第18話 夜の帳が下りる頃

 

 

 燦然と輝く数多の星が、月明かりと伴って地上に淡い光をもたらしていた。


 バルコニーにあるベンチに座っている瑠都は、読み終えた本をぱたりと音を立てて閉じた。数日前にフェアニーアに選んでもらい、書庫から持ってきたその本を、瑠都は何度か読み返していた。


「悲しい物語だね……」


 偉大な魔法使いだったリメルと、選ばれたリメルフィリゼアの愛と憎しみ。そして、魔法が隠れた理由。


 なぜ天は彼らを結び付けて、そして壊していったのか。


 瑠都は空を見上げて、遠い昔に想いを馳せた。想い、想われることが約束されたリメルとリメルフィリゼア。悲しみのあまり自ら命を絶ったいにしえのリメルは、その約束にどんな感情を抱いていたのだろう。


「ね、ルビー」


 瑠都は右隣に置いていた桃色のうさぎのぬいぐるみを抱いて、そこに持っていた本を置いた。


 もふもふとした柔らかいぬいぐるみは、マーチニにもらったものだ。宝石のように煌めく赤い目からルビーと名付けたうさぎは、すっかり瑠都のお気に入りになっていた。


 大きなルビーをぎゅっと抱き締めて、頬を擦り寄せる。寝衣に薄いカーディガンという格好で外の風に当たっているからか、少しだけ肌寒い。温かいルビーに癒されながら柔らかさを堪能するため目を閉じた時、後ろから声がかかった。


「可愛がってくれてるんだね。嬉しいな」


 驚いて顔を上げた瑠都が振り向くと、ベンチに両手を置いたマーチニが、覗き込むようにして瑠都を見ていた。


「マーチニさん」


「でもそんな格好じゃ風邪引いちゃうよ?」


 突然の登場に驚く瑠都を気にもせず、マーチニは楽しそうな笑みを浮かべている。

 ほのかにアルコールの匂いがすることから、どこかで飲んできたのだろう。いつも明るい雰囲気のマーチニではあるが、今日は一段と上機嫌に見える。


「大丈夫です。ルビーがいてくれるから、温かくて」


「ルビー?」


 首を傾げたマーチニに、瑠都はしまったと内心で頭を抱えた。ぬいぐるみに名前を付けているなど、子どもじみていると思われるに違いない。


 思わず出してしまった名前をどう誤魔化そうかと考えていた瑠都の答えを待つマーチニは、すぐに答えない瑠都を不思議そうに見つめている。


 観念した瑠都が、ルビーの体をマーチニのほうへ向けた。


「この子の名前、なんです」


 一瞬だけ驚いたように目を丸くしたマーチニは、すぐにへぇと声を漏らして、面白そうに笑った。


「赤い目だから?」


「……はい」


 マーチニは向けられているルビーの頭を撫で、よかったな名前をもらえて、と笑いながら言った。そしてベンチの前へ回り込むと、置かれていた本を手に取って、代わりにそこへ腰掛けた。


 近い距離に座ったマーチニからは、やはり酒の匂いがする。いつも後ろに流されている、肩に付いてしまいそうな緑色の髪は、今は少しだけ形が崩れている。


「……酔ってますか」


「んー? 酔ってないよ」


 尋ねた瑠都に否定の言葉を返すが、その深緑の瞳はとろりと潤んでいる。


 腕の中のルビーを抱え直した瑠都の隣で、マーチニは手に取った本を開いた。さして興味もなさそうにページを捲り、すぐに閉じる。


「あの魔法使いのリメルの話?」


「はい、魔法が隠れた理由が知りたくて」


「ふぅん」


 マーチニは自身の右隣にまた本を置くと、足を組んで背もたれに身を預けた。徐に星空へ視線を向ける。


「結局、幸せになれないんだね」


「え……?」


「好きな人に好きな人を殺されて、あげく自ら死を選んだリメル。リメルテーゼを得て幸せになるはずだったリメルフィリゼアは、一人は殺され、一人は狂い、残った三人は最愛の人に置いていかれた」


