第13話 在るべき場所へようこそ

 

  

「やめた」


 瑠都は読んでいた本を音を立てて閉じた。閉じた本を目の前のテーブルに置いて、椅子の背もたれに身を預けた。誰にも見られていないのをいいことに、ぐったりと身を崩す。


 その体勢のままで、静かな自室の中を見渡した。当たり前なのだが、本を読み始めた時と何も変わっていない。


 書庫から持ってきた比較的読みやすそうな童話が、五冊テーブルの上に積み上げられている。三冊目を読み始めたところで、ついに瑠都はその手を止めたのだ。


 暖かい春の陽が窓から差し込んでくる。レースのカーテンの向こうから、鳥のさえずりが聞こえてきた。

 同い年のメイスは学校へ、他のリメルフィリゼアたちは仕事へ。ミローネやフーニャ、サフもそれぞれ忙しそうに働いているため、しばらく姿を見ていない。


 そんな中瑠都といえば、起きて朝食を取り、出かける皆を見送ってから、書庫へ行き時間をかけて本を選んだ。一冊目を読み終えたところで昼食を取り、そしてまた読書を再開させた。


 本を読むことは嫌いではない、むしろ好きなほうだと言える。けれど瑠都はその本を置いて、小さく溜息を吐いたのだった。


 式を終えて二週間ほど経った。それから毎日、こんな生活が繰り返されている。


「……暇だ」


何を隠そう、瑠都は暇なのである。





 瑠都はそっと扉を開いた。塵一つ落ちていない綺麗な廊下を右、左と見渡す。誰もいない。

 リメルの館で働く者は少ない。執事のサフ、侍女のミローネやフーニャの他に数人の料理人がいるくらいだ。


 侍女の数を増やさないかという提案を断った瑠都の気持ちを汲み、出入りする人間の数を極力増やさないようにと考えた三人が、掃除などもすべてまかなってくれている。


 瑠都は自室の扉を外から閉めて、あてもなく歩き出した。


 これから毎日、こんな生活が続くのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、ゆっくりと歩く。


 リメルとはただ、そこにあればいいという。天が決めた相手と結婚をして、ただ幸せに暮らせばいい。

 しかし瑠都はまだ十七歳。元いた世界では学校や家事でそれなりに忙しく過ごしていた。それがいきなり「何もしなくていい」と言われてしまったのだから、手持ち無沙汰どころではない。


 しかも瑠都はリメルフィリゼアから魔力をもらわなければならない。何もしないどころか、助けてもらわないと生きていけないのだ。


 ある意味では悠々自適な結婚生活。けれども暇を持て余す毎日。


(どうしようかな)


 こんな生活が続けば、自分が怠惰な人間になってしまう気がする。近頃本気でそう悩んでいる瑠都は、廊下の向こうから小走りで進んでくる人物を見つけて、足を止めた。


 たくさんのシーツを抱えているせいで前が見えていない。時折よろめく足取りにはらはらとする瑠都の横を通り過ぎたところで、ようやく自分が仕える主人の存在に気付いたらしかった。


「ルト様! びっくりしましたあ! どうされたんですか、もしかしておなかが空きましたか。あ、そういえばもうすぐおやつの時間ですねー!」


「あ、いえ、おなかは……」


「あ、じゃあもしかしてお城までお散歩ですか。今日はいい天気ですからね、ほら見てください! シーツも全部乾いちゃって、ふわふわであったかいですよ。やっぱり晴れの日は仕事も捗りますね! 捗りすぎてお屋敷中をぴかぴかにしちゃって、ミローネさんに褒められちゃいそうです私。掃除はまだ始められてないんですけどね」


「散歩でもないんですけど……ほんとだふわふわ」


「そうでしょうルト様、お日様に感謝ですね! あと私の洗濯の腕もありますね、ふふん。これからもルト様とリメルフィリゼア様たちのために全力を尽くします! あれ、おやつでもなく散歩でもなかったら、どうされたんですか」


