第8話 咲き誇る大輪

 

 

「えっと、マリー様が……大丈夫ですかルト様」


 慌てて駆け寄ってきたはずのフーニャは、自分の一言を受けて固まったルトを見て、落ち着きを取り戻したようだった。


 マリーとはジーベルグ国の王スティリオが溺愛する一人娘。ジャグマリアスのことを好いていたという、美貌の姫。

 顔を青くする瑠都を、フェアニーアも心配そうに見やった。


「確か、マリー様はずっとルト様に会いたがっておられたはず」


「でも、だからって、突然いらっしゃるなんて! ドアを開けたらマリー様が立ってるんですもん。心臓が止まるかと思いましたよお!」


 フーニャは未だに固まるルトの手を握って胸の前まで持ち上げた。瑠都とフェアニーアの顔を交互に見比べながら、いかに自分が驚いたかを主張するフーニャに、フェアニーアが苦笑で答えた。


「マ、マリー様?」


 やっと口を開いた瑠都が、フーニャの手を握り返しながら困惑を示す。何度も頷くフーニャは、真剣な面持ちで瑠都を見返していた。

 不思議な体勢のまま動こうとしないリメルと侍女。その光景を生み出した元凶である、この国の姫マリーに対して、フェアニーアはこっそり溜息をついた。


(いつかは我慢できなくなると思ってたが、ずいぶん早かったな……)


 客間でリメル、瑠都を待っているはずのマリー。瑠都に会わせてほしいと何度も父親に詰め寄った姫には、瑠都が落ち着くまでは会うことを禁ずる、という命が下されていたはずだ。いずれは二人に仲良くなってほしいと言っているくらいだから、スティリオも、なにもマリーが瑠都に悪影響を与えると思って禁じているわけではない。

 いい意味でも悪い意味でも素直でまっすぐなマリーが、この世界に来たばかりで不安定な瑠都に、悪意はなくとも不用意な言葉をかけてしまわないかと心配しているのだ。


 例えば、前の世界を思い出したりしないの、だとか、六人と結婚するのね、大変ね、どんな気持ちなのかしら、だとか、結婚したくない人がいたらわたくしから言ってあげましょうか、だとか。


(ああ、本当に言いそうだ)


 今度はフェアニーアが顔を青くした。マリーの周りに今回の襲来を止める者はいなかったのだろうか。瑠都とマリーが顔を合わせずに済む方法を思案するが、いい案は浮かばない。結局瑠都に与えられた選択肢は客間に戻ることだけなのだ。


「マリー様って、ジャグマリアスさんのこと好き、なんですよね」


 ふいに呟いた瑠都の言葉に、フェアニーアは顔を上げて目を丸くする。


「どこでそれを……」


 驚いたように問うフェアニーアと、不安そうに眉を下げる瑠都の視線が交差した。


「どこに行ったの、扉も開け放しで」


 ふいに響いた高めの声に、三人の肩が同時に揺れた。

 声は客間から聞こえてくる。マリーが、突然に飛び出したフーニャを呼んでいるのだ。


「ル、ルト様……」


「フーニャさん」


 瑠都に助けを求めるフーニャは、ミローネに叱られている時の何倍も必死な形相をしていた。


「とにかく戻りましょうか。これ以上マリー様をお待たせすることもできません」


 フェアニーアは橙色の目を客間に向けて、瑠都とフーニャを促した。その瑠都とフーニャは、やっと手を解く。


「私も一緒に行きますから、大丈夫ですよ」


 フェアニーアのその言葉を受けて、またゆっくりと黒と橙が交差した。


 マリーのことをよく知っている古参のミローネも今日はいないというし、不安そうに固まる瑠都とフーニャだけでは心配だ。そう思ったことは本当で、共に客間に行こうと思っていたことも事実だ。

 しかし、まるで瑠都を安心させるかのような声色で言葉を紡いだことに、フェアニーアは自分自身が一番驚いた。

 黒い瞳にまっすぐ見返されることがなぜか妙に気恥ずかしく、フェアニーアはきごちなく視線を逸らした。





 豊かな赤い髪は鮮やかで、濃い茶色のぱっちりとした猫目が何かを確かめるように瑠都を凝視している。いたたまれなくなって視線を泳がす瑠都を逃がすまいと、更に眼光を強めた。


