第6話 綻ぶ先を知らない貴方

 

 

 ジーベルグの城下町、レスチナール。賑わう町のとある家の中では、慌ただしい足音があちらこちらを行ったり来たりしていた。


「お母さん! スビアちゃんたちにはこの手紙送らないの? リメルフィリゼアになったこと伝えるやつ」


「スビアちゃん? あんた、そんなとこにまで送ってたら切りがないよ。それよりこっちの荷造りを手伝ってちょうだい」


「母さん、式で着る服だけど、」


「お父さん! 私は今それどころじゃないの、自分で選んでくださいな」


「母さん……荷造りって、僕そんなに荷物ないし、引っ越しだってまだ先だし」


「荷物が少ないのなんて知ってるわよ。だからってみすぼらしいまま送り出すわけにはいかないの。それに早いに越したことはないわ、メイス。あんたそう言って、いっつも直前に慌てるんだから」


 所在なく立ち尽くしているメイスに、呆れたような顔をして声を大きくするのは、メイスの母親だ。荷造りを手伝い始めた姉にも無視されて、父親はいくつかの礼服を持ったまま、肩を落としながら部屋へと戻っていった。


「だからって母さん、早すぎだよ……」


 聞かれてしまえばまたどやされるため、メイスは小声で不満を垂れた。薄い茶色のソファに、音を立てて座る。


 メイスがリメルフィリゼアとして花開いた時、家の者は大騒ぎだった。母親にいたっては、感激のあまり泣いていた。その騒ぎは未だに収まっていない。それは学校でも同じだった。


 突然に変わった日常に戸惑う。瑠都だけではなく、メイスにとってもそうだった。平凡な人生を生きて、平凡な未来が待っていると、ついこの間まではそう思っていた。


 他のリメルフィリゼアたちは、どうなのだろう。


 年齢も違えば、立場も違う。気軽に今の心境を聞ける相手などいなかった。


「でも、あんたが先に結婚することになるとわねえ。レイミー姉の次は、順番的には私でしょうー」


 荷造りする手を早速止めて、姉は恨めしそうな視線を送った。レイミーとは一番上の姉の名で、二年前に遠くの町へと嫁いでいった。そのレイミーも、メイスの結婚式には帰ってくる予定だ。


「ほんとにねえ……。あんたがリメルフィリゼアで大丈夫なの?」


 つい先程まで忙しなく動いていた母親も、動きを止めて、心配そうにメイスを見やった。決して馬鹿にしているのではなく、本気で末の息子の行く末を案じているのだ。


「大丈夫かは僕が知りたいよ」


 父親とよく似た顔で、見て分かるほど落ち込んだメイスに、母親と姉は目を見合わせて肩をすくめた。


「……リメル様ってどんな人なの?」


 少しでも息子の気持ちを浮上させようと、母親が問うた。


「リメル様?」


 効果はあったようで、メイスは顔を上げて答えを探し始める。


 煌びやかな天井から現れた、リメル。見慣れない服を着て、花びらに包まれていた、幻のような人。マーチニという名の王の護衛は、リメルのことを女神だと思ったと言っていた。ならばあの時、自分はどう思ったのだろう。


「綺麗な人だよ。……天使みたいだと、思った」


 呟いたメイスは、自分が口にした言葉をようやく理解したのか、頬にさっと朱がさした。


「やだこの子ったら、真っ赤だよ」


「ほんとだー! 何よあんた、自分で言ったんでしょう」


 笑い出した母親と姉に、メイスは更に赤くなった顔を隠すために、両手で覆った。



 天使、みたいな人。その感情は、二度目に会った時にも失われなかった。


 桃色のドレスは、よく似合っていた。黒い瞳は不安げに揺れていたが、最後には、真っ直ぐにこちらを映していた。


 幼い頃に見た物語に登場していた、異世界から訪れる高貴な人。まだこの世のすべてを知らないような、同い年の少女。


(あの人と、結婚するのか、本当に)