 高らかに宣言したあと、急に話を元に戻したフーニャに、瑠都は小さく笑みを浮かべる。


「ちょっと、ひ……気分転換でもと思って」


 暇だなと思って、という言葉を飲み込んで答えた。


「そうなんですね。ずっとお部屋にいると気分も曇っちゃいますもんね」


 フーニャの言葉に、瑠都は大きく何度も頷いた。


「今日はメイス様も学校ですし……私がお供したいところなんですが、掃除がまだなんです。名付けてミローネさんに褒められよう大作戦はまだ始められてもないのです」


「大丈夫です。ちょっと歩こうと思っただけで、一人でも――」


 そこまで言いかけて、瑠都ははたと思い付いたように動きを止めた。


 シーツを抱えたまま横向きに瑠都を見るフーニャも、そんな瑠都に首を傾げる。


「その、私もお手伝いしてもいいですか」


「何をですか」


「お掃除です」


「え!」


 目を見開いたフーニャの反応に、瑠都は眉を下げた。


(だめかな、やっぱり……)


「そんな、ルト様にお掃除させるなんて! 綺麗な手が荒れちゃったらどうするんですか、埃を吸って咳でもしちゃったらどうするんですか、こけて怪我でもしちゃったらどうするんですか!」


 いったいフーニャは自分の主人のことをいくつだと思っているのか。


 フーニャは今二十二歳。二十一歳で第三級学校を卒業し、素質を見込まれていきなり城仕えとなった。一年間ミローネの下で学びながら働いたあと、共にリメル付きの侍女となった。世紀の大抜擢と噂されたこの起用、進言したのはミローネだ。


 言動に多少問題があるように思えるが、仕事はできる。きっとリメル様のことをよく考え、その心を汲み、己の真の心を捧げ、誠実に仕えることができるでしょう。多少、いえ少なからず言動に問題はありますが。とは、進言した際にミローネが口にしたフーニャ評である。


 そのフーニャが五つ年下の瑠都に、まるで過保護な母親のような言葉をかける。


 思っていた通り否定されたことに内心で落ち込みながら、それでも瑠都は諦めなかった。


「でも、毎日何もしないでいるのも心苦しいんです。お世話してもらってばっかりで……私は確かにリメルかもしれないけど、特別なことなんてできないし。せめて何か、お手伝いだけでも」


「でも、ルト様」


「このまま過ごしていたら、ほんとに何もない人になっちゃいそうで。それに……」


 瑠都はそこで口を閉じた。


 それに、侍女の数を増やさないと言ったのは瑠都なのだ。身の回りのことをすべてしてもらうのは気が引ける、ミローネとフーニャ、この二人が側にいてくれれば十分だという理由だったが、それが二人の負担を増やしてしまっているのではと瑠都は常々考えていた。


 増やさないという瑠都の判断に、ミローネやフーニャは感激してくれたのだが、それでも日々の二人の動きを見ていて瑠都は本当に大丈夫だったのかと不安になる。


 もし瑠都が手伝うことが許可されれば、二人の負担も減るかもしれない。


 暇を解消し、更に二人の負担も減らすことができる。名案だと思ったのだが、やはり許可は下りないのだろうか。


 不安そうに見つめてくる瑠都に、フーニャは思案するような仕草を見せてから、今度は納得を示すように何度も大きく頷いてみせた。


「ルト様のお世話をするのはまったく苦ではありませんし、すべてお任せして頂いても構わないのですが……確かに、ルト様はあまり自由にお出掛けもできませんし、動いていたほうが気は紛れるかもしれませんね!」


「じゃあ」


「お掃除、一緒にしましょう!」


「ありがとうフーニャさん!」


「ただし、あんまり無理はしないでくださいね! こけたりしたら大変ですから」


 どうしてそんなにこけることを心配されるのか。そう思いながらも、瑠都は嬉しさのあまり顔を綻ばせた。





「やっぱり! よくお似合いですよー!」


「あの、」


「お揃いですね、どうしましょう!」


 家事を手伝えるようになった。早速掃除が始まると思っていたのに、なぜフーニャと同じ黒と白のメイド服を身に纏って鏡の前に立っているのか。瑠都は戸惑いながらフーニャに尋ねる。


「これ、着る必要は」


「えっ、まあ、ないと言えばないですね! でもドレスのままだと動きにくいですよ。動きにくいですよね、ねっ! それにほら一度着てもらいたいなーなんて思ってたんですよ、ってつい本音がっ」


 顔を赤くする瑠都の姿を横から後ろから眺めて、満面の笑みを浮かべるフーニャ。


「さ、じゃあ早速始めましょうか」


「や、やっぱりこの格好で?」


「もちろんです! 大丈夫ですよ、ミローネさんはまだしばらくはお城から帰ってきませんし、その前に着替えればバレません!」


「そういう問題じゃ」


「ささっ、行きましょう」


 有無を言わさず背中を押されて、瑠都は諦めたように鏡の前を離れた。





 水の入ったバケツを横に置き、その中に布を浸して絞る。その布を綺麗にたたみ直して、大きな窓を拭いていく。上のほうには届かないので、踏み台を少しずつ動かして使う。濡れた布で拭いたあとは、別の渇いた布で乾拭きする。