 テーブルを挟んで、客間の赤いソファに向かい合って座る瑠都と、この国の姫であるマリー。瑠都の座るソファの後ろにはフェアニーアが控え、瑠都にさっぱりとした風味の茶を出したフーニャもその隣に並んだ。

 この部屋に三人が入った時、そこにはマリーしかいなかった。フーニャは飛び出す前にもしっかりマリーに紅茶を用意したようで、未だ温かそうな紅茶は少しだけ量が減っていた。


「マリー様、侍女はどうされたのです」


「お父様にわたくしをここへやるなと言われているようだから、置いてきたの。気付かれないように出てくるのは大変だったわ」


「今頃心配していますよ」


「そうかもしれないわね。でもわたくしだって、意志のある人間なの。会いたいと思う人に会いにくるのが、どうしてだめなの? 止めるお父様がいけないのよ」


 つんと横を向いたマリーに、フェアニーアは返す言葉もなく押し黙った。フェアニーアに言い返されないと分かっているのか、マリーはすぐに瑠都に満開の笑みを向けた。強気そうな猫目が柔らかそうな印象に変わる。


「やっと会えたわね、ルト」


 華やかな空気を纏った大国の姫が、なんの敵意もなくその笑顔を向けていることに、瑠都は気が付いた。


(あ、名前……)


 マリーは躊躇いなく瑠都の名を呼んだ。スティリオに続いて敬称もなく呼んだ、二人目の人。


「お父様に止められていたから会いにこなかったけれど、本当はとても会いたかったの。この世界に、ジーベルグに来てくれてありがとう」


「……はい」


「魔法が見つかるからとか、リメルの恩恵とか、そういうことのために感謝を述べているわけじゃないわ。わたくしはわたくしのために、ありがとうと言っているの」


 どういう、ことだろう。瑠都はその理由を尋ねようかと思ったが、一度唇を閉ざした。なぜだか問うことが躊躇われたのだ。やがてゆっくり開かれた唇から、疑問がこぼれる。


「あの、マリー様はどうして、」


「マリーよ」


 しかし瑠都の疑問はそのすべてを音にする前にマリーによって遮られた。


「え?」


「マリー」


 自分の名を繰り返したマリーは、敬称を付けるなと訴えているのだ。瑠都は思わず振り返った。フーニャは心配そうに瑠都とマリーを見比べている。フェアニーアは瑠都に小さく頷いてみせた。こうなればマリーが譲らないことを知っているので、早く呼んでしまったほうがいい。

 もちろんそんなことは本人、マリーの前では口にできないので、頷くに留めたのだが。


 しかし瑠都には、華やかな姫を思い切って呼び捨てにする勇気はなかった。


「あの、マリー様」


「マリー」


 やはりマリーは、認めなかった。おそらくは瑠都がマリーと口にするまで話をさせる気はない。


「マ、マリー、さん」


「マリー」


「マリー、ちゃん……?」


「それもいいわね……いえ、やっぱりだめよ!」


 どれだけ促しても敬称なしで呼ばない瑠都に、マリーは頬を膨らませた。猫目が更にくっとつり上がって瑠都を責める。


 その時、扉を叩く音が響いた。客間の住人を訪ねてきただろうその音に、誰よりも早く反応したのは、マリーだった。

 素早く立ち上がったマリーは、テーブルに置かれているカップを手に取ると、黄色のふんわりとした絢爛なドレスを翻した。


「いいこと? わたくしはここには来なかった。分かったわね?」


 そう言うと自分が座っていたソファの背に隠れた。およそ大国の姫とは思えない振る舞いだったが、誰も咎める隙すらないほどの早技だった。


 もう一度、扉が叩かれた。フーニャが慌てて扉に駆け寄り、開け放つ。向こうには、ミローネやフーニャと同じメイド服を身に纏った、三十代くらいの女性がいた。眼鏡をかけた聡明そうなその女性は、すぐに口を開いた。