「でも、きっと、不安でしょうね」


 急に声色を穏やかにした母親に、メイスは顔から手を離して、耳を傾けた。


「突然違う世界に来てしまって、もう、戻れないんでしょう。寂しくないはずがないもの。ねぇ……守ってあげなさいよ、メイス。同い年のあんたにしか出来ないことは、必ずあるわ」


 母親は、遠くのリメルまで慈しむように目を細めた。


「……分かってる」


 分かってるよ。もう一度、心の中で繰り返した。


「そうだ。アルバムをいくつか持っていったら?」


「アルバム?」


「いいじゃんそれ! リメル様にも小さい頃の写真見てもらったら、楽しいって色々」


「楽しくないよ! 恥ずかしいから、持っていかないよ。……リメル様も、興味ないかもしれないだろうし」


 また肩を落としたメイスは、しかしすぐに声を張り上げることになる。


「……って母さん! 入れてるの見えてるから!」


 レスチナールにある、一つの温かい家。そこは今日も、賑やかだった。





「あれ、エルスツナくん? こんな所にいるなんて珍しいね」


 星の輝く夜だった。馴染みの酒屋を訪れたマーチニは、客の中に珍しい人物を見つけて、思わず声をかけた。


「ああ、トムも一緒か」


 なんの感情も表さないまま黙々と料理を食べるエルスツナの向かい側には、顔なじみの魔法研究所第一級魔法員、トムが座っている。


 この酒屋は料理の味もよく、通にも人気の場所だ。向き合って食事を取るエルスツナとトム。エルスツナの隣の空いていた席に、マーチニは腰かけた。


「よおマーチニ。お前も飯か」


「いいや、待ち合わせ」


 酒を喉の奥に流し込んだトムが、グラスをテーブルに置きながら、マーチニに笑顔を向けた。マーチニのことはトムが相手にすると思ったのか、エルスツナは一瞥しただけで、食事する手を止めることはなかった。