 瑠都は綺麗になった窓を満足げに見上げた。久しぶりの労働に、自らの心も洗われた気がする。


 二階にある一室。今は誰にも使われておらず、がらんとしたこの部屋は、いずれリメルフィリゼアの伴侶や子どもが住むことになるかもしれない部屋だ。


 リメルフィリゼアはリメル以外に一人だけ、別の伴侶を得ることができる。他に愛する女性がいれば、その者と結婚し、別の家庭を持つことが許されているのだ。二階ある部屋は、その女性たちや子どものためにあるのだと、瑠都は執事のサフから教えられた。


 いつか、ここに住む者が現れるのだろう。


 瑠都はサフに事実を聞いてからずっと、そう思ってきた。そしてそれは、瑠都の救いでもあった。


 瑠都のことを愛していなくても、リメルフィリゼアに選ばれたなら必ず結婚しなければならない。

 ならばリメルフィリゼアが本当に愛した人はどうなるのだろう。結ばれるべき運命が、リメルという存在によって壊される。そんなこと、あってはならない。


 リメルフィリゼアだけに許された、他の伴侶を得ることができるという特権。その特権があればリメルフィリゼアが本当の愛を失わずに済むし、瑠都も罪悪感から逃れられる。


 救いであり、同時に小さな棘でもある。そんな気持ちを押し隠すように、窓から入ってきた春の日差しに目を細めた。


「ルト様」


 開け放したままだった扉から、フーニャが顔を覗かせて瑠都の名を呼んだ。振り返った瑠都の背後に綺麗に拭かれた窓を見つけて、フーニャは高い位置で一つに結んだ髪を揺らしながら近付いてくる。


「すっごく綺麗になってますねー! ふむふむ、拭いた跡も一切残っていませんね、お見事です! さすがです!」


「い、いえそんな……」


 大袈裟に褒められて瑠都はいたたまれなくなる。フーニャは瑠都を持ち上げるために言っているのではなく、本当にそう思っているから口にしているのだ。


 窓を拭いただけで、こんなに褒められてるなんて。気恥ずかしげに押し黙った瑠都の気持ちを知ってか知らずか、フーニャは詩人にでもなったかのように窓の美しさを語っている。


「フーニャさん、次、次に行きましょう。部屋も、他にいっぱいありますし」


「え、あ、そうですね! でも疲れていませんか」


「そんな……まだ一部屋目ですし」


「そうですかー? 本当ですね、信じますからねっ! それなら次に行きましょう」


 フーニャに再度疑われない内にと、バケツを持ち上げるため腰を屈めようとしたその瞬間、急に瑠都の体勢が崩れた。


「ルト様!」


 フーニャが手を差し伸べたのと同時に、瑠都は自分の足で体を支えてなんとか持ち直す。


「あ……」


「だ、大丈夫ですかっ。ほらやっぱりお疲れなんじゃないですか! どこかお辛いですか、お痛みはっ?」


「急に、立ち眩みがして……。でも、疲れとかじゃないですよ、ほんとに」


 一瞬だけ視界がぐにゃりと歪んで、体の自由が効かなくなった。目の辺りを覆って一呼吸すれば、次第に体が元の感覚へ戻っていく。


「多分、久しぶりに動いたから、体がびっくりしただけなんです」


「本当ですかっ? もう、びっくりしましたよお。今日はもう止めますか」


「続けられます。ごめんなさい、本当に、心配させちゃって」


 頑なに大丈夫だと言い続ける瑠都に、フーニャは根負けして瑠都の主張を認めた。


「しんどかったら、ちゃんと言ってくださいね!」


「はい」


「バケツは私が持ちますから」


「あ、自分で……」


「だめです!」


「じ、じゃあ踏み台を」


「それも私が運びます! ルト様をお守りするこのフーニャ、絶対譲りません!」


 頬を膨らませたフーニャに、瑠都は返す言葉もなく、素直に従うことにする。


「じゃ、行きましょうか」

「こほん」


 フーニャの声に被せるように、二人の後ろから小さな咳払いが聞こえた。


 瑠都とフーニャの動きがぴたりと止まる。


「こほん」


 先程よりも大きな咳払いに、二人の顔色がさっと青くなっていく。

 聞き覚えのある声に嫌な予感を隠せないまま、ぎこちない機械のような動きで、首を横に向けていく。


「……何を、なさっているのですか」


 感情を抑えるかのように声色を落として、けれどしっかりと青筋を立てたミローネが、固まる二人の後ろに立っていた。





「ルト様にいったい何をさせているのです! それに、私たちと同じ服を身に付けさせるなど、もってのほかです! ルト様は高貴なお方なのですよ、一介の侍女とは違うのです」


