第10話 芳しき邂逅
「ルト様。少し、フーニャの様子を見て参ります。どうも戻りが遅いようですので」
「え、あ、はい……」
思わずそう答えてしまってから、瑠都は後悔した。
今、ミローネに出ていかれては困る。慌てて引き留めようとしたものの、すでにミローネの姿は扉の向こうに消えてしまった。
(ミローネさん、早い……)
閉じられた扉をじっと見つめてみるものの、出ていったばかりのミローネが戻ってくるはずもない。そのまま凝視し続けることもできず、瑠都はぎこちなく、視線を目の前に座る人物たちに向けた。
ここはレスチナールにある大聖堂、その一室である。
今日はついに、リメルとリメルフィリゼアの結婚式が執り行われるのだ。そのため瑠都は朝早くからこの大聖堂に入り、控え室となっている部屋で準備を進めていた。
生まれて初めて身につけた、純白の花嫁衣装。鏡越しに自分の姿を見た時、瑠都は不思議な気分になった。
綺麗に髪を纏められ、化粧をされ、あれほど焦がれた白に身を包んでいる光景が、どうしても現実のものとは思えなかった。
何より、胸元に刻まれた、薔薇によく似た形の小さな花の印。花嫁衣装の胸元は、この桃色の花の印が見えるくらいに開いていた。控えめに、それでいて鮮やかに存在を主張する花を見て、抱く感情は決して明るいものではなかった。
瑠都はその気持ちを誤魔化すように、首元を飾る豪華な銀のネックレスに触れた。
(これ、いくらするんだろう)
頭上のティアラと、白いグローブの手で触れているネックレスは、とても安物とは思えない高級感を放っている。壊さないようにしよう、と小さくこぼしてから、そっと手を離した。
「しかし本当にお美しい、よく似合っていますよ」
テーブルを挟んで目の前に座る、これもまた白い二人組。綺麗に微笑んだままそう言ったジャグマリアスに曖昧に微笑んで返してから、瑠都は助けを求めるように、ジャグマリアスの横に座るフェアニーアを見た。
瑠都の控え室には、リメルフィリゼアたちが挨拶に訪れていた。
先程まではマーチニと、おそらくはマーチニに無理に連れてこられたであろうエルスツナがいたのだが、白い軍服の男たちに遠慮したのか、入れ替わりに去ってしまった。
メイスは緊張のあまり、とても挨拶に来られるような状況ではないと、ミローネがこっそり教えてくれた。ジュカヒットの姿や話は、瑠都の元には一切入ってきていない。
純白の衣装を見に纏う瑠都とは違って、リメルフィリゼアたちは着飾ってはいなかった。軍人であるジャグマリアスやフェアニーア、マーチニはいつも通りの軍服で、エルスツナはこちらの礼装だという、タキシードによく似た格好をしていた。
今日は確かに結婚式であるが、あくまでも主役はリメル。リメルの歓迎の催しと、市民へのお披露目のための儀式なのだ。リメルフィリゼアがあえて着飾ることはない。
しかし唯一いつもと違うのは、彼らの胸元に、一輪の花が飾られていることだ。
瑠都の胸に咲く花によく似た形の、本物の花。鮮やかな桃色ではなく、清さを誇るようなその白い花は、遠い昔のリメルが山の中で見つけたという神聖な花らしかった。
華やかに笑むジャグマリアス。絵画から出てきたような完璧な雰囲気を纏った男に、一切崩れない笑みを向けられながら、美しい、などと言われるのだ。思わず視線を逸らしてしまった瑠都を責める者などいないだろう。
ジャグマリアスとは違い、瑠都と幾分か交流を持っているフェアニーアも、瑠都の複雑な心境を察したようだった。苦笑してから、話題を変えるようにジャグマリアスに向き直った。
「ジャグマリアス様も、今日からこちらの屋敷にいらっしゃるのですよね」
「ああ、そうだ。色々と片付ける物もあってな、なんとか今日に間に合った」
