第7話 賑やかな春の波
息がつまるのは、どうしてだろう。
だからいつも、それを隠すために口を閉ざすのだ。
「瑠都、あなた、昨日帰ってくるのが遅かったんですって」
振り返っただけの瑠都に、母親は鋭い視線を投げかけた。
「聞いてるの?」
「……うん」
少しの間を置いて返ってきた小さな声に、母親は大げさに溜息をついてみせた。瑠都の昼食を取る手が止まる。テレビから流れる賑やかな音が煩わしかったのか、母親は電源を落とすと、音を立ててリモコンをテーブルの上に置いた。
「今朝、ゴミ捨てに出たらお隣の村井さんに言われたのよ。おたくの娘さん、昨日の夜いつもより遅かったみたいですねって。遊び歩いてたと思われたらどうするの。私が恥をかくじゃない」
「……ごめん。でも、遅かったっていっても、七時くらいだよ。学校終わったあと薫とごはん食べにいったら、話が盛り上がって」
「言い訳が聞きたいわけじゃないの。まさかいつもそんな時間なの?」
「違うよ。昨日は、たまたま」
右手に持ったままだった箸をゆっくりと置いた。昼食が並べられたテーブルの横に立っている母親が、また溜息をついたのが分かった。
「そんなに、責めてやるなよ」
その時、後ろからまた別の声がかかった。
オープンキッチンになっているリビングに入ってきて、冷蔵庫から水を取り出したのは、父親だった。
透明のコップにたっぷり入れた水を飲み切った父親は、瑠都と母親に向き直る。
「瑠都だってたまには友達と遅くまで遊びたいだろう。いつも家のことしてくれてるんだし。なあ、瑠都」
父親はなぜ母親が瑠都を叱咤していたのか知っていた。母親の大きな声が、二階まで聞こえていたのだろう。
「それとこれとは関係ないでしょう」
「関係あるだろ。押し付けてるのはお前じゃないか。瑠都だって高校生だ。友達との付き合いもあるだろうし、息抜きだってしたいだろ。たまにゴミ捨てした時にそんな話聞いたからって、瑠都を責めてやるな」
「押し付けてるですって? 私だって働いてるの。仕方ないじゃない」
父親は空になったコップをシンクに置くと、母親に言葉を返すことなく、リビングの出口へと歩を進めた。瑠都の後ろを通った時に、慰めるように肩に手を置いた。
瑠都は思わず立ち上がって、父親の背中を追いかけた。
父親はすでに玄関にいて、靴に足を入れているところだった。リビングに寄る前に一度玄関まで来たらしく、すぐ横の壁には鞄が立て掛けられている。
「お父さん、出かけるの?」
「ああ」
父親は微笑を携えて瑠都を見やった。
「どうせ女の所でしょ」
リビングから出てきた母親が、吐き捨てるように言った。二階へ続く階段を上がっていく。
そんな母親を見送ってから、瑠都は再び父親と視線を合わせた。
「あいつの言うことは気にするな」
瑠都の帰宅時間のことか。それとも、父親の行き先に対してか。瑠都は何も聞かずに頷いた。
「そうだ、これ」
父親は鞄を手にすると、中から財布を取り出し、数枚の紙幣を瑠都に差し出した。
「今月の小遣い、まだだったな。父さんボーナスが出たからな、ちょっと弾むよ」
「え、いいよ。こんなに」
「いいから、受け取りなさい。子どもが遠慮するもんじゃない」
優しく笑ったままの父親は瑠都の手を取り、有無を言わさず紙幣を握らせた。瑠都は躊躇いがちに、礼を述べる。そんな瑠都に満足したのか、父親は鞄を持ち直すと、玄関の鍵を開けた。
「……お父さん、何時に帰ってくるの?」
「んーそうだな。はっきりとは分からないよ」
引き止められたことになんの不平も示さずに、父親は考える素振りを見せた。しかしすぐに諦めたように肩を上げた。
「そう……」
「瑠都は今日どこか出かけるのか」
「あ、薫と買い物に。昨日、約束したの」
「そうか」
父親はノブに手をかけて、ゆっくりと扉を開く。
「おいしい物でも食べてきなさい。気を付けて帰ってくるんだぞ」
そう言って、扉の向こうへ消えていった。
お父さん、今日も、帰ってこないつもりなの?