「一杯だけ頼むよ」


 店の者に声をかけたマーチニに、エルスツナの態度を気にする様子はない。


「リメルフィリゼアが二人揃ったな。なんか俺にも御利益ありそー」


「あるかもね」


 冗談っぽく笑った二人の声は、周りの喧噪に飲み込まれる。すぐに出されたグラスを受け取って、マーチニは早速一口含んだ。


「式の準備は着々と進んでるみたいだよ、エルスツナくん」


「知ってる」


 愛想の欠片もなく答えたエルスツナ。


「冷たいなあ。俺はいいけど、そんな態度じゃその内リメル様が泣いちゃうよ」


「なぜ」


 短く言ったエルスツナは、本当に分からないのか、ようやく手を止めてマーチニに顔を向けた。


「なんでってそりゃあ、旦那さんに冷たい態度取られちゃ泣くでしょ」


「エル、お前ってやつは……」


 トムは説教するように、エルスツナに人差し指を向けた。


「リメル様と結婚するってことは、本当に名誉なことなんだよ。分かるだろ? そんな人を、大事にしないでどうするよ。幸せになれないぞ、お前。バチが当たるぞ」


 エルスツナの隣では、マーチニが同意するように頷いて、グラスに口を付けた。

 言われた当の本人は、不満げに眉を寄せている。もっとも、他人には分からないような、微かな変化だったが。


「リメルがいれば、魔法が見つけやすくなる。俺にとってリメルという存在は、それ以上でも以下でもない」


 喧噪の中に落とされた、エルスツナのリメルへの感情。グラスから口を離したマーチニは、冷静な眼差しで隣のリメルフィリゼアを射抜いた。


「……それ、あの子の前では言ってやるなよ」


 この世界に来たばかりの、一人きりのリメルには。

 エルスツナは、もう何も答えなかった。


「お前なあ、」


 酔いが回っているのか、トムは赤い顔で更にエルスツナに詰め寄ろうとする。

 しかし、マーチニの背後に立った人物に気が付いて、言葉の途中で口を閉ざした。


「マーチニさん、待たせてしまいましたか」


 後ろから聞こえた、鈴を転がすような声に、マーチニはゆっくりと振り返る。


「いや、そんなに待ってないよ」


 行こうか、そう続けて立ち上がる。テーブルの上のグラスはすでに空だった。


「……なんだよ、早速浮気か」


 トムは呆れたように、マーチニと赤い口紅を塗った女とを見比べる。


「浮気って、まだ正式に結婚したわけじゃないよ。それに、夕食を一緒に取るだけだしね」


 マーチニはにこりと笑うと、片手を上げて背を向けた。


「じゃあまたなトム。エルくんも」


 自身への呼び方を変えたマーチニと、一緒に歩き出した女の背中を、エルスツナは一瞬だけ振り返った。


 勘定を済ませたマーチニの腕に女はしなだれるようにして、細い腕を絡ませていた。赤い唇は女としての魅力を最大限主張するように弧を描いている。


 ただ、夕食を共にするだけ。女のほうは、更々そのつもりはなさそうだ。


 すぐに興味を失ったのか、エルスツナは食事を再開させる。そんなエルスツナと、扉から出ていくマーチニを順に見たトムは、テーブルに片肘を付いて溜息を吐く。


「……なんか、リメル様が可哀想だな」


 もし俺がリメルフィリゼアだったら、これでもかというくらい大切にするのに、と考えながら、残った酒を一気にあおった。





 鳴り続いていた水音が止んだ。白い肌を静かに伝う水滴が、磨り硝子越しに窓から入った光を受けて、きらりと煌めく。

 晒された肉体は軍に所属している者らしく鍛え上げられていて、さながら彫刻のようだった。


 今日は、夢見が悪かった。珍しく朝から湯浴みをしたのはそのためだ。


 いつもよりか少し早い時間だが、もう仕事に向かおう。そう思って浴室の出入り口へ足を進める。


 ここは、ジーベルグ王国軍特殊部隊に与えられた施設。訓練所や執務室など、すべての設備が整ったこの施設には、それぞれの隊員に与えられた私室もあった。

 まだ独身の者、実家がレスチナールにない者は、大抵がここに住んでいる。ジュカヒットも、その一人だった。


 ふと、足を止めた。

 扉のすぐ横にある、上半身だけが映る鏡。普段なら見向きもしないその鏡に、今日は珍しく、自分の姿を映した。


 胸元に咲いた、一片の花びらに、そっと触れる。咲いた時には熱を宿したその印は、今はなんの温度も抱いていなかった。


 あの熱は、どこから来て、どこへ帰っていったのか。

 天から与えられて、天へ帰っていったのか。それとも、心の内から来て、もう一度強く心に焼き付いたのか。


 同じ黒を纏ったリメルの胸にも、この花が咲いているのだろう。一片ではなく、立派な一つの形を成して。


 想うこと、そして想われることが約束された、桃色の鮮やかな花。


 リメルの手は、冷たかった。

 しかし、躊躇うように重ねられた手から送られた、特別な魔力はどんなものよりも温かかった。その魔力は未だに、ジュカヒットの中を巡り、満たしている。



「……ルト」


 小さく名を呼んだ低い声が、どんな熱を抱いていたのか。その答えを知るのはきっとまだ、朝日に煌めく漆黒だけだろう。





 整頓された執務室。その一番奥にある、大きな窓に背を向けて設置された机では、ジャグマリアスが筆を進ませていた。襟足から伸びた髪をたらりと首に垂らしているその姿さえ、絵になっていた。


「ジャグマリアス様。シマの洞窟への魔法探しですが、残りの人員を上に報告しました」


 その机の前には、白い軍服を着たフェアニーアが立っている。ジャグマリアスは顔を上げて、フェアニーアを労った。


「そうか、ご苦労だったな。今日はもう帰っていいぞ」


 そう言うのに、フェアニーアは浮かない顔をして、退室しようとはしなかった。そんな様子を見て、ジャグマリアスは筆を置き、背もたれに身を預けた。


「……リメル様の、ことなのですが」


「どうかしたか」


 促しても、フェアニーアは言い淀むように口を閉ざしたまま。ジャグマリアスはそんな部下を責めることもなく、青い目を細めて自ら切り出した。


「思っていたよりも、普通の娘だったな」


 人にも個性があるように、リメルにも個性がある。魔法が得意なリメル、足の先まで真っ直ぐに伸びた、艶やかな髪を持っていたリメル、動物や自然と会話できたリメル。

 様々なリメルの記録が文献として残っているが、今回のリメルにはこれといって特異な容姿も、能力も、見当たらなかった。


「……はい。正直私は、それで安心しました。しかし、私もリメルフィリゼアに選ばれてしまうとは……。言い方はよくないですが……あなたと同じ妻を持つということに、まだ、躊躇いがあります」