ジャグマリアスがリメルの館と呼ばれる屋敷にやってくるとなると、リメルフィリゼア六人中、五人が揃うこととなる。
「となると、あとはマーチニ殿だけですね」
「マーチニさんも、明日か明後日には、っておっしゃってました」
先程マーチニ本人から聞いたことを瑠都が口にしてみれば、フェアニーアが何か思い出したようだった。
「そういえば、用意が進んでいないとスティリオ様に叱られていましたね」
マーチニのその姿を想像して瑠都は思わず笑ってしまう。少し和んだ空気が控え室に漂った。
マーチニの引っ越しが完了すれば、リメルと、リメルフィリゼアたちの新生活が始まる。どんな生活が待っているのか、瑠都にはまったく分からなかった。
すでに越してきているメイスやフェアニーアとはよく会話するが、エルスツナとは挨拶程度、多忙なジュカヒットに至っては、数度遠くから姿を見かけただけだ。
そこに、ジャグマリアスとマーチニが加わる。劇的な変化が訪れるのか、それともこのまま一定の線を引いたままの関係がずっと続いていくのか。
自分がどちらを望んでいるのかすら、分からないのだ。
ジャグマリアスとフェアニーアの眼前にも晒されている胸に咲く花を、隠してしまいたかった。今日初めて他人に見せた、この世にたった一つの花。
和んだはずの空気の中で再び視線を落とした瑠都の目を、花を隠すようにそっと口元まで上がった白いグローブの手を、ジャグマリアスが深い海のような瞳でなぞるように見つめていた。
「……そろそろ失礼しよう、フェア。式が始まる前に花嫁を疲れさせてしまう」
「ああ、そうですね」
ジャグマリアスの言葉をきっかけに、二人が立ち上がる。慌てて瑠都も立ち上がり、二人を見送るため扉の近くまで足を進める。
「ルト様、後ほどまたお会いしましょう。今は暫し体を休めてくさださい」
「ありがとうございます……」
瑠都の言葉を受けて、ジャグマリアスが一礼してから扉を開けて去っていく。そのあとに続くようにフェアニーアも一礼する。
「ルト様、あまり緊張なさらないように。私も、他のリメルフィリゼアも付いていますから、大丈夫ですよ」
フェアニーアは顔を上げてから、安心させるように微笑んでみせる。
「……はい、フェアニーアさん、ありがとうございます」
余韻を残したまま、白い二人の男は去っていった。
瑠都は一つ大きく息を吐いてから、控え室となっている誰もいない部屋の中をぐるりと見渡した。広さのある部屋に一人きり。静まりかえった部屋の空気がひんやりと身に触れる。充分に暖かさの保たれた部屋だというのに、おかしなことだと瑠都は思った。
座っていた椅子まで戻って再び腰掛ける。背もたれに身を預ければ、着飾った身が少し軽くなるのを感じた。
どれくらい時間が経っただろうか。実際にはあまり時計の針は進んでいないのだが、考えることを放棄してぼうと脱力していた瑠都の耳に、扉を叩く音が届いた。ミローネが戻ってきたのだろうか。
「はい」
姿勢を正して返事をする。そうすればゆっくりと開かれる扉。その先には、漆黒が立っていた。
「……失礼する」
断ってから入室する漆黒。開けた時と同じようにゆっくりと閉じられた扉。腰まである艶やかな髪がさらりと揺れて、瑠都に体を向けるようにして立つ。
「ジュカ、ヒットさん……」
思わずその名を口にしてから、自分が座ったままだったことに気が付いて、瑠都は慌てて立ち上がる。立ち上がろうと、したのだが。何かに引っ張られて、すぐに椅子に引き戻された。どうやら、ベールが椅子の装飾に引っかかってしまっているようだ。
引っかかっていることに気が付いて、瑠都はどうにか外そうとする。しかし引っかかっているところが斜め後ろのため、無理に体勢を崩してその場所を見ると、せっかく綺麗に纏められた髪がベールに引っ張られて崩れてしまう。