たまにはね、晩ごはんまでには帰ってきてよ。お母さんに、一緒に作ろうって、私言ってみるから。もしかしたら、もしかしたら、そうねって、頷いてくれるかもしれない。
美味しいごはん作って待ってるから、帰ってきて。久しぶりにみんなで一緒に食べようよ。最初は気まずいかもしれないけど、大丈夫だよ。家族なんだから、大丈夫なはずでしょう。
遠慮しなくていいって、そう言ってくれたから。
私、追いかけて、引き止めてもいいんでしょう。
そう、思ってるのに。どうして言葉にならないのだろう。
そうだ、口を閉ざしているからだ。だって今開いてしまえば、隠せなくなってしまうから。胸を締め付けて、喉の奥からせり上がる、うまく呼吸にならない息が。息が漏れてしまえばきっと、一緒に色々なものが溢れてしまうのだ。嗚咽も、懇願も、すべて。
家の中は一気に静まりかえった。昼食ももう、冷めてしまっているだろう。
ここは家だ。自分が一番、自分らしくあれるはずの、家だ。もう二度と戻れない、そんな、冷たい場所だ。
「ルト様? ルト様?」
優しく呼び起こす声に、瑠都はそっと目を開いた。視界に入ったのはすっかり見慣れてしまった豪華な天井と、心配そうに眉を下げるフーニャだった。
「ルト様、お目覚めですか。もう、心配しましたよお。うなされてたんですよ、大丈夫ですか」
ベッドの上で上半身を起こす瑠都の背中を支えるフーニャが、覗き込むように顔を近付けて瑠都の顔色を伺おうとする。寝起きの顔を見られるのが恥ずかしく、瑠都はさりげなく顔を逸らした。
「大丈夫です。ごめんなさい……そんなにうなされてましたか」
「それはとっても! びっくりしちゃいましたよ。悪い夢でも見てたんですか」
背中をさするフーニャにそう言われて、瑠都は動きを止めた。
「……忘れちゃいました」
遠い存在になった家の温度を思い出すが、すぐに心の奥深くに閉じ込めた。フーニャも問いつめることはなかったので、瑠都は着替えるためにベッドから降り立った。
「今日はどのドレスにします? 初めて城下に行くんですからねえ、ここは重要な選択になりますよ」
なぜか意気揚々と言い切ったフーニャに苦笑しつつ、瑠都も一緒に洋服を選び始める。
フーニャといるのは気が楽だ。今日は非番でいないが、ミローネといる時も心は穏やかだ。
侍女の数を増やすという提案があったが、瑠都は断った。令嬢でもないのだから、元いた世界では誰かに世話を焼かれることなどなかった。
いくらリメルという存在になったとはいえ、あれやこれやと身の回りのことすべてをしてもらうのは気が引ける。ミローネとフーニャ、この二人が側にいてくれれば十分だった。
提案を断ってから、二人では大変だろうかと気が付き、慌ててミローネとフーニャに尋ねたのだが、二人とも大変ではないとすぐに答えてくれた。瑠都の答えに感激すらしてくれたのだ。
「ああ、私も一緒に行きたかったです」
「え、一緒じゃないんですか」
きょとんとした顔でゆっくり瞬きをした瑠都に、フーニャは泣き真似をしながら擦り寄る。
「知らなかったんですかっ。そうですよ、今日はフェアニーアさんと一緒でしょう? だからフーニャは付いて行かなくていいと言われたんです。楽しみにしてたのにぃ、ひどいんですよミローネさんったら!」
なんとか言ってやってください、と涙の出ていない目を拭う素振りを見せるフーニャに、瑠都も残念そうに肩を落とした。
「……そうなんですか。今度また、一緒に行きましょう」
フーニャはその言葉に顔を上げて、瑠都の手を握った。
「もっちろんですよ! 今日は、楽しんできてくださいね」
途端に笑顔を見せるフーニャに、瑠都も笑顔で返す。
それからしばらく洋服を選んでいたが、瑠都のおなかが空腹を訴えたことで、今まで悩んでいたのが嘘のように早急に取り決められた。恥ずかしげに顔を赤らめる瑠都に、フーニャは温かい眼差しを送ったのだった。
思っていたよりも広大な城下町、レスチナールの賑わいに、瑠都は感激の息を漏らした。振り返れば城壁に囲まれた、幾重にも重なる石の段の上に堂々とそびえ立つ、ジーベルグ城が瑠都を見下ろしている。
「すごい……」
「レスチナールは城下町ということもあり、栄えた町ですからね。きっとリメル様もお気に召してくださると思いますよ」
呟くような瑠都の声を拾ったのは、フェアニーアだった。襟のついたシャツに黒いズボンという私服姿だが、腰元には剣が携えられている。おそらくは瑠都というリメルと一緒に行動するからだろう。
一方の瑠都は、若草色のドレスを身に纏っていた。フーニャは鮮やかな色のドレスをしきりに進めたが、瑠都はこの落ち着いた色を選んだ。
豪華なものは、と遠慮したこともあり、瑠都に用意されたドレスはそれなりに絢爛さの押さえられたものばかりだが、そのどれもが気品を漂わせる上質な物だ。
この若草を見て、瑠都が高貴な立ち位置にいると気付く者はあまりいないだろうが、どこかの良家の令嬢だとは思うだろう。
瑠都は肩から斜めに掛けられた小さな鞄の紐を両手で握り締めた。この白い鞄は、手ぶらで出かけることにためらいがあった瑠都のために、ミローネが昨日用意してくれた物だ。さすがに瑠都の他に、ドレスに斜めがけの鞄を合わせている者は見かけないが、上品なデザインの白い鞄は、若草によく馴染んでいた。
ちなみに鞄には、フーニャにもらった小さなクマのぬいぐるみが付いている。城から出掛ける際に、それに気が付いたフーニャが喜んでくれたので、瑠都も嬉しかった。
中には、ハンカチと、赤い財布しか入っていない。渡された鞄にはすでに財布が入れられていたのだ。ミローネに問えば、それはリメルのための金銭なので、遠慮なく使うようにとのスティリオからの言葉があったと教えられた。
「行きましょうか」
くるくると辺りを見渡す瑠都に、フェアニーアが声を掛けた。フェアニーアの存在を今思い出したかのように、はっとして隣に並んだ瑠都に、笑みをこぼす。
