第3話 胸に咲いた花

 

 

 目を開いた時、眩い光の中で、花びらが散っているのが見えた。上から降る花びらたちに優しく包まれた自分もまた、そっと降っているのだと知った。


 意識は完全に覚醒しきらない。朧気に認識する美しさは、鮮やかな夢見。


 はらはら、はらはら、降る。


――守られて、いるみたい


 守るように包む花びらが優しすぎて、いっそのこと、泣いてしまいたくなった。緩やかな優しさは温かい。それが嬉しくて、悲しくて、愛しくて。


 覚醒し切らないまま再び霞んでいく視界に映るのは、変わらない光と、花びら。遠のく意識の中で、胸に柔らかな熱が灯ったのを感じた。




「ん……」


 小さく漏らした吐息に震えた瞼が、静かに持ち上がった。確かめるように動かせば見慣れない天井に気が付いて、ぱちりと目を見開いた。


「え……」


 まず気が付いたのは、自室よりも天井が高い、ということだった。白い天井には豪華なシャンデリアがあり、煌めくばかりの明るさを広すぎる室内にもたらしている。


 瑠都はおそるおそる体を起こした。


 濃い眠気に襲われて、自室のベッドに身を任せた。目を覚ませば、待っているのは見慣れた部屋だったはずだ。身に纏っているのは相変わらず制服のままだったが、豪華な部屋に、寝ていたのは大きなふかふかのベッド。


 寝起きのままの鈍い頭を懸命に動かして考えるが、ここがどこなのか、自分はどうしてしまったのか、分からないままだ 。


「ど、どうしよう」


 ベッドから降りるのも躊躇ってしまうほど困惑して、口元に手をやる。


 豪華な部屋に覚えはないし、あのあと目を覚まして動いた記憶もない。頼りない動きで、やっとのことベッドから立ち上がる。部屋を見渡す度、困惑が増す。


 どうしよう、ともう一度溢して、瑠都は一歩だけ足を動かした。


(そうだ、花びらを、見た気がする)


 優しすぎる花びらに包まれて、自分は降らなかっただろうか。一度浮上したはずだが、光と花びらに様々な感情を抱いて、意識は再び霞んでいった。


(降ってきた、の? 私……それに、あの花びら)


 深く考え込む瑠都だったが、扉のほうで鳴った音に気が付いて、びくりと体を揺らした。


 ノックされただろう扉を凝視するが、何か行動を起こすことはできなかった。言葉にならなかった空気が、薄く開いた唇から微かに漏れる。


 少しの間を空けて、扉がゆっくりと開かれた。扉の向こうから現れたのは、メイド服に身を包んだ四十代くらいの女だった。茶色い髪を一つの団子にしてきっちりとまとめたその女は、伏し目がちに視線を落として室内に入ると、丁寧な動作で内から扉を閉めた。そしてゆっくりと振り返り、そこでやっと視線を上げた。


 ベッドから一歩を踏み出したままの体勢で固まる瑠都と視線が合致して、その女も身を固くした。


「……お目覚めでいらっしゃったのですね。そうとは知らずに、断りもなく入室してしまいまして、申し訳ありません」


 しかし、女が驚きに目を見開いていたのは一瞬のことだった。すぐに身を正すと、瑠都に対して、深く礼をして謝罪を述べる 。


「あ、いえ……そんな、えっと」


 か細い声で答えた瑠都に、女は顔を上げると、髪と同じ茶色の瞳で瑠都を見つめた。


「あの……ここは、どこなんでしょう。私、覚えていなくて」


「ここはシマザラーガ大陸にあります東の大国、スティリオ王が治めるジーベルグでございます」


「え、」


 女が述べた言葉に、瑠都の目が見開かれる。困惑と驚愕と、そして不安に満ちた表情に、女がわずかに息を詰めたのが分かった。


「ジーベルグ……? それは、日本とはどのくらい離れているんですか。私、日本にいたはずなんです。どうして、私、帰らなきゃ」


「落ち着いてください。あなたがいらしたそのニホンという国から、なぜ突然ジーベルグにいらっしゃたのかも、後ほどきちんと説明いたします。今はどうか落ち着いて、気持ちを穏やかに」


 そう言うと、女は瑠都を先程まで横になっていたベッドへ促し、そこに座らせた。されるがままの瑠都を案じるように眉を下げて、ベッドの側に膝を付くと、瑠都の白い手をそっと両手で包んだ。


「私はミローネと申します。何かあれば、すぐに私にお申し付けください。……お名前を、お伺いしてもよろしいですか」


 ミローネの柔らかな雰囲気にいくらか安心して、瑠都は小さく口を開いた。


「花松、瑠都です……」


「ハナマツ、ルト様。どちらがお名前ですか」


「瑠都です……」


「では、ルト様。すぐに水をお持ちいたしますね。喉が乾いていらっしゃるでしょう。それとも、湯浴みなさいますか」


 首を横に振った瑠都に、では水を持って参りますと言ったミローネだったが、瑠都の手を離す気配も、立ち上がって退室する気配もなかった。


 不思議そうに見つめる瑠都に、ミローネはしばらくの沈黙のあと、意を決したように切り出した。


「一つ、確認していただきたいことがあるのです。不躾ながらお尋ねいたします……胸元に、花が咲いていませんか」


「花、ですか」


「はい、花です」


(胸元に、花? 何を……)


