第16話 萌ゆるものよ

 

 

 少しの肌寒さを感じて、瑠都は暖めるように自身の腕を擦った。どんよりとした雲が館に影を差している。夕刻には雨が降るかもしれないとミローネから聞いたことを思い出した。


 昼と言うにはまだ早く、朝と言うには遅い時間。三階の自室から一階にある書庫に行くため階段を降りていた瑠都は、玄関から外へ出ようとする黒い背中を見付けて立ち止まった。


 僅かな足音に人の気配を感じたのか、漆黒のその男はふいに振り返って、階段の途中で立ち止まる瑠都の姿を認めた。


 今から仕事に向かうのだろう。王国軍特殊部隊の正装であるという、軍服とマント、携えた剣の鞘さえ黒いジュカヒットは、固まる瑠都を無視することなく、かといって声をかけることもない。瑠都が見つめてくるものだから、ただ静かに見つめ返す。


「おはようございます……」


 遅い挨拶をして、瑠都は階段を下りきった。



 瑠都が近付いていくと、ドアノブを握っていたジュカヒットの手が離れた。向き直された体を近くで見上げれば、その存在感に圧倒される。


 きめ細やかな肌は白く、唇はほんのりと色付いている。整った顔立ちは女性と見間違えてしまいそうなほどなのに、六人のリメルフィリゼアの中で一番背が高い。


「お仕事ですか」


「ああ」


 予想通り静かに落とされたジュカヒットの低い声が、心地よく瑠都の耳に入ってきた。


 昨日の夕食や今日の朝食の席でも、ジュカヒットの姿は見かけなかった。いつの間にか帰ってきていて、いつの間にかまた出ていっている。そんなジュカヒットを見送る使用人は今は一人もいない。


 瑠都はジュカヒットのことを、よく知らない。


 ジュカヒットは多くを語らない性格であるし、一緒に過ごす時間も少ないからだ。


 それでも、優しい人だと、瑠都は思っていた。


 いつも躊躇う瑠都の言葉を、急かすでもなく苛立つでもなくじっと待ってくれる。そっと手を差し伸ばされたことだって幾度となくある。


 そして何より、瑠都と同じ黒い目。感情を読み取ることのできない濡れたその瞳は、いつも僅かな優しさを孕んで瑠都を映しているから。


「出掛けるのか」


 ジュカヒットは瑠都の肩から斜めに掛けられた鞄を見付けてそう尋ねた。


「いえ……今からフェアニーアさんにこの世界のこととか、魔法のこととか教えてもらうんです。それで、メモすることもあるかと紙とペンを」


 部屋から書庫へ、家の中での移動なのだから本来なら鞄を持つ必要はない。だが最近あまり使っていなかったなと思い立って、なんとなしに手に取ってみたのだ。


「……そうか」


「ルトさん?」


 ジュカヒットが発するのと同時に、瑠都の名を呼ぶ者がいた。二人でそちらを見れば、そこにはフェアニーアが立っていた。結婚式を終えてから、フェアニーアはマーチニの提案通り、敬称を取ってくれている。


