持っていた瑠都の片手をマーチニと同じように、そっと持ち上げた。腰を屈めて唇を近付ける。マーチニとメイスがそうしたように、ジュカヒットからも口付けが施されようとしている。
息を飲んだ瑠都の躊躇いも、手に触れているジュカヒットはきっと気付いているはずなのだ。
ジュカヒットは瑠都の手のひらを上に向け、柔らかなそこへ口付けた。
柔らかな熱が手のひらから全身へと広がっていく。
「ジュカ、ヒットさん」
思わずこぼした名前に頭を上げたジュカヒットと視線が絡み合う。
ジュカヒットは何も言わなかった。特別なことをしたわけではない、当たり前のことをしただけだというようなその姿勢が、瑠都には少しだけ眩しく映った。
それはきっと頭上で瞬く星のせいだと自分に言い聞かせながら、瑠都は離された手に未だ残るほのかな熱を感じ取っていた。
腕の中にある花束、マーチニが持ってくれている二つの花束。色も形も匂いも違うその三つの花は、同じように優しく瑠都の心に触れていった。
「……ありがとうございます、ジュカヒットさん。マーチニさんも、メイスも、本当に……本当に、ありがとうございます」
今宵はきっと色んな所で色んな人が、花に想いを託すのだろう。どうか届いてほしい、願いを込めて、誓いの代わりに。それぞれ意味は違えども、皆等しく揺るぎない想いを。
そしてそれを受け止めた者もなんらかの想いを抱くのだ。胸を焦がした熱情と眩さの理由を、探るように。
瑠都も、確かにその中の一人だった。
「明日のルートに変更はない。タルーネの宿まで行くのが目標だ」
魔法探しの旅に出ている一団の中、ジャグマリアスとフェアニーア、エルスツナの三人で行われていた会議は、ジャグマリアスの言葉で締め括られた。
旅は順調だった。今宵泊まるはずだった宿がある町もとうに越えて、この辺りで休息を取ることが決まっていた。
花畑の側にある大きな木の下で会議していた三人以外の者は、辺りの様子を探りに出た者たち、夕食を用意する者たち、テントを張る者たちに分かれていた。テントといっても魔法が施されているので、中は充分な広さが確保されている。
話が終わったところで、フェアニーアが立ち上がった。
他の者の様子を見てくるのだろうと思ったジャグマリアスの予想に反して、フェアニーアは花畑へ向かおうとした。
「どうした」
ジャグマリアスに尋ねられて、フェアニーアは足を止めた。
「ルトさんに花を贈れなかったので、せめて一輪だけでも月に向けて掲げようかと」
「……律儀だな」
ジャグマリアスの言葉に、フェアニーアは困ったように笑ってみせた。
「ほら、エルも一緒にルトさんに似合う花を探すぞ」
「どうして俺まで」
「世話になっているだろう」
「なってない」
「いつもレモン味の飴を貰ってるじゃないか。出発前にもたくさん」
フェアニーアに言われて、エルスツナは押し黙った。不服そうな顔ではあるが、それ以上は反論しようとしなかった。辺りを見渡し、すぐ側にあった花を摘んだ。
「これでいい」
その花は、およそ綺麗だとは言い難いものだった。子どもの落書きをそのまま実現させたかのような歪な形と奇妙な配色。近いという理由だけでその花を選んだエルスツナに、フェアニーアは溜め息を吐いた。
「……むしろよく見つけられたな、そんな妙な花」
呆れたような視線を寄越してから、フェアニーアはエルスツナを更に促した。
「ほら、せっかくあっちに花畑があるんだから、探しに行こう」
相変わらず不服そうではあるが、エルスツナは渋々といった様子でフェアニーアに連れられていった。そんな二人を、ジャグマリアスは黙って見送った。
フェアニーアはジャグマリアスを促しはしなかった。それはどんな答えが返ってくるか、簡単に予想できたからなのだろう。
ジャグマリアスは座ったままで、木の幹に背を預けた。静けさに耳を傾けていれば、ふと隣にあった花に目がいった。
桃色の小さな花。なぜかその花が、リメルに重なって見えた。徐に手を伸ばす。小さな花は摘み取ってしまえば、より頼りなく、儚いものに思えた。
ジャグマリアスは桃色の花弁に口付けると、月に掲げた。
決して、特別な想いがあるわけではない。
隣でぽつりと咲く花があった、輝く月が満ちていた、ただの戯れ、それだけのこと。
花贈りの夜、それは誰かを想う夜。
一つ一つ誇らしげに輝いた花たちを、満天の星空に浮かんだ大きな丸い月が、優しく見下ろしていた。
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