(こうして見ると、やっぱり年相応の女の子だな)
並んで歩き始めた瑠都は、どこか浮き足立っている。初めて会った時も、リメルフィリゼアたちとの顔合わせの時も、瑠都は表情に緊張を漂わせて、心の内を見せまいと気丈を装っていた。
そんな瑠都しか知らないフェアニーアは、今日一日どう接すればよいものかとつい先程まで頭を抱えていた。しかしその心配は杞憂になりそうだ。フェアニーアは安堵で胸をなでおろした。
「ルト様と、お呼びしてもよろしいですか。誰の耳に入るか分かりませんので、リメル様とお呼びするのは……」
「あ、はい……」
(やっぱり、様、が付くんだ)
瑠都は滲む少しの寂しさを隠して、素直に頷いた。未だに、瑠都のことを呼び捨てで呼ぶのは王であるステリィオしかいない。
「何か気になる物があればすぐに言ってくださいね」
優しげな微笑みを浮かべるフェアニーア。今日一緒に行動するのがフェアニーアでよかったと瑠都は思った。六人の中でも比較的接しやすそうな人物だと感じていたからだ。
「お嬢ちゃん、見ていかないかい」
掛かった声に、瑠都は横を向いた。出店が立ち並ぶ通りは賑やかで、あちらこちらから声が降ってくる。出店だけではなく、きちんとした店舗を持つ所もある。まるでテレビで見ていた外国の市場のようで、目移りしてしまう。そんな瑠都に気を使って、隣のフェアニーアもゆっくりと歩を進めてくれる。
「あ、」
声を漏らした瑠都は、少し先にある出店の前へと小走りで向かった。他の客を見送ったばかりの店主が瑠都に気が付いて、笑みを浮かべた。
「どうぞご覧になってくださいな」
その店では、ハンカチが売られていた。折り畳まれ綺麗に並べられた色とりどりのハンカチ。それだけなら特出することはないのだが、見本として上から吊されているハンカチの絵柄が動いているのだ。広げられた布の上で、キャンバスのように鮮やかな色が動いている。瑠都は目を丸くしてそれを見上げた。
草原の緑から顔を出す桃色のウサギに、走り寄る小さなウサギ。きっと、親子だ。二匹はそっと寄り添うと、まん丸の赤い目をこちらに向ける。そしてまた草原の緑へと戻る。
隣のハンカチは黒く、きらきらとした星が一面に散っていた。横に流れていく星たちの上にやがてデフォルメされた可愛らしい恋人たちが抱き合いながら現れ、見つめ合いながら楽しげに笑い合う。ゆっくりと星空に溶けていけば、やがてまた一面の星空だけになる。
一定の動きを繰り返す不思議なハンカチたちに、瑠都は目を輝かせた。
「フェアニーアさん、」
思わず名を呼んでしまえば、呼ばれた人物はすでに隣に立っていた。子どものように店まで走り寄ってしまった瑠都は恥ずかしさを覚えて顔を赤くするが、フェアニーアは気にしないようでハンカチを一枚手に取って広げた。
そのハンカチは真っ白で、真ん中にクマが立っていた。そのクマは一回転するとネコに変わり、また一回転すると犬に変わった。色んな動物に変わったと思えば、またクマに戻る。
「すごい、どうして動いてるんですか」
「魔法が一緒に織り込まれているんです。今レスチナールで一番流行っている物なんですよ」
「お嬢さん、魔法は珍しいですかい。ここには来たばかりで?」
たっぷりとした口髭を蓄えた店主は、フェアニーアと瑠都を見比べたあと、数枚のハンカチを広げて見せた。
「ええ」
答えたのはフェアニーアだった。
店主はそれを疑問に思うような素振りも出さず、興味津々な瑠都に次々とハンカチを見せていく。
「これなんか素敵だと思いますがね。ああでもこれもよくお似合いですな。どうです、レスチナールに来た記念に、二枚お求めくださればお安くしておきましょう」
「可愛いですね」
ハンカチに夢中な瑠都は、店主に買うことを進められていることに気が付いていない。
それでも根気よく勧めているのだから、商人とは逞しいものだ。見守っていたフェアニーアが苦笑する。しかしふと、ハンカチを一枚手に取ってしばらく眺めたあと、店主に次々と差し出される魔法のハンカチに目を輝かせる瑠都を見やった。
「ハンカチよりもいい物があるよ。おいでなさいな」
隣の店から、その店の店主が顔を出した。
「おいおい、横取りか」
「いいじゃないのいいじゃないの。うちも今ちょうど客が帰ったとこなんだ。魔法が珍しいらしいお嬢さん、うちにだっていい物があるよ」
「お前なあ」
言い合いをしながらも、二人は満開の笑みだ。何年も隣に店を構える者同士、気心が知れているのだろう。
隣の店の店主が瑠都に手招きする。瑠都は歩を進めかけたが、ハンカチ屋の店主を振り返った。店主は諦めたように肩をすくめた。
「また来てくれよ、お嬢ちゃん」
「ほらほらこっち」
早速とばかりに、恰幅のいい隣の店主が瑠都にまた手招きする。その店には、黒い台座に置かれた丸いガラス玉が並べられていた。
そのガラス玉の中には、季節があった。
手のひらサイズの丸いガラスの中、花畑の上に日差しが降り注ぐ。かと思えば透き通る海になり、波が立つ。落ち葉が舞う中にそっとたき火が灯れば、やがて真っ白な雪に覆われる。輝く細かい粒子が散るガラスの中で移り変わる季節。
一つのガラス玉の中に季節のつまった物もあれば、春だけ、夏だけ、といった物もある。更にその一つ一つが違った風景を見せるものだから、瑠都はその美しさに目を奪われた。
「綺麗……」
顔を近付ける瑠都に、どの季節がお好みかな、と店主が尋ねた。店主の説明によると、これは一流の職人が高度な魔法を組み込んで作った物らしい。一つ作るにも時間がかかるのだと教えられ、ちらりと値段を見たが、さすがにどれも値を張る物だった。
(た、高い……)
輝くガラスを手に入れることができたなら、それは嬉しい。しかしとても自分に買える物ではないと瑠都は肩を落とした。もらった財布には、ガラス玉を買える紙幣は十分に入っている。だからといって高価な物を買うような度胸は瑠都にはなかった。