「フェアニーアさん」


「お迎えに行こうかと思っていたところなんですが」


 遅かったようですね、とすでに一階まで降りてきていた瑠都に申し訳なさそうな顔を見せた。

 そして二人の所へ近付きながら、ジュカヒットに声を掛けた。


「ジュカヒット殿、今から仕事ですか」


「ああ」


 瑠都と同じ質問をしたフェアニーアに、ジュカヒットは同じように短く返す。徐にまたドアノブに触れた。


「……今日は、夕食までには帰ってくる」


 瑠都のほうを振り返らないまま扉を開いたジュカヒットの声に、瑠都は一度目を丸くしたあと微かに笑む。


「はい」


 柔らかく答えた瑠都の声を聞き届けてから、向けられた黒い瞳。


「行ってくる」


 交わった視線をすぐに逸らして、ジュカヒットは扉の向こうへ消えていった。


 音を立てて閉じた重い扉を、瑠都とフェアニーアはしばらくの間無言で眺める。


「……いってらっしゃいって、言う暇もなかったですね」


 扉を見つめたままぽつりと呟いた瑠都に、フェアニーアが苦笑する。


「ジュカヒットさんって……どんな人なんですか?」


「ジュカヒット殿ですか」


 考える仕草を見せたフェアニーアに、瑠都は向き合う。


「会えば口を利きますが、それほど親しいわけではなかったので……実を言うとあまり詳しく知らないのです」


 思っていた通りの答えが返ってくる。


「けれどジュカヒット殿は忠誠心も厚く、剣術や武道にも長けた優れた方ですよ。それにあの見た目ですから……ジャグマリアス様と同様、他国にも名が知れています」


「なるほど……」


「あとは……特殊部隊はジュカヒット殿の様に寡黙な方が多いかもしれないですね」


 返事をしながら瑠都がフェアニーアの隣に並べば、二人の足は自然に書庫へと向かっていく。

 フェアニーアはよく知らないと言いながらも、一つでも多く伝えようと記憶を探ってくれていた。





「じゃあ、私も魔法使えるかもしれないんですね」


「はい。リメルテーゼも魔力の一つですからね」


 隣に座るフェアニーアの言葉に、瑠都の気持ちは高まった。魔法とは、物語の中だけに存在するものだと思っていた。もしこの世界に訪れることがなかったら、おそらく一生そう思い続けていたことだろう。


 瑠都の瞳が爛々と光を宿したことに気が付いて、フェアニーアはあの公園で遊ぶ子どもたちを思い出した。魔法という存在に憧れ、夢を見る子どもたち。


「練習しようかな……」


 爛々とした気持ちに気付かれないようにと小さく呟いた瑠都に、思わず笑みがこぼれる。


「フェアニーアさんも、魔法使えるんですよね」


「はい。おそらくリメルフィリゼアの中には使える者が多いと思いますよ」


 フェアニーアが若くして王国軍第二部隊副隊長になれたのはジャグマリアスの推薦があったからだが、それは学生の頃から関わりがあったからという理由だけではない。他の者より勝る才覚と魔力、そして覚悟を見込まれたからだ。


「あの……リメルテーゼを受け取って、何か変わりましたか」


 ふいに尋ねた瑠都に、フェアニーアはすぐ答えた。


「もちろん。前と同じ量の魔力を使っても、魔法の威力と質が格段に上がりました」


「本当なんですね、リメルテーゼの効果って」


 瑠都は両の掌を感慨深そうに眺める。疑っていたわけではないが、自分の中から流れていったものが特別な意味を持つなど、到底すんなり納得できるはずもない。


「それに……魔法に愛されていると感じるようになりました」


「愛されている?」


「どんな時にも呼び掛けによく応えてくれるというか。今までに感じたことがないくらい、魔法に受け入れられた安心感で満たされるのです。なんとも、不思議なものですね……」


 魔法を使った時のことを思い出したのか、懐かしむように目を細めるフェアニーア。

 顔を上げて、自身の斜め前、瑠都の前に座るエルスツナにも確かめる。


「エルはどうなんだ? リメルテーゼを得て何か変わったか」


「……別に」


 不満を露にしたエルスツナが、読み終えた本をテーブルの上に置いた。


 今書庫にいるのは瑠都とフェアニーアの二人、ではない。

 この世界と魔法について瑠都がフェアニーアに教えてもらっていた最中、一度だけ席を外したフェアニーアが幼なじみでもあるエルスツナを連れてきたのだ。


 思いもよらない人物の登場に驚いた瑠都だったが、エルスツナは決して自分の意思でここに来たわけではない。


「なぜ俺までここにいる必要がある」


 ここに来たときと同じ台詞を吐いたエルスツナの冷たい態度には慣れているのか、特に気にした様子もなくフェアニーアは近くにあった本を引き寄せた。


「今日は休みなんだろ? 出掛ける用事もないみたいだし、付き合ってくれてもいいじゃないか。それに、こういうことは俺よりお前のほうが詳しいだろ。説明が間違ってたら指摘してくれ」


 フェアニーアの言葉に、エルスツナは眼鏡の奥の目を伏せたまま唇を結んだ。

 瑠都の視線はそんなエルスツナではなく、フェアニーアに向けられていた。


(今……俺って言った?)


