第19話 ほのかな予感

 

 

 リメルの館の居間にある大きなソファーの上で、メイスが寝息を立てている。瑠都はよく眠るその顔を、上から覗き込んだ。逆さに映る幼い顔に、小さく笑みをこぼした。


 今日は学校が休みだというメイスは、朝から瑠都と一緒にまったりと過ごしていた。日の当たるバルコニーで話をしたり、花壇に水をやったり。昼過ぎには、いつの間にかソファーで横になってしまっていた。


 あどけない寝顔のメイスを起こさないようにそっと大きめのブランケットをかけた瑠都は、その場を離れるため踵を返す。それと同時に、背後で眠るメイスの口が小さく開かれた。


「ん、……アンナ」


 聞いたことのない女性の名が、メイスから漏れた。


 瑠都の足が、ソファーから三歩離れたところでぴたりと止まる。寝返りを打ってブランケットにくるまれたメイスに、起きる気配はない。ぎこちなく振り返った瑠都は、たらりと冷や汗を流した。


 同い年で、普段から行動を共にしてくれることが多いメイス。リメルフィリゼアとして瑠都の夫になってから、戸惑いながらも歩調を合わせてくれた、優しい人。


 そんなメイスが呼んだ名前。


(アンナ……)


 心の中でその名をもう一度繰り返した瑠都は、なぜか気まずい思いでいっぱいだった。


 アンナとは、誰なのだろう。

 もしかしたら、メイスにとって大事な人なのかもしれない。


 気にならないと言ったら嘘になる。けれど、聞けるはずもなかった。


 とりあえず今は気付かれないようにここを離れよう。そう決めて、瑠都は再び足を動かした。


(私は何も聞いてない、そうだ、そうしよう……)


「……ん、あれ……ルト?」


 だが、瑠都の歩みは再び阻まれることになる。今度は自身の名を呼んだ、メイスの声によって。


「メ、メイス……」


「寝てたんだ、僕」


「ごめんね、起こしちゃった?」


「ううん」


 メイスは目を擦りながら体を起こし、大きなあくびをした。肩からブランケットがずれ落ちる。


「まだこんな時間なんだ。なんか、昼間っから寝ちゃうと損した気分になる……」


「たまにはいいと思うよ、こんな日も」


 先程聞いたことは忘れようと自分に言い聞かせながら、起きたメイスの近くに寄り、ソファーの横にしゃがんだ。未だ眠そうなメイスを見れば、自然に笑顔がこぼれた。


「子どもの頃の夢を見てた。幼なじみたちと遊ぶ夢……」


「え?」


「なんか、懐かしかったなぁ。あ、今でも仲はいいんだけど」


 寝ぼけ眼のまま、見上げてくる瑠都を見たメイスは、瑠都の表情がぴしりと固まったことに気が付いた。


「どうしたの?」


「幼なじみ……?」


「え? あ、うん、そうだけど」


 確認するように問うた瑠都に、訳が分からないまま肯定を返すメイス。瑠都はメイスの答えを聞いて、安心したように肩の力を抜いた。


 リメルとリメルフィリゼアは、天の定めによって結婚する。必ず想い合うようになるとはいえ、それが愛であるとは限らない。だからリメルフィリゼアたちに他に想う相手がいてもいいと、瑠都は思っていた。


(それなのに、なんで、こんなに安心してるんだろう)


 自分でも理解できない感情に、瑠都は戸惑う。そんな気持ちを振り払うように、メイスの茶色の瞳を見上げた。


「そうなんだ」


 どことなく嬉しそうな様子の瑠都に疑問を抱きながらも、メイスはもう一度頷いた。そして、とあることを思い出して声を上げた。


「そうだルト! 子どもたちの所に行くんじゃなかった? 一緒に行こうって行ってたのに忘れてた。まだ間に合うかな?」


 瑠都は時折、公園で出会った子どもたちの元へと遊びにいっている。そのことはミローネやフーニャ、サフも知っているが、リメルフィリゼアの中ではメイスしか知らなかった。前々から一緒に行ってみたいと言っており、今日はその約束をしていたのだ。


「そのつもりだったんだけど、今日はやめにしたの。突然だけどマリーが泊まりにくることになったから」


「マリー様が?」


 本当に突然だね、とメイスは小さく呟いた。その顔は今日の夜の騒がしさを予見してひきつっている。


「楽しみだね」


 そんなメイスとは真逆の表情でにこやかに微笑む瑠都。友人とお泊まりなど、前の世界でも経験したことがなかった。だから瑠都は城からの知らせを受け取った時、驚くと同時に嬉しかったのだ。申し訳なさそうな顔をしているマリー付きの侍女を、とびきりの笑顔で見送るくらいには。