 予想していた通り、ミローネの怒りは凄まじかった。ミローネの姿を見てすぐさま一本の棒のようにぴんと姿勢を良くしたフーニャに、その怒りの矛先が向かっている。


「ごめんなさいミローネさん! 反省してます、ほんとです!」


 ひたすらに謝るフーニャは、瑠都に頼まれたことや、自分が一度は断ったことなど、決して口にすることはなかった。


 確かにメイド服を勧めたのはフーニャであるが、掃除させてくれと頼んだのは瑠都である。だから瑠都は慌てて怒るミローネを止めに入った。


 そして自分がフーニャに頼み込んだこと、頼み込んだ理由を正直に話した。フーニャは悪くないのだと言う瑠都に、ミローネは押し黙った。


「ごめんなさい。もう、こんなこと言い出しませんから……」


 悲しそうに瞳を伏せた瑠都に、同じような悲しい眼差しを向けるフーニャ。


 ミローネは張り詰めていた空気を解いて、大きく息を吐いた。


「……ルト様、あなたはリメル様なのです」


「はい……」


「敬うべきお方、待ち望んだ奇跡とも言えるお方なのです。そして私たちの仕えるべき主であり、この館の主でもある。もっと堂々となさってよいのです」


 ミローネは言い聞かせるように、瑠都に語る。


「家の中のことなど私たちに任せてください。主にまで労働させるなど、とんでもないことなのです」


「……ごめんなさい」


「……けれど、私はルト様のことを、この世界にいらっしゃった時から知っています。それはほんの少しの期間ですが、あなたの揺れる心情や立場に対する不安も、未熟ながら一欠片ほどは理解できているつもりです」


 その言葉に顔を上げた瑠都を慈しむように見つめ、ミローネは続ける。


「この世界に繋がりを持っていなかったあなたが、手持ち無沙汰なのも納得できます。いきなり変わった世界にどうすればいいのか、何を正解とすべきなのか、戸惑う気持ちも、あることでしょう。そんな気持ちを、家の用事をすることで少しは和らげることかできるとおっしゃるなら、私に止めることなどできましょうか」


「じゃあ……」


「多くのものを失ってきたあなたから、やっとできた小さな希望を奪えるほど、私も酷ではないのです。……仕方ありませんね。ルト様が望まれるのであれば、これからも家の用事をなさることを認めましょう」


「ありがとう、ございます……」


「よかったですねルト様っ!」


 礼を述べた瑠都に、フーニャが駆け寄った。怒られたことはすっかり忘れている。


「けれど、くれぐれも無理はなさらないでください。望んで動かれる分には構わないのですが、ただここにあるというのが心苦しく、お世話されているのが申し訳ない、肩身が狭いから働こうと思われているのならば、やはり私は許しません」


 強い口調ではあるが、ミローネは優しい顔付きで瑠都を捉えている。


「そんなことをしなくても、あなたの居場所はここにあるのですから。何も、遠慮される必要などないのですよ」


「ミローネさん……」


 ミローネの言葉に、瑠都は鼻の奥がつんとするのを感じた。慌ててそれをやり過ごすために、強く唇を噛み締める。


「ただし、今日は早めに切り上げてくださいね」


「え?」


「今日はせっかく、久しぶりにリメルフィリゼア様も全員揃ってお食事ができるのですから。早めに切り上げて、ご支度なさってくださいね」


 城から帰ってきて初めて見せたミローネの笑顔は、いつも通り優しかった。





「やっぱり大変なんですね、魔法探しって」


「もちろん大変ですが、魔法の宿を見つけた時は苦労よりも感動や達成感が勝るので、とてもやりがいがありますよ。そうですよね、ジャグマリアス様」


「そうだな」


 食事が一段落し、ヨーグルト味のゼリーに鮮やかな果物が添えられたデザートを口にする。


 メイスにフェアニーア、そしてジャグマリアスの会話を聞きながら、瑠都は冷たいデザートの甘さを堪能していた。


 縦に伸びた大きなテーブルには、今は六人が座っている。扉の一番近くにはジュカヒットとエルスツナが向き合って座り、ジュカヒットの隣にフェアニーアとジャグマリアス、そしてエルスツナから一つ空の席を挟んだ所にメイスが腰を下ろしている。