「ああ、フーニャ。突然すみませんね。マリー様はこちらにいらっしゃっていない? 突然いなくなってしまわれたの。今一番行きそうな所といえば、リメル様の所でしょう」


「い、いえ。一度もお見かけしてません。まったく、ええもう、まったく」


 あはは、と乾いた笑みをこぼしながら否定したフーニャに、眼鏡の女性は疑わしげに片眉を上げた。


「本当ですか」


「もっちろんです! 嘘なんて付いてません、本当です!」


「……そうですか」


 渋々という様子で、女性は引き返していった。フーニャの姿に隠れて、瑠都やフェアニーアのことは見えなかったようだ。

 フーニャがそっと扉を閉める。足音が遠ざかるのを待っていたかのように、ソファの後ろに隠れていたマリーが颯爽と立ち上がった。ソーサーの上にあるカップには一切の乱れもない。


「マリー様、彼女はまだ疑っているようですが」


「そうね、きっとまた来るわ」


 今日の所は帰ったほうが、とフェアニーアが口にする前に、マリーはカップをテーブルに置くと、瑠都の側に駆け寄った。日差しを纏ったような明るい空気がふんわりと漂ってきて、瑠都は美しい姫をおずおずと見上げた。


「ルト、植物園に行きましょう。ここにいたらきっとすぐ見つかってしまう」


「植物園?」


「ええ、わたくしが育てた花もあるの。行きましょう」


 マリーは白い手で、同じように白い瑠都の手を取って立ち上がらせた。早速扉のほうへ向かう。しかし唐突に振り返ると、二人を止めようとしていたフェアニーアを視線で制した。


「フェアニーア、止めたりしないでね」


「では、」


「付いてくるのもやめて。わたくしはルトと、二人で話がしたいの」


「しかし」


「ここはわたくしの家なのよ。家の中で過ごすのにどうして付き添い人がいるのよ」


 フェアニーアが言葉を紡ぐ前に、すべてマリーに遮断される。心配そうにその様子を見守る瑠都と一度顔を見合わせてから、フェアニーアは諦めたように息をついた。


「分かりました……止めません。その代わり、なるべく早く帰ってきてくださいね」


「ええ、ありがとうフェアニーア」


 マリーは満面の笑みを浮かべると、瑠都を促した。


「行きましょう、ルト!」


 扉を開けて、そっと周りを確認してから、マリーは早足で植物園へと向かった。気付かれないように慎重に進みながらもマリーが楽しそうに笑っていたものだから、瑠都も同じように笑いながら、城の中を探検しているような気持ちで後に続いたのだった。





 城のすぐ側にある植物園は、ガラスでできたドーム型の建物だった。思っていたよりも大きなその建物を瑠都は目を丸くして見上げた。鼻腔をくすぐる花の香りに、表情を緩める。


「いい香り……」


「そうでしょう。わたくしのお気に入りの場所なの」


 マリーは先導するように植物園の扉を開けた。ぎいと年期を感じさせる音が鳴った。


「リメルの館にはもう行った?」


 リメルとリメルフィリゼアたちが暮らすことになる、リメルの館。その舘は、城の後ろに存在する小さな森の中にあるらしかった。城壁内にあるので安全で、静かな場所だと瑠都は聞いていた。


「まだ話だけで、行ってないんです……あ、行ってない、よ?」


 客間から植物園に来るまでの間に、瑠都はマリーに対して敬語を使うことも禁じられた。慣れないためにまだぎこちないが、敬語が出る度にマリーの猫目がつり上がるので、瑠都はなるべく普通に話そうと必死だった。


「そう。舘にも確か花壇があったはずだから、花を植えるといいわ。華やかになるし、気持ちも安らぐもの。ああほら、こっちよ」


 マリーは慣れた様子で瑠都を案内していく。植物園の中では様々な種類の花が育てられていた。綺麗に並ぶ花たちと観賞用のオブジェ。訪れた者のため所々にベンチが備えられていた。


 辺りを見渡しながらゆっくり歩いていると、やがて少し開けた場所に辿り着いた。


「ここがわたくしの庭よ。ようこそ、ルト」


 瑠都の前を歩いていたマリーは振り返ると、美しく咲いた花たちを紹介するように両手を開いた。


「すごい……」


 瑠都は感嘆の息を漏らして、マリーの庭を見渡した。瑞々しい花たちは、まるで生きているかのようにそよそよと風に揺られている。大事に、慈しみながら、たくさんの愛を受けて育ったと一目で分かる。辺りに広がる甘い空気を胸一杯に吸い込むと、自然に笑顔になった。