「おっ」
「お?」
「お金を貯めて、また来ます……」
申し訳なさそうに見る瑠都を、店主は驚いたように見返した。そしてその少女の姿を上から下まで見た。
少女は上品な若草色のドレスを身に纏っていて、金など自由に扱えるどこかの令嬢だと思ったが、そうではないようだ。
ならば隣にいた青年はどうなのだろう。
青年は瑠都よりも遅れて、そそくさと店にやってきた。それをハンカチ屋の主人が満面の笑みで見送っているのだから、勘のいいガラス屋の主人は何があったのかをすぐに理解した。
「待ってるよ」
嫌な顔一つせずに、若い二人を見送った。
「恋人同士かいねえ」
「うーん、それにしてはぎこちないような」
「若いっていいなあ」
店から顔を覗かせて、去っていく瑠都とフェアニーアの背中を見つめる。しかしすぐに訪れた次の客に、また接客へと戻っていったのだった。
レスチナールは栄えている。その言葉の通り、本当に色々な店があった。魔法が使われた品もあれば、使われてない品も普通にある。食べ物もあれば、占い小屋や花屋もある。
歩きながら店を見て回る。その間にも、瑠都とフェアニーアは色んな話をした。
フェアニーアとジャグマリアスは共にこのレスチナールで生まれ育った貴族であり、勤勉で優秀なジャグマリアスに、フェアニーアは学生の頃から憧れを抱いていたこと。そんなフェアニーアが若くして軍の第二部隊副隊長に就けたのも、同じく若くして第二部隊隊長を勤めていたジャグマリアスが推薦してくれたおかげであること。
魔法員のエルスツナとは、昔よく遊んだ幼なじみであること。
フェアニーアがリメルフィリゼアになったことを知った家族は、家の誉れだとフェアニーアを褒めたが、母親だけはやっと娘ができると喜んで、瑠都のために服や装飾品を買い漁っていること。
気恥ずかしそうにそれを語るフェアニーアに、瑠都は笑みをこぼしてしまった。
途中で食べやすい大きさのアップルパイを二人分フェアニーアが買い、それも歩きながら食べた。行儀が悪いかもしれないと瑠都もフェアニーアも同じように思ったが、お互い指摘することもなく気楽に食べたのだから、段々と二人の間にあった壁はなくなっていっているのかもしれない。
「ルト様、向こうに評判の菓子屋があるのですよ」
しばらく見回ったあと、フェアニーアが離れた場所を示した。
「私はそういったことに詳しくはないので、母や知人に聞いたのですが」
行きますか。そう尋ねられて、瑠都は頷いた。
フェアニーアの隣を歩くことに、もう躊躇いはなかった。穏やかで、笑顔が優しげな青年。嫌な印象は抱かなかった。元いた世界からこちらに渡り、瑠都がリメルにならなければ、決して出会うことのなかった存在。そんな人と、結婚するのだ。瑠都は、不思議な気持ちだった。
「ああ、いたいた。探したよ」
歩を進めていると、後ろから声と共に足音が聞こえてきた。瑠都とフェアニーアが同時に振り返れば、そこには濃紺の軍服を纏ったマーチニの姿があった。フェアニーアと同じように、腰には剣が携えられている。
「マーチニ殿、どうされたのですか」
フェアニーアが驚いたように尋ねた。
「今見回り中なんだ。せっかくだから、ちょっと抜けてご一緒しようかと思って」
「大丈夫なんですか」
少し呆れたように問うフェアニーアに、マーチニは問題ないと軽く手を上げて答えた。
「あの、ステリィオ様の護衛じゃないんですか」
疑問に思った瑠都が控えめに問えば、マーチニは深緑の目を向けた。
「護衛が主ですけどね。順番もあるし、たまにこうやって町を見回ったりもするんですよ」
「そう、なんですか……」
「ええ……ところで、今日の若草色のドレスも、よく似合ってますよ。前の桃色もそうだったけど淡い色がよく似合ってる」
「え、あ、ありがとうございます……」
思わず目を逸らしてしまった瑠都を、楽しげに見るマーチニ。フェアニーアは、明らかに戸惑っている瑠都を気遣うように、そっと背中に触れた。
「タルーミミに行く途中なんです。行きましょう」
最後の言葉は瑠都に向けてだった。背中から伝わる温度に促されて、瑠都は動き出す。マーチニも隣に並んだので、三人が横一列になった。歩きながら、マーチニが後ろを確認するように一瞬だけ振り返った。
「フェアニーアくんだけかと思ったら、ガレが一緒か。どうりで最近姿を見ないと思ってたんだ。ルト様付きになっていたんだね」
視線をフェアニーアに戻して、マーチニが言った。瑠都にはフェアニーアやマーチニほどの身長はないので、瑠都を間に挟んでいても、横を見ればすぐにマーチニにはフェアニーアの顔が見える。
「そのようですね」
ガレ、とは一体誰なのか。疑問符を頭上に浮かべた瑠都がフェアニーアを見上げる。それに気が付いたフェアニーアが、安心させるように微笑んだ。
「ガレとは、マーチニ殿と同じ、護衛・警備部隊の隊員ですよ。ルト様がお出かけになる際、複数のリメルフィリゼアと一緒でない時は、彼が護衛に参加することになります。ルト様が外に出られたのは今日が初めてなので、ガレが付くのも今日が初めてですよ」
「なかなかに腕の立つ男ですよ。無口だけどね」
「彼のことはあまりよく知りませんが……話によるとそのようですね。まあ、エル、エルスツナに比べれば、なんてことはないでしょう」
苦笑するフェアニーア。誰よりも無口だった魔法員の姿を思い出して、瑠都も同じように苦笑を浮かべたのだった。
「ああ、エルくんね」
くつくつと笑うマーチニに、瑠都とフェアニーアが同時に顔を向けた。
「マーチニ殿はエルスツナと親しかったのですか」
エルスツナの幼なじみであるフェアニーアは、マーチニがあの人付き合いの悪いエルスツナを愛称で呼んだことが不思議だったようだ。