 息を吐いてから続けられるマーチニの言葉に、瑠都は静かに耳を傾けた。


「天に定められた相手と想い合うことが約束されているのに、このリメルとリメルフィリゼアたちみたいに不幸になることもあるんだ。そのあとのリメルはみんなそれなりに真っ当な人生を歩んだみたいだけと、その人生に憎しみや悲しみがなかったなんて言い切れない」


 そうでしょ、と同意を求められて瑠都は小さく頷いた。マーチニと同じように空を見上げる。大きく輝く星、小さく輝く星、光さえ届かない星。数多の星には己しか知りえぬ物語がある。


「じゃあ……」


 じゃあ、私たちはどうなるのだろう。


 瑠都は思うままに吐露しそうになった言葉を途中で止めた。呟くように落とされたそれは、マーチニの元まで届くことはなかった。


「この世界の人間はみんな小さい時にこの話を知るんだけどさ。リメルとリメルフィリゼアってそんなもんかって、俺は思ったよ。天から定められた、ほら、いわゆる運命の人ってやつ? 運命の人と一緒になったって幸せになれるなんて限らないんだから。大したもんじゃない、そんなもんか、ってね」


 それならば誰に恋したところで、一緒じゃないかと、マーチニは思うのだ。


 運命の人との出会いを待ち望む人はきっとたくさんいる。分かり合える、その人となら幸せになれる。そう信じて夢を見る。けれど本当はそんな確証など、どこにもないのだ。


 ならば、夢を見る価値などありはしない。


「だからさ、周りの女の子たちはリメルの恋物語に憧れたりしてたし、男はリメルフィリゼアになったらとか色々語ったりしてたけど……俺はあんまり興味なかったんだよね」


 マーチニはやっと、瑠都へと視線を戻した。深緑に映った瑠都は、少し驚いたような、悲しそうな顔をしている。そんな瑠都とは対照的な、明るい表情のままのマーチニが笑いながら言った。


「なんでそんな顔してるの?」


「顔……?」


 自覚がなかったのか、片手をルビーから離して自身の頬に触れる瑠都。天が定めた、マーチニの運命の人。


(さて、どうなることやら)


 突如始まったこの関係に思うことは、瑠都もマーチニも同じだった。


 いずれ互いになんらかの想いを抱いて、どこまでも一緒に生きていく。


「ああでも、ルトちゃんにはちゃんと興味あるから安心して」


 マーチニは瑠都の手をそっと握って、白い頬から離してやる。握った冷たい手の甲を親指で撫でながら、顔を近付けた。


「安心した?」


 息がかかるほど近付いた距離。端正な顔立ちの夫に見つめられて、逃れるように瑠都は赤くなった顔を横に向けた。


「やっぱり、酔ってる……」


 今度こそ、マーチニは否定しなかった。名残惜しそうに離された手が、いつまでも熱を帯びている。


「でも本当、ルトちゃんのこともっと知りたいと思ってる。そうだなあ、色々あるけど例えば……元いた世界のこと、どう思ってるのか、とかね」


 顔を離しても相変わらず近いままの距離で、マーチニは囁くように瑠都に言った。


「初めて城下町へ行った日。あの日、元いた世界で自分の存在はどうなっているのかって聞いたよね。フェアくんが元々いなかったことになっていると答えたら、君はそうなんだとあっさり返した。だけど、本当はどう思ってるの?」