「これ、全部育てたの? すごい、綺麗」


「ええそうよ。わたくし、花は愛でる主義なの。花もそれに応えて、綺麗に咲いてくれる」


 マリーは一つの花に近付くと、そっと触れた。鼻先を近付けて、香りを楽しむ。近付いてきた瑠都にもその香りを嗅がせると、顔を見合わせた。


「でも、ここまで育てるの大変そう」


「大変だけれど、それでも楽しいわ。うまく咲かせてあげられなかったから、次はこうしてみようかしらとか、色々考えていると一日なんてあっという間に過ぎてしまうの。歴史の勉強やお裁縫の練習なんかより、ずっと楽しいわ」


「そうなんだ……お裁縫とかも習うの?」


「ええ、お母様ったら、そういうことに厳しいの。苦手なんだから無理にする必要はないと思わない?」


 肩を竦めて瑠都に同意を求める。次々と展開されていく会話は途切れることがなくて、それは十数分続いた。

 マリーが端にあったベンチに瑠都を促して、二人で並んで座る。そしてまた花を観賞しながら、話を続けるのだった。




 瑠都はマリーと会話しながら、ふとした拍子にジャグマリアスのことを思い出した。それまで穏やかに話していたのに、急に体が固くなって、芯から冷えていくようだった。目の前で、本心から笑うマリーを見ていると、なんとも言えない気持ちがせり上がってくる。


 マリーは、ジャグマリアスのことが好きだった。しかし、ジャグマリアスは瑠都と結婚する。この得体の知れない気持ちは罪悪感だろうかと、瑠都は思った。

 好きな人を奪われるなんて、どれほどの苦痛なのだろう。そしてその苦痛を与えているのは、紛れもない、瑠都自身なのだ。


 このまま、瑠都に笑顔を向けるマリーの話に、同じように笑顔で付き合っていれば、ジャグマリアスのことに触れることはないのだろうか。知らないフリをしながら、なんともないような顔で笑っていれば。


(……できない、そんなこと)


 目の前の人に、嘘をつきたくなかった。マリーは明らかに好意的な姿勢で瑠都に接してくれている。そんな人に、何も知らないと嘘をついて、自分の心だけ守るようなことは、瑠都にはどうしてもできなかった。


「あの、」


 そう思えば、瑠都の口は勝手に動いていた。


「聞いたの、その……ジャグマリアスさんのこと、好きなんでしょう」


 その言葉を受けたマリーが、大きな目を見開いて、何度か瞬きした。桃色の唇が一瞬驚いたように開かれたが、すぐに閉じられた。そしてすぐに、おかしそうに弧を描いたのだ。


「ふふっ、いきなり真剣な顔をするから何事かと思ったじゃない。どこで聞いたの、その話」


「町で……」


「まったくもう……まだそんなこと言う人がいたのね。安心して。ただの噂よ」


「う、噂?」


「そう。一時レスチナールで広まった噂なの。もちろん、まったく根拠のないただの噂よ」


 おかしそうに笑うマリー。瑠都は安堵したように息を吐くと、ベンチの背もたれに身を預けた。


「なんだ、そうなんだ……」


 あれだけどうしようかと悶々と考えていたのに、それは必要のないことだったようだ。一気に体の力が抜けて、瑠都は肩を落とした。


「夢物語よ」


「夢物語?」


「一国の姫と、軍のエリート。そんな二人が恋に落ちれば、とても素敵な物語になると思わない?」


「思う……そういう話読んだことある」


「でしょう。だから、町の者たちがそうなってほしいという希望を込めて話していたことが、いつの間にか本当のことのように広まったのよ。確かにジャグマリアスはいわゆるいい男だとは思うけれど……心を奪われたことは一度だってないわ」