「この前偶然会ったんだよ。せっかく同じリメルフィリゼアになったんだし、呼び方を変えてみようと思って。本人に許可は取ってないけど」
答えるマーチニは、なぜかフェアニーアではなく瑠都を見ていた。深緑の目を細められれば、瑠都は曖昧に頷き返すしかなかった。
店の間を進んでいけば、やがて少し開けた場所へと出た。目の前に現れたのは、レスチナールで人気の菓子屋、タルーミミ。ガラスの向こうに様々な種類の菓子が陳列されている。店の中にはたくさんの人がいるようだった。
すぐに賑やかな店内へと一歩踏み入れた。甘い香りが広がる。店員も客も女性が多いためか、フェアニーアとマーチニに視線が集まる。その視線に気が付いた瑠都が気まずそうに顔を伏せるが、女連れと知った途端散った視線に安堵して、小さく息を付いた。ぐるりと店内を見回す。
たくさんの種類の菓子が並べられていた。元の世界にあった菓子と見た目はそう変わりはないように思えるが、それが妙に懐かしく、瑠都は端から順に目を通していく。
そんな瑠都を優しげに見守りながら付いていくフェアニーアとマーチニ。おそらくは一緒にいるのが、リメルフィリゼアの中でも比較的人当たりのいい二人だからこそ、こうして三人でのんびりと見て回れるのだ。
店員に勧められていくつか試食する。絶妙な甘さと舌触りに瑠都とフェアニーアが頬を緩ませる横で、マーチニは甘い物は苦手だと一つしか口にしていなかった。
その時、瑠都の足に軽い衝撃が走った。驚いて足下を確かめる瑠都の若草色のドレスに、小さな女の子が埋まっていた。
「ごめんなさい! こら、サト」
瑠都がその女の子に声をかけるより早く、忙しない声が降ってきた。慌てて駆け寄る女性は、女の子の母親だろう。
「この子ったらお菓子に夢中で、前を見てなかったみたいなの。本当にごめんなさいね。大丈夫かしら」
「大丈夫です」
瑠都はそう言ったあと、女の子に目線を合わせるようにしゃがんだ。
「大丈夫?」
今度は瑠都が女の子に、そう尋ねた。
「うん、平気!」
笑いながら大きく頷いた女の子の頭に、母親が触れた。
「あんた、ごめんなさいが先でしょう」
「ごめんなさい!」
明るく言った女の子に頷いて、お互いに菓子選びを再開させる。手を振れば女の子は手を振り返し、母親も笑顔で頭を下げた。
「大丈夫ですか」
親子が去ったところで、フェアニーアが瑠都に確認する。随分心配されるものだと思いながら、瑠都はもう一度大丈夫です、と答えた。
そこでふと、瑠都は楽しそうに菓子に目をやる親子の背中を見た。快活そうな女の子は、菓子を指さして母親に笑顔を向ける。母親は女の子のもう一方の手を握りながら、優しく耳を傾けている。
瑠都は、頭をよぎる疑問に、薄く口を開いた。
「あの……元いた世界では、私の存在はどうなってるんですか」
「ああそれは、元々いなかったことになっているはずです。存在自体がこちらに移動しているので……」
そこでフェアニーアは言葉を切った。マーチニに視線で
(しまった……)
フェアニーアは口を滑らせてしまったと冷や汗をかいた。ただでさえこの状況に慣れようと懸命に自分を保っている少女に、伝えるべきではなかったと、後悔した。
しかし確認するように見た瑠都の表情には、なんの感情も浮かんでいなかった。ただ、前を見据えている。その黒い瞳に何が映っているのか、フェアニーアにも、マーチニにも、読み取ることはできなかった。
出会えば挨拶を交わした同級生、その中でも特に親しかった友人。親戚付き合いもほとんどない中で、時折メールを寄越してくれていた叔母。親の帰りが遅いことを知って、夕飯に誘ってくれていた近所の人。過ごした時間の中で手にした、思い出と、感情と。それから、父と、母と。
「そう、ですか」
暫しの沈黙のあと、呟くように落とした瑠都の声にフェアニーアとマーチニが視線を合わせた。
「私、ミローネさんとフーニャさんにおみやげを買っていってもいいですか」
話題を変えたのは、瑠都だった。フェアニーアもマーチニも無理に話を戻すことはなかったので、疑問に思いながらも一緒におみやげにする菓子を選び始めた。その中でちらりと瑠都の顔色を窺ったマーチニが、何かを思案するように深緑の目を伏せたのだった。
「あー、新鮮な空気」
店を出たところで、マーチニが大きく息を吸った。甘い物が苦手なマーチニには、店の中の甘ったるい香りは息苦しかったようだ。そんなマーチニを付き合わせてしまったのが少し申し訳ない気もしたが、満足な買い物ができた瑠都の表情は明るかった。
ミローネとフーニャにと買った菓子。新作だというその菓子は花の形をした苺味のクッキーだった。二人は喜んでくれるだろうかと考えながら、瑠都も賑やかな町の空気を吸い込んだ。
おみやげの代金は、瑠都が自分で出した。フェアニーアもマーチニもあまりいい顔はしなかったが、自分で払いたいのだといえば渋々ながら納得してくれた。
(とは言っても、もらったお金だけど……気にしないようにしよう)
買った菓子が入った袋は、今はマーチニが手から下げている。会計が終わったあとさりげなく袋を持ったマーチニに驚いたものの、瑠都は素直に礼を述べたのだった。
「さて、次はどうします?」
「どうしましょうか……どこかルト様に楽しんでいただけそうな所は……マーチニ殿はどこかご存じですか」
「うーん、どうだろうね。フェアニーアくんはこの町出身なんだし、俺より詳しいんじゃないの?」
「す、すみません! もしかして、マーチニ様、ですか」
フェアニーアとマーチニの会話は、高い声に遮られた。三人同時に見れば、そこには四人の若い女性が恥ずかしそうに頬を染めながら立っていた。
「……そうだけど、君たちは?」
「や、やっぱりそうだって言ったじゃない」
「うっそやだ、どうしよう」
女性たちは楽しげに身を寄せ合っている。首を傾げるマーチニに、また高い声を出した。