「だからちょっと、色々準備してくるね」


 瑠都は宣言してソファーの側から立ち上がった。その格好を、昼寝から目覚めて初めて意識したメイスは、思わず声を上げた。


「な、なんでメイド服着てるのっ?」


 瑠都は、ミローネやフーニャと同じメイド服を着ていた。想像もしていなかった瑠都のメイド姿に、メイスの顔が赤くなっていく。


(あれ、まだ夢見てる? 違うよね、起きてるよね)


 混乱する頭で状況を確かめたメイスは、瑠都を直視することができなくなってぎこちなく横を向く。


「あれ、言ってなかったっけ? 時々ミローネさんたちのお手伝いしてるの」


「それは聞いてたけどっ、そうじゃなくて……服」


「ああ、これ?」


 瑠都は自分の格好を見下ろす。


「初めは抵抗あったんだけど、なんだか動きやすいし。それに、やる気が出るの」


「そっ、か」


「そうですよっ! その通りなんですよー!」


 突然割り入った大きな声に、瑠都とメイスの肩がびくりと跳ねる。声がしたほうを見れば、いつの間にかすぐ近くにフーニャが立っていた。なぜか腰に手をやって仁王立ちをしているフーニャは、誇らしげな顔をしている。


「メイド服とはそういうものなのですっ、だからルト様に薦めたのです! 決して着せてみたかったからだとか、お揃いにしてみたかったからという理由だけで薦めたわけではありません、決して!」


「フーニャさん?」


 高らかに言い切ったフーニャは、瑠都の肩に触れて大きく頷いた。


「でも似合ってますよ、ルト様。ちゃんと似合ってますよ。そしてお揃いですね、嬉しいですね」


 瑠都は一切そんな不安を口にしていないのだが、フーニャは安心させるように声をかけてくる。


「えっと」


「ね、似合ってますよね、メイス様」


「え?」


 返す言葉が見つからないまま固まった瑠都に同情していたメイスだったが、フーニャに唐突に話を振られて、同じように固まる。


 ちらりと瑠都をその瞳に映した。ミローネやフーニャと同じメイド服。見慣れているはずの服なのに、瑠都が着ているだけで何か違って見える。熱くなる顔に気が付いて、また目を逸らした。


「……うん、似合ってる」


 瑠都に向けて発せられた声は小さかった。けれどしっかり届いた言葉に、瑠都までほんのりと赤くなる。


「……ほんと? ありがとう」


 視線を合わせないまま同じように赤くなる二人を見比べて、フーニャは口元を手で覆い隠した。


「甘酸っぱいっ……これが青春ってやつ?」


 感動したように目を輝かせるフーニャ。しかしすぐに表情が曇った。


「ずっと見ていたいところなんですがルト様、そろそろ行かなければなりません……。くぅ、もったいない! ルト様を呼んでくると言ってミローネさんの元を離れてきたんです、実は。そろそろ行かないとミローネさんの雷がフーニャに落ちてしまいます、それはもうピカっと」


 だから行きましょうか、と悲しそうに言ったフーニャに手を握られて、瑠都もメイド服に着替えた本来の目的を思い出す。


「そうですね、そろそろ行かないと……じゃあメイス、またあとでね」


「あ、う、うん」


 フーニャに手を引かれたまま居間から出ていく瑠都と、その後ろ姿を見つめるメイス。二人はまったく同じことを考えていた。


(フーニャさん……いつからいたんだろう……)





「これがルトの部屋なのね」


 マリーは瑠都の部屋に入ってすぐ、室内全体を見渡した。それがなんだか気恥ずかしくて、瑠都はマリーの背中を押して歩を進めさせると、扉を閉じた。


 マリーは夕刻、舘へとやってきた。突然決まった来訪であるためメイス以外のリメルフィリゼアたちは仕事から戻ってこれず、夕食を共にしたのは瑠都、メイス、マリーの三人だった。


 そのあとはカードなどで遊んだのだが、夜も更けたためお開きとなった。入浴を済ませた瑠都とマリーは、今日休むことになる瑠都の部屋へとやってきていた。


 マリーを部屋の奥へと促したものの、これからどうしようかと迷った瑠都は、マリーの背中から手を離す。部屋の中を見渡し終えたマリーも、瑠都のほうを振り返って大きな目でゆっくりと瞬きする。