 あっさり忘れられるほど、生まれ育った世界というのは価値のないものなのか。未練など何もないと、すぐに切り捨てられるものなのか。


 そんなわけがない。

 あの時、仲のいい親子を映した瑠都の黒い瞳には、確かにためらいが滲んでいた。


「……寂しいですよ」


 だから瑠都が静かにそう切り出した時、ああやっぱりかと、マーチニは思ったのだ。


「友達もいたし……。学校の、私がいた席には誰が座ってるんだろうとか、その人は私の代わりに笑ってるのかな、とか」


 言いながら、瑠都は腕の中のルビーを更に強く抱き締める。


「でも、忘れてくれているから心配かけずに済んでるんですよね。もし覚えているままで突然姿を消してたら、迷惑かけちゃうし、悲しませてしまうから」


「……そうだね。親なんて、可愛い娘がいなくなるんだからさぞかし心配だろうし、忘れているほうがいいのかもしれないね。どっちにしろ、悲しいけどさ」


「親……」


 マーチニにそう言われて、瑠都は父と母の顔を思い出した。


「……忘れてるなら、父も母も、私がいた時とは違う、もっと別の道を歩いていってくれてるかもしれないですね」


 煩わしさもない、自由な道。瑠都がいたら選べなかっただろうその道に、もしかしたら二人は進んでいるのかもしれない。そのほうが幸せだと、そう言ってくれるなら。嬉しいはずなのに、なぜだろう。


 奥底に生まれる深い軋みが、痛いくらいに心を締め付ける。この感情を、人はなんと呼んだのだろう。


「ルトちゃん?」


 マーチニは、黙ってしまった瑠都の名を呼んだ。優しい声色に、秘めた感情を守っていたはずの砦がゆっくり壊されていく。


 夜はいけない。隠していたはずの願いも、懇願も、すべてをさらけ出してしまいたくなる。


「……覚えてくれていたら、どうなってたんだろうって、時々考えるんです。心配、してくれたかな。もっと家族みんなで一緒に過ごせばよかったって、少しは思ってくれたのかな。もし、もしそう思ってくれるなら……覚えていてほしかった」


 自分勝手な考えだと、瑠都だって分かっている。


 忘れていたほうが、きっと幸せなのだ。そう理解しているのに、どうしても未練が絡み付く。後悔していないのだろうか。父や母は少しだって、あの冷たい家に温もりを求めたことはなかったのだろうか。


「父は優しかったけど、本当は無関心だったこと、知ってたんです。母は、家の中では笑ってくれなかったから……。嫌ってたんです、家も父も……私の、ことも」


 だから瑠都は、夢を見た。


「私、本当はずっと、愛されてみたかったんです」


 震えた声を誤魔化すように、抱き締めたままのルビーの頭に顔を埋めた。鼻の奥がつんとする。せり上がる衝動が抑えられなくなる気がした。


 瑠都を見つめるマーチニを、見返すことができない。顔を見てしまえば、今度こそ耐えきれなくなってしまう。


(何を、言ってるんだろう、私)


 夜は、いけない。


 闇に紛れて、すべてをさらけ出してしまいたくなる。そうすることが許されると、浅ましくも思ってしまう。


(耐えて……お願い)


 泣いてしまえば、マーチニを困らせてしまう。深く息を吐けば落ち着くだろうと思ったのに、あろうことか視界が滲んでいく。


 表情を見せないようにと隠れた瑠都の頭の上に、マーチニの手がそっと置かれた。

 あやすように撫でる手付きが、ひどく優しかった。


「……どうしたんですか」


 なんともないふうを装って小さく声を漏らした瑠都の心を、マーチニは無理に暴こうとはしなかった。


「……どうしたんだろうね」


 耐えるように震えた声に気が付かない振りをして、ただ寂しそうな体に寄り添っていた。




 音を立てないようにそっと、バルコニーに続く扉の影から、金色を携えた男が立ち去った。

 留まるつもりなどなかったのに、通りかかった時に偶然聞こえてきた声に思わず足が止まっていた。


 しばらく佇んでいた場所から自室へと向かう足取りに、後ろ髪を引かれるような様子はない。


 それでも、満天の星空の下で静かに照らされたリメルは、もう泣き止んだだろうかと、ほんの一瞬だけ、そう思った。

 

 

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