その光景を不思議そうに眺める瑠都の前にフェアニーアが立ち、背の後ろに瑠都の姿を隠した。フェアニーアの白いシャツに鼻先が触れそうになって、思わず瑠都は目を丸くした。癖のない爽やかな匂いが風に乗って届く。
「私たちの友達が軍に入ったんですっ。それで、マーチニ様っていう素敵な方がいるって、教えてくれて」
「時々見回りにいらっしゃるから、もしかしたら会えるかもって話してたところなんです」
「リメルフィリゼアになられたんでしょう。おめでとうございます」
「あの、リメルフィリゼアになられても、私構いません。今度お食事でも……」
四人が矢継ぎ早に声をかけながらマーチニを囲む。女性たちはマーチニがリメルフィリゼアになったことを知っていた。だからフェアニーアは、リメルである瑠都を背中に隠したのだ。
そのことに気が付いて、瑠都は広い背中から出ないようにと、身を小さくした。
しかし、女性たちの興味の対象はマーチニだけではなかったようだ。
「ねえ、あの方、ジャグマリアス様と一緒におられる方じゃない? 第二部隊の副隊長の」
「そうよ、副隊長のフェアニーア様じゃない! やだどうしようっ」
女性の内一人がフェアニーアに寄ってきて軽く腕に触れた。どうやらフェアニーアも有名らしいと気が付いた瑠都が、慌てるフェアニーアの背中を見上げて困惑する。
その時、視界の端にきらきらとした輝きが映った。
そちらを見やれば、先程見た、あの季節を閉じ込めた魔法のガラス玉が転がっていた。ただ勝手に転がっているのではなく、白い猫が遊ぶようにじゃれているのだ。ころころと変わる季節の煌めきに目を輝かせては前足で突いている。
(店から取ってきちゃったのかも)
あの店に返さなくては。瑠都は思わず一歩を踏み出したが、すぐに止まる。そしてフェアニーアの背中から少しだけ顔を覗かせた。女性たちはフェアニーアとマーチニに夢中で話しかけていて、その話しかけられている二人は無理にあしらうこともできず、困ったように眉を下げている。
(すぐに帰ってくれば、いいよね)
そう決心して、瑠都はガラス玉を転がす白い猫を追いかけた。
じゃれながらも、猫の進む速さは意外と速かった。瑠都は駆け足で追いかける。何度か角を曲がれば、喧噪から離れて住宅街のようなところに出てしまった。随分遠くに来てしまったかもしれないと思いながら、立ち止まって乱れる息を整える。
「し、しんどい……運動不足かも。猫、どこ」
早く戻らなければ、フェアニーアとマーチニに心配をかけてしまう。辺りを見渡せば、きらきらとした輝きに気が付く。その輝きに近付き、手に取る。手のひらサイズのガラス玉の中では、季節が秋から冬へ移ったところだった。辺りに猫の姿はない。飽きて、ここに捨てていったのだろうか。
瑠都は、道を転がったことで付いてしまったガラス玉の汚れを払った。
「よし」
大事そうにガラス玉を持った瑠都が、タルーミミの前に戻ろうと来た道を辿っていく。何度か角を曲がったところで、公園のような場所の前に出てしまった。
広場があり、いくつかの遊具も備えられている。その公園では、何人かの子どもたちが駆け回っていた。
「あれ……」
瑠都が間抜けな声を出してしまったのは、この公園に見覚えがないからだ。つまり、元来た道ではないということ。茫然と立ち尽くす。瑠都のことを誰も知らない場所、この世界に来たばかりの瑠都には、馴染みのない場所。
顔を青くする瑠都の背後に、影が差した。後ろに、誰か立っている。ぎこちなく振り返った瑠都の背後には、大柄な男が立っていた。無表情で瑠都を見下ろす男は、マーチニと同じ濃紺の軍服を着ていた。
「もしかして、ガレ、さん?」
そうであってほしいと期待に満ちた目を向ける瑠都に、男、ガレは大きく頷いた。一人で離れた瑠都のことを、護衛していたガレが追いかけてきてくれていた。瑠都は安堵で胸を撫で下ろした。
「ごめんなさい、遠くに来てしまって」
「問題ありません」
短く言い切った無表情のガレに、なるほど確かに無口かもしれないと思いながら、瑠都はもう一度謝罪の言葉を述べておいた。
「あちらです」
ガレは瑠都から視線を逸らすと、体を別の方角に向けた。それに大人しく続こうとしたところで、瑠都の若草色のドレスは何者かによって引っ張られたのだった。
「なあ、お前、誘拐されるのか」
「だめよ付いて行っちゃ。お母さんが言ってたもの」
瑠都はドレスを引っ張る小さな手を辿り、その手の主の顔を見た。勝ち気そうな幼い少年が眉を吊り上げて、瑠都とガレを交互に鋭い視線で射抜いている。その後ろでは不安そうな顔をした、少年と同い年くらいの女の子が、早く、と続けながら瑠都を手招きしている。
「え?」
首を傾げた瑠都は、その子らが公園で遊んでいた子どもたちだと気が付く。
「でもその人軍の服を着てる。悪いことなんてしないんじゃない」
「なんだよ、軍人が悪いことしないなんて決まりあるのかよ」
また別の子どもが意見すれば、勝ち気な少年が即座に言い返す。いつの間にか周りには数人の子どもたちがいた。
(もしかして……)
瑠都はガレをちらりと見てから、言い合いを始める子どもたちの会話に耳を傾けた。そしてすぐに事の顛末に気が付いて、苦笑を浮かべた。否定するために口を開けば、子どもたちの視線が一気に瑠都に集まる。
「誘拐されそうになってたんじゃないよ。私が迷子になって、この人が探しにきてくれたの。悪い人じゃないの」
子どもたちは、公園の外で立ち尽くす瑠都に気が付いていた。声を掛けようと思っていたところに、体格のいい男が瑠都に近寄った。驚く瑠都の顔を見た子どもたちの頭の中で、怖い顔をした大きい男、綺麗な格好をした女性、何か声を掛けられて付いて行こうとしている、誘拐だ、という図式ができあがったらしい。
すぐにそんな考えに至ったのは、今まさに英雄ごっこをしていた途中だったからということを瑠都は知らない。
否定を聞いた子どもたちは様々な反応を見せる。