 友人が泊まりにくるということは瑠都にとって初の経験だったが、マリーにとってもそれは同じだった。


「あら、あれは?」


 マリーは大きなベッドの上に寝そべる物を見つけて、興味津々といった足取りで近付いていく。ベッドの上ではルビーがお行儀よく、瑠都の帰りを待っていた。


「うさぎのぬいぐるみ? 買ったの?」


 手を伸ばして、ルビーのふわふわの耳に触れる。瑠都もベッドに近付きながら、ルビーのことを紹介した。


「ううん、マーチニさんにもらったの」


「そうなの。可愛いじゃない。名前は?」


 マリーにぬいぐるみの名前を聞かれて、瑠都は目を丸くした。名付けているなど言わないほうがいいだろうか、と迷っていた瑠都の気持ちを、いとも簡単にマリーが吹き飛ばしたからだ。


「つけてあげていないの?」


 可哀想よ、と唇を尖らせたマリーに、瑠都は緩やかに笑んだ。


「つけてるよ。ルビーっていうの。ほら、目がきらきら赤いでしょ?」


「ルビー? 随分いい名をもらっているのね」


 マリーはルビーの両脇の下に手を差し込んで持ち上げた。体が大きい分多少の重みはあるが、すんなりと手に馴染む。


「仕方がないわね。一緒に寝てあげましょう」


「ふふ、ありがとう」


 瑠都はベッドの横に置かれた棚の上にある照明をつけ、室内全体を照らしていた明かりを消す。一気に夜の気配が色濃くなった。


 二人は枕元の淡い明かりを頼りにベッドへ入る。その間には柔らかなルビーが挟まれている。


「……なんだか不思議な気分」


「わたくしも」


 ベッドに入ると訪れるのはいつも静寂で、誰かの気配を感じることもなければこぼれた言葉を掬ってくれる人もいない。

 けれど今は違う。横を向けば、ルビー越しに見えるマリーがいる。無防備に転がった一国の姫は、シーツを口元まで引っ張り上げて子どものようにあどけなく笑った。


「メイスはもう寝たのかしら?」


「多分。さっきもすごく眠たそうだったから」


「まったく、情けないわね。他のリメルフィリゼアはまだ帰ってきてもいないのに」


 いない時にもマリーにとやかく言われるメイスを哀れみながらも、瑠都は肯定も否定も返さないでおいた。


「ねえ、ルト。リメルフィリゼアたちとはどうなの?」


「……どうって?」


 首を傾げた瑠都に呆れながら、マリーは体を横に向けて視線を合わせた。


「もう、リメルフィリゼアたちと進展はあったのかって聞いているのよ。リメルとリメルフィリゼアは必ず想い合うんでしょう?」


「うーん……」


 考える素振りを見せた瑠都だったが、手繰り寄せた答えはやはり、前となんら変わりないものだった。


「何もないよ……。みんな、特別な感情を抱いてるわけじゃないと思うし、私も……それはきっと同じだから」


 どうして、でもいつか、どんな形かは分からないけれど、必ず想いを抱くんでしょう。そう問おうとした唇を、マリーはそっと閉じた。


 淡い光の中で影を落とす瑠都が、どこか儚げに見えたからだ。


「……まぁ、そうよね。いきなり夫ができましたって言われても戸惑うわよね。見た瞬間に運命の人はこの人だって確信できるんだったらいいけれど、そうでなければ信じるきっかけなんてないのだから」


 マリーはうつ伏せになり、頭を持ち上げてベッドに肘を付くと、瑠都の顔をしっかりと見つめた。


「でもいつか、きっかけは必ず訪れるはずよ。その時抱くものが、恋だったらいいのに」


「そんなこと」


「ないなんて言い切れる?」


 片眉を上げてにんまり笑ったマリーに、瑠都は言葉を詰まらせる。


「リメルフィリゼアたちだって、もしかしたらもう何かルトに対して何か想いを抱いてるかもしれない」


「そ」


「そんなことない、なんて言い切れるの?」


 今度は先程よりも強い口調で詰め寄られて、瑠都はふいと視線を逸らした。それこそ本当に言い切れる、そう思ったからだ。けれどマリーは瑠都の弱気な態度を見透かした上で、あえて認めさせなかった。