 自分に対する時とは違うフェアニーアの口調に、瑠都は内心でこっそり驚く。


「……腹が減った」


 眉根を寄せたエルスツナが口を開く。そこからは不満が漏れるだろうと思っていた瑠都とフェアニーアだったが、実際音になったのは意外にも空腹を知らせるものだった。


「起きるのが遅くて、さっき朝食をとったばかりだろ」


 中身を確かめるように流れる仕草で本をめくりながら、呆れた様子でフェアニーアが息を吐く。


 書庫の中にあるテーブル。本棚に囲まれたそのテーブルの回りに座っている三人が、一様に口を閉ざす。一瞬の静寂が書庫に漂った。


 瑠都はそんな空気の中、何か思い立ったように側に置いていた鞄を開く。目当ての物を探り当てると、それをエルスツナに差し出した。


「エルスツナさん、これ。気休め程度ですけど……」


 おずおずと伸ばされた瑠都の手の上には、一つの飴が乗っていた。

 レスチナールの人気菓子店、タルーミミで売られているレモンの飴だ。透明な包みにくるまれた黄色い飴に、エルスツナが珍しく呆気に取られたような表情を見せた。


 しかしそれも一瞬のこと。瑠都が気付くより早くいつもの無表情に戻ったエルスツナが、黙ったままその飴を受け取った。


 黄色い粒を取り出して口に含む。椅子に背中を預けたことから察するに、もうしばらくはここにいてくれるらしい。


「すみません、ありがとうございます」


 エルスツナの代わりに、本を閉じたフェアニーアが礼を述べる。子どもと保護者のようなその関係が、瑠都には少し面白かった。




 それぞれが気を引かれた本を読む。静かに流れる時間が心地よくなってきた頃、一つの疑問が頭をよぎって、瑠都は顔を上げた。


「フェアニーアさん」


「どうしたんですか」


 すぐに応えてくれたフェアニーアに、瑠都は切り出した。


「どうして魔法は隠れてるんですか」


 この世界の魔法は魔法の宿と呼ばれる物の中に姿を隠している。機会があれば尋ねようと思っていたのに、すっかり忘れていた。


「魔法が隠れている理由……少し待ってくださいね」


 思案する素振りを見せたあと、フェアニーアは席を立って本棚の向こうに消えていった。おそらくは瑠都のために分かりやすい本を探してくれているのだろう。


 素早く消えていったフェアニーアを追う暇もなく、申し訳なさを感じながらも、瑠都は大人しく椅子に座ったまま待つことにした。


 本棚に囲まれた静かな空間にいるのは、瑠都とエルスツナの二人になった。


 エルスツナは何冊目かの本を読んでいる。先程と変わらない静寂。それなのになぜか心許なく、瑠都はフェアニーアの帰りが早くなるように祈った。


「リメル」


「は、はい!」


 唐突に呼ばれて、勢い余った瑠都は元気よく返事をしてしまう。何を言われるのかと身を固くする瑠都を、エルスツナは澄みきった空のような青い目に映した。


「飴」


「あめ? あ、飴……えーっと」


 一言で済まされた欲求に瑠都の思考が些か困惑するが、すぐに理解して動き出す。鞄の中を探る間にも感じるエルスツナの視線。焦りながらも飴を一つ掴んで差し出した。


 受け取った飴をすぐに食べて読書に戻ったエルスツナに、瑠都は胸を撫で下ろす。

 どうやらタルーミミの飴が気に入ったらしい。自分の好きな物を気に入られて、悪い気はしなかった。


 本棚の向こうから、一冊の本を手にしたフェアニーアが戻ってくる。


「ルトさん、これを。魔法が隠れた理由と、関係するリメルについて書かれています」


「ありがとうございます」


 持っていた本を瑠都に手渡してから、フェアニーアは再び隣の椅子に腰を掛けた。


 瑠都は本を持ったまま、厚い表紙をじっくりと眺める。色とりどりの花と、リメルと思われる美しい女性、銀色の大きな狼が描かれていた。


「細かい所は作者や言い伝えられている地域によって若干異なるのですが、大筋は大抵どれも一緒です」


 瑠都は古びた表紙を撫でた。この世界にやってきた、自分と同じリメルという存在。その女性がどんな想いを抱いていたか、今はもう知る術はない。


「あまり……幸せな物語ではないのですが」


 ぽつりとこぼしたフェアニーアの隣で、瑠都はそっと本を開いた。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る