「そうなの、お姉ちゃん迷子なの? ここよく知らないの?」
「ほれみろ、俺の言った通りじゃんかよー」
「うるせえ、あーあ、つまんねえの」
ドレスから手を離した勝ち気な少年が踵を返して公園の中に戻っていく。男の子たちはそれに続くが、女の子たちが瑠都を取り囲む。
「ねえ遊ぼうよ!」
「私たち今からお絵かきするのよ」
手を引っ張られて、公園の中へと誘導される。助けを求めるようにガレを見る。
「少しだけなら」
なぜか了承を示したガレに子どもたちは喜んで瑠都を連れていく。一人の女の子に、あの人お姉ちゃんの保護者なの、と尋ねられ、私も同じことを思った、とは言えない瑠都だった。
「お姉ちゃん、それ何?」
「猫……」
「ねこちゃん? ふふっ」
瑠都は公園の隅で、数人の子どもたちと砂に絵を描いていた。ガラス玉は白い鞄の中に仕舞っている。差し出された細い木の枝に懐かしさを覚えて意気揚々とデフォルメされた動物を描いたのだが、それがなぜか子どもたちの笑いを誘った。
決してうまいわけではないが、下手なわけでもない、いたって普通の画力のはずなのだが。拗ねるように唇を尖らせてみせれば、また子どもたちが笑った。
子どもたちは、ここレスチナールの六歳から十二歳の子どもたちが通う第一級学校の生徒だという。今も授業中だと知って、瑠都は驚いた。
この時間帯の授業を担当しているのは、レマルダという老年の女性だ。レマルダの授業は週に何回かあるが、この時間はいつも近くの公園で生徒たちを自由に遊ばせている。各クラスによってここを訪れる曜日も時間も違うという。そのレマルダは木陰のベンチに腰掛けて生徒たちを見守っている。
優しげな笑みを向けてくれたので、瑠都は慌てて頭を下げた。
「そういえばお名前なんていうの」
「名前?」
「そう名前!」
子どもたちは画を描く手を一斉に止めて、瑠都を見た。
「ル、」
「ル?」
「ル……」
ここで名乗ってしまっていいのだろうか。すんでのところで言い淀んだ瑠都は、自分のリメルという立場を思い出して目を伏せた。
「ル、ル……ルルね!」
「ルル先生ー!」
しかし子どもたちは、瑠都のつまらせた言葉を名前だと思ったらしい。ルル先生と次々に呼ばれて、目を丸くする。
「先生じゃないよ?」
「いいの、大人はみんな先生なのよ」
戸惑うが、達観した少女にぴしゃりと言い切られてしまったので、瑠都はその呼び名を受け入れるしかなかった。子どもたちは次は瑠都に何を問おうかときらきらとした視線を向けてくる。素性について聞かれても、瑠都にはうまく答えられない。慌てて話題を逸らす。
「それ、なあに」
隣の女の子が描いていた絵を見て、尋ねる。それは花を持っている女の子の絵だった。尋ねられた女の子は恥ずかしそうに頬を染めながら、絵に髪の毛を足す。
「これ、私。お花屋さんなの。お花屋さんになりたいの」
「そうなの……上手だね」
褒めれば、女の子は更に顔を赤くして満面の笑みを見せた。
「じゃあ私はお菓子を描こうっと、お菓子屋さんになるの」
「えーじゃあ、ルミはお姫様ぁ」
みんなが次々と夢を絵にしていく。お姫様を描いている女の子が、瑠都のほうを見ないまま続ける。
「知ってる? この国のお姫様はとっても綺麗なんだ。だからルミもお姫様になりたいな」
「マリー様、だっけ」
「そうそう」
ルミ、と自分を呼ぶ女の子は絵のお姫様をにっこりと微笑ませて、睫毛を付け足した。
「でもマリー様可哀想ね」
また別の女の子が言った。その女の子は、剣を持つ絵を描いていたので、軍に入って戦う女性になりたいのかもしれない。
「だってジャグマリアス様が結婚しちゃうんだもん」
「え、」
心当たりのある名前に、瑠都は嫌な予感を覚えた。
「知ってるー! リメル様と結婚するんでしょう」
「マリー様とお似合いだったのに」
「マ、マリー様とその、ジャグマリアスっていう人は、何かあったの?」
おそるおそる尋ねた瑠都に、子どもたちは声を大きくして説明する。その姿は道端で噂話に興じる主婦のようだった。
「マリー様はジャグマリアス様のことが好きだったんだよ」
「結婚するんじゃないかって私のお母さんも言ってた!」
「でもジャグマリアス様はリメル様と結婚しちゃうでしょう。つまり、マリー様の恋は終わってしまったの」
言葉が重なる度に、段々と瑠都の顔色が青くなっていく。ジャグマリアスはリメルフィリゼアになり、リメル、つまり瑠都と結婚する。愛し合って一緒になるわけでもなく、天から定められて。
マリーはジャグマリアスのことが好きだった。ジャグマリアスも、そうだったのかもしれない。絵画から飛び出たような完璧な美しさを持つあの男を、この国の美しい姫から、瑠都が奪ったのだ。
「どうしよう……」
うなだれる瑠都に、心配そうに子どもたちが声をかける。しかし何でもないと返せば、子どもたちはすぐに意識を絵へと戻した。
子どもたちがマリーの話を終えて、次々と夢を描いていく中、瑠都の手は止まっている。明らかに落ち込んでいる瑠都に気付かないまま、一人の子どもが、不思議そうに瑠都の足下の砂を見た。
「ルル先生はどうして何も描かないの? 何になりたいの?」
その言葉に自分を取り戻した瑠都が、地面に付けたままの細い枝を少しだけ動かした。しかしその頼りない動きが、何かの形を描くことはなかった。瑠都の脳裏で、抱く夢が顔を出した。
「……お嫁さん、かな」
瑠都の声に、子どもたちが聴き入っている。遠くのほうで遊ぶ男の子たちの声が聞こえるが、そちらには興味が向かないようだった。
「好きだよって言ったら、好きだよって心から返してくれるような、そんな人に愛される、お嫁さんになりたいな」
言い終わってから、自分が今子どもたちに何を語ったのか気が付いて、瑠都は頬を染めた。慌てて違う言葉で言い繕うとして口を開くが、子どもたちにそれは遮られた。
「素敵!」
「私も、私も、そんなお嫁さんがいい!」