上半身だけ横に向けた体勢で固まった瑠都。たらりと冷や汗が流れ、沈黙が漂う。
(し、仕方ない……諦めよう)
ジュカヒットには申し訳ないが、このまま最初から最後まで、座ったままでいる他ない。ミローネかフーニャが戻ってきたら手伝ってもらおう。瑠都がそう決心してジュカヒットを見れば、ジュカヒットは椅子に座ることなく、瑠都のすぐ側までやってきた。
「え、あの」
慌てる瑠都が制止する間もなく、ジュカヒットは薄いベールに手を伸ばした。引っかかっているベールを椅子から離そうとしているのだ。
「……すみません」
「いや……」
短く答えたジュカヒットは、黙々と手を動かす。無理に引っ張ってベールを破いてしまわないように、慎重に。上半身を軽くジュカヒットのほうへ向ける瑠都も、静かに待つ。手元が見えないため、目線を落とすジュカヒットの端正な顔を眺めていた。
(まつげ、長いんだな)
女性と見間違えてしまいそうな美しい顔。白い肌にほんのりと色づいた唇。ジャグマリアスとはまた違った美しさを持つこの男も、同じくこの大国の軍人であるのだ。
半ば見とれるように眺めていれば、ふとジュカヒットが顔を上げた。思わず漆黒に射抜かれて、瑠都はびくりと反応してしまう。
「取れました」
「あ、ありがとうございます。すみません、こんなこと」
「問題ありません」
近い距離で見つめ合ったまま、言葉を交わす。
「……本当に、咲いているのですね」
一拍を置いたあと、視線を外さずにそう言われる。一瞬なんのことを言われているのか分からなかったが、すぐに胸に咲いているリメルの証である花のことだと気が付いて、瑠都は何度か小さく頷いた。
「そう、なんです。あの、ジュカヒットさんたちにも、咲いてるんですよね」
リメルフィリゼアにも、瑠都に咲いている花の一片が刻まれている。そう聞いていた瑠都がジュカヒットに尋ねる。
「咲いていますが、とても……あなたの花ほど鮮やかではない」
初めて会った時、自らを言葉足らずだと称したジュカヒットが、まさかそんなことを言うとは思わず、瑠都は狼狽えるように視線を泳がせた。しかし相も変わらず漆黒が射抜いてくるものだから、それに吸い込まれるようにまた視線を合わせてしまう。
リメルに咲く花。その一片を受け取ったリメルフィリゼア。瑠都のすぐ側で跪くジュカヒットの右手が、おもむろに瑠都に伸ばされた。冷たい手が、瑠都の白い頬にそっと触れる。
「あ……」
小さな吐息が、瑠都の口からこぼれた。思わず薄く開いた唇は、言葉を紡ぐことを忘れてしまったかのようにそれ以上動かない。
普段剣を握っているとは思えないしなやかな手が、壊れ物を扱うかのような手付きで、瑠都の頬から顎を撫でていく。思いがけずに触れた熱が、じんわりと伝わる。
視線は、瑠都と同じように黒い、ジュカヒットの瞳に捕らわれたまま。二人だけが別世界に隔離されたかのように、音も、存在も、他には何も感じられない。
ただ一つ、そんな二人の間に割り入るもの。
(甘い、匂い――)
近い距離のジュカヒットからほのかに香る、甘い匂い。鼻腔からすっと入ってくるその匂いは、とろりとした甘さがあるのに関わらず、爽やかな余韻を残して胸に広がっていく。
その出所を探れば、答えはすぐに分かった。式のためにリメルフィリゼアが胸に差している白い花だ。いつも通り黒い軍服を纏ったジュカヒットの、唯一異質な白。
その甘い匂いが、徐々に瑠都の思考を奪っていく。そんな瑠都をまっすぐに捉えたまま、ジュカヒットもまた見つからない言葉を探るように、つと指を動かす。
触れている部分が更にそっと、熱を、帯びた。