 口元に手を当てて笑うマリーは余程おかしかったのか、もう一方の手で瑠都の肩を数度叩いた。


「でも、聞いてよかった。この先ずっと、後ろめたさを感じながら過ごすのかと思ってた」


「そうね。いい判断だったわ。安心して、ジャグマリアスはあなただけの人よ」


 ジャグマリアスは、瑠都だけの人。直接的な言い方に瑠都は恥ずかしげに口を噤んだ。


「……それに、わたくしにはちゃんと好きな人がいるもの」


「好きな人?」


 やっとのこと笑いを収めたマリーは、咳払いを一つしてから切り出した。


「そう。南の大国ブルーナピの王弟殿下の長男で、トトガジスト様っていうの。許嫁よ」


 マリーは、ここにあるどんな花にも負けない美しさで、微笑んだ。



「お父様は若い頃、ブルーナピに留学していたの。ブルーナピ王や王弟殿下と親しくなって、いつかお互いの子どもを結婚させようと決めてしまった。二国の友好の証でもあったのよ。生まれる前から決まっていた婚約だけれど、わたくしも誇りある王家の娘。反抗する気はなかった。そして、実際に五つ年上のトトガジスト様に会ったのは、十の頃だったわ」


 マリーはそこまで言うと、ほんのりと頬を淡く染めた。初めての出会いに想いを馳せるかのように、目を伏せた。


「体に電流が走ったようだった。胸が大きく音を立てて、本当に死んでしまうかと思ったの」


「一目惚れ?」


「そう!」


 伏せた目を上げて瑠都に向ける。夜空の星を捕まえて散りばめたかのように、瞳がきらきらと輝いていた。瑠都はそんなマリーを見て、ほんの少しだけ羨ましさを感じた。


「だから、嬉しかったの。彼と結婚できるのだと思うと、本当に嬉しくて、思わずお父様に飛びついたくらいよ」


「その、トトガジスト様は、どんな人なの?」


「見た目は熊みたいな人。大柄なの」


「熊……」


「武道に長けていて、頭も切れる。ブルーナピの繁栄にはなくてはならない人。結婚するのは三年後だけど、ああ、待ち遠しいわ」


 マリーの横に、熊のような大柄な男が並んでいる姿を想像するのは簡単ではなかった。しかし当のマリーは幸せそうに笑っているので、想像できてもできなくてもどちらでもいいか、と瑠都は何も言わなかった。


「ねえ、ルトはどうなの? リメルフィリゼアと初めて会った時、感じるものがあった?」


 マリーは不意に瑠都に尋ねた。瑠都は一瞬だけ考えたあと、瞳を輝かせるマリーに申し訳なく思いながら首を横に振った。


「ううん、何も……」


 マリーはその答えに驚いたようだった。覗き込むように瑠都の顔を凝視すると、声色を高くした。


「何も? 運命の人はこの人だとか、まったく思わなかったの?」


「うん……」


「……そうなの。天が決めた相手だから、きっと会った瞬間に運命と分かるものだと思ってたけど、違うのね」


 マリーは何かを考えるように顎に手を当てた。


「じゃあ、もしかして嫌な人もいたんじゃない? ルトが結婚したくないような人が。……どうしたらいいのかしら……そうだわ、わたくしがお父様に言ってあげる! 式を延ばしてもらえるかもしれない」


「そんな、大丈夫だよ」


「でも、無理に結婚することはないわ」


 マリーは瑠都を案じるように眉根を寄せる。


「この人だって直感的に思うことはなかったけど、嫌だと思うこともなかったの。だから、大丈夫だよ」


 というよりも、リメルフィリゼアたちと初めて会った時、瑠都には相手のことを好きだとも嫌いだとも思う余裕はなかった。けれどそれを言ってしまうと更にマリーに心配されそうだったので、瑠都はただ安心させるように微笑んだ。


「本当に?」


「うん」


「……じゃあいいわ。でも、何かあったら必ずわたくしに言うのよ。なんでも協力するわ」


「……ありがとう」


 マリーは渋々ながらも納得してくれたようだった。瑠都は、マリーがこんなにも心配してくれることが嬉しかった。

 瑠都が出会った、この世界の人はみんなそうだ。世界を渡った瑠都を気遣って、案じて、優しい眼差しで見てくれる。


(みんな、優しい……)


 だから瑠都も、この状況を誰かの前で嘆いたりすることはしたくなかった。そんなことをしてしまえば、優しい人たちが皆、困ってしまうだろう。


「ねえ、ルト」


 マリーに呼ばれて、瑠都は茶色い猫目と視線を合わせた。


「わたくし、ずっと自分は一人だと思ってた」


「一人……?」


「そう、一人よ。家族はいるけれど、お父様とお母様は父親と母親である前に、王と王妃。お兄様たちも優しくしてくれるけれど、わたくしにはない責務がある。もちろん、一緒に遊ぶ人もいたし、勉学を教えてくれる人もいた。だけど、その人たちにとって、わたくしは姫でしかないの」