 もしこの時代にリメルが現れたとして、目の前の上司なら、きっとリメルフィリゼアに選ばれるだろうと、フェアニーアは思っていた。


 それほどまでに優れていて、尊敬できる人物。そんなジャグマリアスと、リメルフィリゼアとして同じ立場になってしまう。


「何も、気にすることはないだろう。天が決めたことだ。それに、リメルの夫となることは、いいことだろう。私もお前も、これで上を目指しやすくなる」


 フェアニーアは、この執務室に入ってきてから、初めてまともにジャグマリアスの目を見た。


「リメルフィリゼアとなり、リメルテーゼを得る。魔力の質が上がり、自然や魔法からの祝福が贈られる。しかし、重要なのはそれではない。リメルフィリゼアに贈られる一番の報酬は――名誉だ」


 青い目は、深い海のようだ。引き込まれてしまいそうになるほど静かなその青は、けれど誰も寄せ付けない冷たさも持ち合わせている。


「尊敬と憧憬、そして名誉。多くの者がリメルフィリゼアを特別な存在だと認識する。これは、自分という存在の価値を高めるいい機会だ」


 窓から入る茜色の光に照らされて、ジャグマリアスは目を伏せた。


「しかし、それではリメル様が……」


 フェアニーアは、外された視線に幾らか安堵した。ぞくりとするような深い青はいつも、すべてを見透かしてしまうからだ。


「可哀想だと思うか」


 それなのに、ジャグマリアスはやはりフェアニーアの心情などすぐに言い当ててしまう。


「……はい」


 フェアニーアは何も隠さなかった。リメルのことを名誉のためだけに利用するのは、あまりに可哀想だと、正直に頷いた。


「ならば、お前が愛してやればいい」


「私が、ですか」


 その言葉のあと再び合致した視線を外すことは、フェアニーアにはできなかった。驚いて目を丸くしているフェアニーアに、ジャグマリアスは笑みを向けている。


「フェア、お前はリメルのことを、どう思うのだ」


「……守らなければいけない人だと、思いました。リメルとしても、一人の、女性としても」


「そうか。それならいいではないか。十分、恋慕になり得る感情だ」


 フェアニーアは返す言葉を探して視線をさ迷わせたが、言葉を発するより前にジャグマリアスが続けた。


「何も、六人全員が恋慕を抱く必要はないだろう。私がリメルを恋しく思うことは、この先も、決してない。だが、フェアの想いなら、恋慕になる可能性がある。愛せるというのなら、愛してやればいい。もちろん、無理にとは言わないが」


「それで、いいのですか、ジャグマリアス様は」


 恋しく想うことは、決してない。

 リメルと家族になっても、本当に想い合うことは、決してないと。


「ああ」


 短く言い切ったジャグマリアスは、何か言いたげなフェアニーアの心情を察しながらも、背もたれから身を起こして再び筆を握った。


「……あの娘のこと。私も、哀れだとは思っている。だから、一人のリメルフィリゼアとしてならば、大切にはしよう」




 フェアニーアは、執務室の扉を外からそっと閉めた。けれどすぐには動き出さない。


「愛せるだろうか、俺に……」


 問うたのは、自分自身に対してだった。

 リメルフィリゼアは、必ずリメルに想いを抱く。それが一体、どんな感情なのか。この花を与えた天は、知っているというのだろうか。


 しばらく佇んでから、帰宅するために歩を進めた。ほのかに肌寒い空気が、夜の訪れを告げていた。

 

 

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