ああ、なんて、甘い――
「ルト様っ、連れてきましたよー! あ、ノック忘れましたごめんなさい! ってあれ……」
「ひあっ」
瑠都の思考が深く沈みかけた時、それを一気に引き戻すような音が響いた。ノックもなしに勢いよく扉を開け放ったフーニャの大きな声だった。
いきなり現実に引き戻された瑠都がその声に自分の現状を思い出して声を上げれば、ジュカヒットが触れた時と同じようにそっと手を離して立ち上がった。
「ご、ごめんなさいっ! まさかジュカヒット様がいらっしゃるとは思わずっ。お邪魔でしたか? お邪魔でしたよねっ!」
なぜか嬉しそうに言ったフーニャが、緩んだ顔を隠さないまま興奮気味に何度も頭を下げている。そんなフーニャの後ろからひょっこりと顔を出したメイスが、不思議そうに部屋の中を見渡した。
「……失礼する」
ジュカヒットは瑠都に一度視線をやってから、扉に向かう。そんなジュカヒットを一度も見ることができないまま、瑠都は頭の中でぐるぐると先程起こったことを整理する。
フーニャとメイスが端に避ける。その横を、漆黒のマントを翻したジュカヒットが颯爽と通り過ぎていった。
見送ったフーニャが中から扉を閉めたあと、早速とばかりに瑠都に駆け寄ってくる。
「ジュカヒット様と二人きりだったんですね。何があったのか教えてください、ぜひ」
瞳をきらきらと輝かせているフーニャには申し訳ないが、とても言えたものではないと瑠都は思った。
何より自分でも分からないのだ。なぜジュカヒットが自分に触れたのか、なぜ目を逸らせなかったのか。あの時間は、いったいなんだったのか。
「……あれ、そう言えば、式場の様子を見に行ったんじゃ」
「そうですよ! その帰りにメイス様を見つけたので、連れてきたんです。だいぶ緊張されてるみたいだったので、ここは逆にルト様にお会いしたほうが落ち着くんじゃないかと」
どうです、と名案を思い付いたとばかりに誇らしげに言い切ったフーニャに、瑠都が首を傾げる。
「ミローネさんがフーニャさんのこと探しにいったはずなんですけど、会わなかったですか」
「えっ! ミローネさんが?」
その名を耳にした瞬間さっと顔色を変えたフーニャが、じりじりと再び扉に近付いていく。
「よ、寄り道したからかな……いやでもちょっとだけだもん。ルト様、それはいつ頃」
「ええと、結構前だったような」
「探してきます! すぐ戻ります!」
勢いよく飛び出したフーニャに呆気に取られていたメイスが、はっと気付いたようにテーブル越しに瑠都と向き合う椅子に足を向ける。
「ごめんねルト、遅くなって。なんかこう、緊張しちゃって」
後頭部を触りながら謝るメイスに、瑠都は首を横に振る。
「ううん、大丈夫……」
答えた瑠都の様子がいつもと少し違うことに気が付いて、メイスは椅子に座ることをやめて瑠都の近くへ寄る。
「どうかしたの、ルト?」
心配して瑠都の前で身を屈めたメイスの胸元に飾られた白い花が視界に入る。その瞬間、ジュカヒットの指先の熱を思い出した瑠都の顔がぼっと赤く染まった。
「え、え、ほんとにどうしたのルトっ大丈夫?」
急に顔を赤くして、白いグローブで囲って隠してしまった瑠都の前で、おろおろとするメイス。
そんなメイスに申し訳ないと思いながらも、瑠都は顔を上げることができなかった。
もう甘い香りは漂ってこない。思考を奪うような香りも、熱もないのに、余韻がひどく瑠都を支配していた。
遠くで鐘が鳴ったのが聞こえた。式の始まりが近いことを知らせる大聖堂の鐘が、様々な想いを牽引するように、堂々と鳴り響いていたのだった。
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