 マリーの両手が、黄色いドレスを握り締める。


「普通に話すことはできない、名前を呼ぶことはできない、どうか分かってほしい。たくさんの人に、何度も何度もそう言われた」


 実際に瑠都も、その人たちと同じように躊躇った。大国の姫を相手にして、その立場を考えずに接することは難しいことなのだ。


「でもね、リメルについて書かれた絵本を見た時、思ったの。ああ、リメルなら同じかもしれないって……。リメルは一人でこの世界にやって来る。誰もが待ち望む高貴な存在で、きっと誰もが大切に扱う。けれどリメルは、その時どう思うかしら。きっと、安心感や優越感でもなく、心に訪れるのは不安や、寂しさよ」


 瑠都はまるで自分の心情を言い当てられたようで、どきりとする。

 そうだ、不安と寂しさの中で、瑠都は、一人きりなのだ。マリーと同じように、優しくされることをはねのけられないのに、もっと近くで接してほしいと願う。


 一人、だったのだ。こうしてマリーと、同じように一人だった人と、出会うまでは。


「だから、わたくしが友達になってあげようと思ったのよ。そうしたら、リメルもわたくしの友達になってくれるんでしょう。ねえ、ルト」


 もう一度名前を呼ばれた。躊躇いなく、まっすぐに。


「あなたはすべてを置いてきた。そんな人に、こんなことを言うのは、間違っているのかもしれない。だけど、わたくしはずっと、ずっと、待ってたの。絵本を手にしたあの日から、あなたが、ルトが、ここに来てくれるのを、待ってた。――ルトに会えて、嬉しい」


 出会える日を、待っていた。

 そんな言葉を言われることが、はたして人生の中でそう何度もあるだろうか。存在のすべてを肯定するようなその言葉が、どれだけ瑠都の心に染みていったのか、目の前の美しい人は知っているのだろうか。


「ありがとう」


 瑠都は、そう言うのが精一杯だった。ありきたりな感謝の台詞。それでも、この温かい気持ちが伝わればいいと思いながら、もう一度紡ぐ。


「――ありがとう」


 穏やかな風が吹いている。開けた天井から日差しを浴びる花たちに囲まれて、この心地よさに、ずっと身を任せていたかった。


「マリー様? マリー様、いらっしゃいますか」


 その時、マリーの名を呼ぶ声がした。それは、客間にマリーを探しにきた、眼鏡をかけた侍女の声だった。


「いけない。見つかるわ」


 マリーは勢いよく立ち上がった。瑠都も思わずそれに続く。


「客間に戻りましょう。フェアニーアもまだかまだかとルトの帰りを待っているはずだし」


「でも、入り口が」


 植物園に入ってからここに来るまでの間に、他の出入り口は見当たらなかった。唯一の扉から侍女がこちらに向かっている今、見つからない方法はないように瑠都には思えた。


「ふふ、こっちよ」


 マリーは意気揚々と、花の間をすり抜けると、自分の庭の裏側へと瑠都を案内した。


「ここに裏口があるの。行きましょう」


 本来の出入り口より幾分か小さな裏口をマリーが開ける。一歩踏み出した姫を、意を決したように瑠都が呼び止めた。


「マリー」


 驚いたように、マリーが振り返る。


「マリー、私、リメルの舘に移っても、会いにくるから。マリーも、会いにきてくれる?」


 少し前の瑠都なら、躊躇って言葉にできなかっただろう、問い。今なら、目の前の人がそれを許してくれるという確信があった。


「……もちろんよ。言ったでしょう。わたくし、花は愛でる主義なの」


 花、それって私のこと。そう尋ねた瑠都に、マリーはまたおかしそうに笑った。


「さあ、見つかっちゃうわ。走るわよ」


「え、あ、待ってマリー!」


 植物園を出ても、まだ辺りには花の甘い香りが漂っていた。その香りを身に纏いながら、二人は駆け出した。

 

 

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