 瑠都は扉から一番離れた席、いわゆるお誕生日席と呼ばれる上座にいた。


 本来ならエルスツナとメイスの間にはマーチニが入る予定だったのだが、どうやら仕事が長引いて、定刻に間に合わなかったらしい。

 今日だけではない。仕事などもあるため、全員が揃って夕食をとれる機会はそれほど多くない。


 食事の際、話を切り出したり、それに答える者もほとんど決まっている。

 大概はフェアニーア、マーチニ、メイスが話し始め、瑠都やジャグマリアスが時折その会話に混ざる。


 ジュカヒットやエルスツナは話を振られれば短く答えるが、無駄に口を開くことはない。


 今もジュカヒットは静かに紅茶を傾けているし、意外にも食に貪欲だというエルスツナは三回目のおかわりを給仕を行うサフに持ってきてもらっていた。特に甘い物が好きらしいが、いったい細い体のどこにそれだけの量が収まっているのか。


 ジュカヒットはリメルフィリゼアの中でも特に不規則な仕事をしていて、一緒に食事をとる機会も一番少ない。


 もうじきこのゆったりとした時間も終わる。食事が終われば、それぞれ少し居残って話したりもするが、ほとんどが自室へと帰っていく。


 そんな終わりの予感が広いダイニングルームに漂った頃、ギィという音を立てて、ゆっくり扉が開かれた。

 大きなテーブルを挟んでちょうど目の前にある扉を、反射的に見上げた瑠都の目に映ったのは、やれやれと声を漏らしながら髪をかきあげるマーチニの姿だった。なぜか、片腕に大きなぬいぐるみを抱えている。


「いやあ、仕事が長引いちゃって。もう食事も終わる頃だね」


 皆の顔を見渡しながらまっすぐに歩を進める。


「ごめんねルトちゃん。せっかく、みんなが揃うはずだったのに」


「いえ、気にしないでください。あ、おかえりなさい……」


「ただいま」


 にこやかな表情のまま瑠都の横まで辿り着くと、抱えていた大きなぬいぐるみを、いきなり瑠都の足の上に置いた。


「これ、帰ってくる途中で見つけたんだ。ルトちゃんが好きそうだと思って。急いでいたから包装してもらう時間はなかったんだけどね。もらってくれる?」


「え、でも……」


「遅れたお詫びと、あとこれからもよろしくねってことで、受け取ってよ。ね」


 太股の上に乗ったふわふわのぬいぐるみの顔と、マーチニとの顔を見比べてしばし躊躇するが、瑠都はそっとそのぬいぐるみに触れた。


「じゃあ、ありがたく、頂きます」


「あれ、やっぱり固いな」


「あ、ありがとう……」


 からかうように笑われて、ほのかに頬を染める。


 マーチニは女性の扱いに慣れている。けれど贈り物が宝石や服飾などではなく、ぬいぐるみというところが、マーチニが瑠都を大人の女性として見ていないという何よりの表れなのだが、瑠都は少しも気にしなかった。


「可愛いね、その子」


「うん」


 メイスの言葉に頷いて、今度はまじまじとぬいぐるみを見つめる。


 大きなうさぎのぬいぐるみは、立てばおそらく瑠都の太股まで届いてしまうだうし、耳も入れればもっと背が高いのだろう。淡い桃色の、ふわふわの体。赤い目は宝石のようにきらきらと輝いており、小さな鼻と無表情に見える口が相まってなんともいえない愛嬌を放っている。


「まだルト様はお食事中ですのに」


「ああごめんよミローネさん。でもお詫びだからすぐに渡したかったんだ」


 呆れたような口調のミローネと軽快なマーチニのやりとりが耳に入る。

 皆の意識がそちらに逸れると同時、瑠都は桃色のぬいぐるみの頭をそっと撫でた。


「……ここが今日から、君の家だよ。よろしくね」


 柔らかな体を抱き締めれば、なぜかお日様の香りがした。

 

 

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