きらきらと目を輝かせる子どもたち。いつだって、どの世界でだって、愛しい人と結婚して「お嫁さん」になることは、女の子の憧れなのかもしれない。
幼い夢を自分で否定せずに済んだことが、瑠都は少しだけ嬉しかった。子どもたちと笑い合っている時、また後ろから影が差した。
「そろそろ」
短く言ったのは、ガレだった。
そろそろフェアニーアとマーチニの元に帰ろう、と促しているのだ。瑠都は頷いて、しゃがんでいた体勢から立ち上がった。
子どもたちは瑠都との別れを惜しんだ。この曜日のこの時間にはここにいるから、また来てほしいと強くせがまれた。遠くで遊んでいた男の子たちが足を止めて去っていく瑠都を見ていた。レマルダも、優しい笑顔で見送っていた。
フェアニーアとマーチニと合流した瑠都は、ひたすらに謝った。二人とも息が切れていて、瑠都を探してくれていたのだと知ったからだ。フェアニーアは怪我はないか、不審な人物に会わなかったかと頻りに尋ねたし、マーチニは困ったように笑っていた。
ガレは、また姿を消した。見えない位置で瑠都を護衛しているのだろう。
そのあとはまたレスチナールの中を巡った。気になった店に入ったり、占い小屋に寄ったりもした。占い小屋ではまず瑠都が占ってもらったのだが、占い師が顔を歪ませながら、あなたの後ろの世界が見えない、私にはとても恐れ多くて映し出せない、と言ったので、慌ててフェアニーアとマーチニが瑠都を促して退出した。
空が茜色に染まり始めた頃、マーチニが同じ部隊の隊員に連れていかれた。やっぱり勝手に見回りの仕事を抜けて来ていたんだと、フェアニーアが呆れたように笑っていた。
「あ、ガラス玉!」
マーチニを見送った瑠都が、突然声を上げた。ガラス玉を追いかけたという話を聞いていたフェアニーアも、思い出したように声を漏らした。
「返しにいくの忘れてました……」
「行きましょうか」
見覚えのある町並を過ぎて、ハンカチ屋とガラス屋の並ぶ店の前に辿り着いた。ガラス屋の店主に事情を説明してガラス玉を差し出せば、店主は礼を述べながら受け取った。布で綺麗に磨いていく。
「後ろに置いてたのが一つなくなってると思ってたんだ。ありがとうよ。いやぁしかし、道を転がった物だからね。何も知らない人に売るのは申し訳ない」
そう言うと、恰幅のいい店主は瑠都にガラス玉を差し出す。
「どうだいお嬢さん、もらってくれないかい」
「えっ」
店主の申し出に、瑠都はガラス玉の値段を思い出して受け取りを躊躇う。
「これはどこかの猫が浚っていったんだ。もうウチからお嫁に出たのさ」
ウインクしてみせた店主から、瑠都はガラス玉を受け取った。ガラス玉の中では花が咲き誇っている。
「……ありがとう、ございます」
「ここにあるガラス玉は一つ一つ違うんだ。どれも最高に綺麗だろう。お金を貯めたら、また別の子を買いにきてくださいな、親切なお嬢さん」
瑠都とフェアニーアは、初めての外出を終えて城まで帰ってきていた。フェアニーアは瑠都が今滞在している客間まで送ってくれるらしく、隣を歩いている。瑠都の鞄の中には、ガラス玉と、それを飾る黒い台座が増えた。フェアニーアの手には、ミローネとフーニャへのおみやげが入ったタルーミミの袋が下げられている。
あと少しで客間に着くというところで、徐にフェアニーアが立ち止まった。客間がもうすでに見えている位置で止まったフェアニーアを、一歩進んでしまった瑠都が振り返る。
フェアニーアはズボンの後ろのポケットから、包装紙に包まれた何かを取り出した。少し皺の寄ったその包みを伸ばして、フェアニーアは瑠都に差し出した。
「あの、」
「よろしければ、受け取ってください」
いつも真摯に瑠都を映してくれる橙色の瞳は、ぎこちなく逸らされたまま動かない。瑠都がそっと受け取れば、やっと橙と黒の瞳が交差した。
「フェアニーアさん、あの……」
「開けてみて、ください」
受け取ったまま戸惑う瑠都を、フェアニーアは促した。瑠都は了承を示して、包みを開いていく。そして目に入った物に驚いて、折り畳まれたそれを広げた。
四角いキャンバスの下側で、可愛らしいデザインのお姫様がきょろきょろと辺りを見渡す。そして端から王子様が現れ、お姫様の元へ向かうと、片膝をついて手を取る。恭しくその手に口付けると、王子様は立ち上がる。手を取りあって、また端へと消えていく、二人。一面には花が散っている。
それは、魔法のハンカチだった。
「これ……」
「初めてレスチナールを見た記念に……その、ルト様に似合うと思ったので。どうか、受け取ってください」
瑠都が目を輝かせた、あの魔法のハンカチ。それをフェアニーアが瑠都に贈ったのだ。魔法が織り込まれた、たくさんの鮮やかなハンカチの中から、瑠都のために、フェアニーアが選んでくれたのだ。それが瑠都には嬉しかった。胸を焦がすほんのりとした熱に、瑠都は思わず笑顔になった。
「ありがとうございます……ほんとに、ありがとうございます」
瑠都の笑顔を受けて、照れるような仕草を見せていたフェアニーアもやっと顔を綻ばせた。瑠都は魔法のハンカチをぎゅっと握り締める。
今日は、たくさんの物を得た。フェアニーアとマーチニとの会話や時間、たくさんの人との触れ合い、おいしい物、楽しかったこと。ガラス玉と、そして、この温かい魔法のハンカチ。
そんな日が終わってしまうのが、とても寂しい。
その時、後方で大きな音が鳴った。客間の扉が勢いよく開いたのだ。飛び出してきたのは、メイド服のフーニャだった。瑠都とフェアニーアに気が付いたフーニャがまっすぐ向かってくる。いつになく慌てた様子のフーニャは、強い力で瑠都の手を掴んだ。
「ルト様、どうしましょう。マリー様が、マリー様が、いらっしゃてるんです!」
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