「そうねえ、どうやって試したらいいのかしら」


 マリーは再び寝転んで天井を見つめながら、試案する。


「……例えば、キスしてみるとか」


「ん? え、」


 突然のマリーの提案に、瑠都がすっとんきょうな声を出す。この姫は一体何を言い出すのか。


「キスをして相手の気持ちを確かめるって、よくあるじゃない。ほら、物語とかで」


「物語ではうまくいっても、実際にそんなことにしたら『何するんだこいつ』で終わっちゃうよ。むしろ今より嫌われちゃうかも」


「一応は夫婦なんだから、なんの問題もないじゃない。キスするのに理由だっていらないでしょう」


 いらないでしょ、ともう一度繰り返したマリーは本当にそう思っているようだ。納得していない様子の瑠都に、溜め息を吐く。


「しょうがないわねぇ、理由が必要なら、魔力が足りないことにすれば?」


 そう言ったマリーに、瑠都は不思議そうな顔をする。


「……もしかして、知らないの?」


「何を?」


「……まぁそうよね。必要ないんだったら知るはずないものね」


 自分だけで納得するように大きく頷いて、マリーは一つ咳払いをした。


「ルトには魔力がないのよね。だから足りない魔力をリメルフィリゼアから受け取って、代わりにリメルテーゼを渡している」


「うん」


「その交換の方法は手を繋ぐこと」


「そうだよ?」


 魔力の受け取り方を確かめるマリーに、瑠都も丁寧に返していく。


「けれど時々、その方法だけでは充分に魔力を受け取れないリメルがいるの。それは、強いリメルテーゼを持ったリメルよ」


 マリーは人差し指を立てて瑠都に説明する。


「強いリメルテーゼを持つリメルには、それに釣り合うだけの魔力が必要になる。手を繋ぐだけでは少しの魔力しか得ることができない。だからそのリメルたちはもっと深い方法で、より多くの魔力をリメルフィリゼアたちから受け取る必要があった」


「もしかして、それって……」


「そう、その方法がキスよ」


 言い切ったマリー。初めてそのことを知った瑠都は表には出さずとも内心で慌てる。


 瑠都はいつもリメルフィリゼアに手を繋いでもらって魔力を受け取っている。その代わりにリメルフィリゼアにはリメルテーゼが渡っているが、なくても困るわけではない。瑠都には魔力が必要で、なくなれば生きていけないから、手を繋いでもらっているのだ。それだけでも多少の申し訳なさを感じているというのに。


 手を繋ぐだけで事足りていることに心の底から安堵した。もし魔力が足りず、口付けまでしてもらうことになっていたら。感じるのはきっと、申し訳なさだけではないだろう。


「でも私、今もらってる魔力だけで足りてるから大丈夫だよ」


「演技するのよ、足りていない振りを。そうしたらキスできるでしょう?」


「無理だよ!」


「あらどうしてなの?」


 楽しそうに口角を上げるマリーに反撃してやろうと、瑠都も切り出す。


「……じゃあマリーはどうなの?」


「わたくし?」


「トトガジスト様とキスしたの?」


「なっ」


 頬を染めたマリーの反応に、瑠都はおかしくなって笑った。


「今はわたくしの話はいいでしょう。そ、そんなこと、トトガジスト様とキスなんてそんな……」


「ほほうー」


「何よその反応っ、もうルトったら」


 ルビーの手を取って腕をつついてくる瑠都を責めるが、その顔はまだ赤いままだ。先程までは余裕たっぷりで瑠都の反応を楽しんでいたのに、許嫁であるトトガジストの名前が出された途端、慌てた様子を見せたマリー。彼女もまた、恋する少女の一人であった。


 二人はじゃれ合うかのようにベッドの上を転がった。そのあと、笑ったり驚いたりしながら色々な話をたくさんしていれば、いつの間にか二人ともすっかり眠りに落ちてしまっていた。




 翌朝、いつもよりも少し遅い時間に、瑠都とマリーはミローネによって起こされた。遅くまで話していたこともあってぼんやりとしたまま朝食の席へと向かう。そこでは、エルスツナとジュカヒット以外の四人のリメルフィリゼアが待っていた。


 朝食を終えたマリーに、今日は先生に刺繍を教えてもらうのだけれど一緒にどう、と尋ねられ、縦に頷いた瑠都。

 仕事や学校に向かう夫たちを見送る前にマリーによって舘から連れ出され、一日を城の中で過ごすこととなった。


 夕方になり、さも当たり前かのように瑠都と一緒に舘へ戻ろうとしたマリーの首根っこを、王である父のスティリオが掴んで引き留めたのは言うまでもない。

 

 

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