 ミローネの言葉の真意が分からず、瑠都は首を傾げる。しかし、ミローネにふざけている様子はない。


 瑠都はミローネにそっと離された手で、制服の胸元を引っ張った。何も変わっているはずがないと覗き込んだ胸元には、薔薇に似た形の桃色の小さな花の模様が刻まれていた。


「何っ、これ……」


「やはり、花が咲いているのですね」


 こんなところにタトゥーを入れた覚えはないし、シールという感じでもない。自分の体に浮かんだ花の模様に、いくらか潜んでいたはずの瑠都の不安が再び滲み出す。それを察したミーロネが、慌てたように立ち上がった。


「そのことについても、きちんと説明いたします。まずはお水を」


 早足で部屋を出て行くミローネの背中を見つめながら、瑠都はつい先程まで当たり前のようにあったはずの日常が、なぜかすでに遠いものになってしまったような感覚に、つと背筋が冷えるのを感じていた。





 瑠都がいる部屋は、城にある客間だった。ミローネが入ってきたドアの先にはもう一つ同じような広さの部屋があり、そこには豪華なテーブルとソファーなどが置かれている。更にその先の扉を出ると、廊下に繋がるらしかった。


 瑠都はベッドがある部屋の、もう一つ手前の部屋の赤いソファーに座っていた。目の前のテーブルにはいい香りを漂わせる、紅茶であろう飲み物が置かれている。


 制服のままでじっとその紅茶の入ったカップを見つめる瑠都だったが、響いたノックに反応して、今度はか細い声で、はい、と小さく答えた。


 扉を開いたのはミローネだった。ミローネは扉を開いたまま瑠都に一礼したあと、頭を上げて口を開いた。


「魔法研究所総長、ルーガ様をお連れしました」


 そう言って一歩横にずれると、扉の向こうから、白髪の年配の男が現れた。皺が寄った目元は優しそうに下がっていて、穏やかな微笑を携えていた。白いローブを着たその男、ルーガも、先程のミローネのように一度礼をすると、静かに歩を進めた。


 テーブルを挟んで、瑠都の目の前のソファーに腰掛ける。


「はじめまして、ルト様。私は魔法研究所総長、ルーガと申します。……まずは貴いリメル様の訪れに、感謝と祝福を申し上げます」


 魔法を研究する施設がある、ということよりも、ルーガの述べた感謝と祝福という言葉に意識が向く。


「あの……」


「いやあ、申し訳ない。私はずっと、あなたという存在を待ち望んでいた者ですからね。どうしてもまず始めに、あなたの訪れに対する言葉をお伝えしたかったのです。驚かれたでしょう」


 目を細めて笑うルーガは、瑠都を優しい眼差しで見つめる。ルーガにも紅茶を差し出してから、瑠都が座るソファーの後ろに控えたミローネと同様、瑠都が怯えないように配慮しているのが分かった。


「ここは、どこなんですか。私……ジーベルグなんて国は知らなくて、日本から来たんです。すぐにでも、帰りたいのですが」


 聞いたことのない大陸、国名。それなのに言葉が通じるということ。沸き立つ疑問を払うかのように、瑠都は帰り方を尋ねた。


「そうですね。まずは、そのことから説明いたしましょう。この世界には、あなたがいらした、ニホンという国は存在しません。ニホンがあるのは、こことは別の世界。あなたは、世界を渡って来られたのです」


「世界を渡る……? 異世界、ということですか。そんなものが存在してるんですか、本当に……」


「ええ。いらした世界では異世界という存在が認識されていなかったようですが、この世界では当たり前のようにその存在が認められているものなのです。ただ、世界と世界は容易に渡れるものではありません。ルト様、あなたは特別な訳あって、この世界に渡られたのでございます」


 顔色を青くしながらも、まっすぐにルーガを見つめる瑠都に、言葉を選びながらも続ける。


「この世界に渡ってくる存在はただ一人。リメルと呼ばれる、高貴な存在だけです。この世界の者ならば誰でも持つ魔力を持たない代わりに、リメルテーゼという特別な魔力を持つ者、それがリメルです。リメルからリメルテーゼを分け与えられた者は、元からある魔力の質が上がり、幸福や成功、安泰が約束されます。そして自然や魔法からなど、様々なものからの祝福がもたらされるのです」


 そこでルーガは口を閉ざした。この先を言葉にせずとも、もう瑠都には分かっていると判断したのだ。

 この世界を訪れる存在がリメルしかいないこと。そして、先程ルーガが、瑠都を「リメル様」と呼んだこと。自分がどういう存在なのか、瑠都にはもう分かっているだろう。


「私が……リメル?」


 小さな言葉が、静寂の中にこぼれる。



 ルーガは自分の前に置かれたカップに一度視線を落としてから、少しの憂いを織り交ぜた優しげな瞳に、そっと目の前の少女を映した。


 特別な魔力、リメルテーゼを持つという、特別な存在、リメル。そう呼ばれる人物に、ルーガは初めて出会った。


 リメルが二人同時にこの世界に存在することはない。以前のリメルがいたのは、今から二百年も前のことだ。ルーガも文献や言い伝えでしか触れたことのない、高貴な存在。


 リメルがこの世界に訪れるということは、「隠れている」魔法が発見されやすくなるということだ。それは、魔法研究所総長として長年待ち続けてきたこと。


 しかし、どうだろう。

 こうして本当にリメルを前にして沸き立つ感情は、喜びよりも哀れみのほうが勝っているような気がした。


(――少女、ではないか)


 突然異世界へ渡り、リメルという特別な存在だと知らされて。驚きと不安に揺れる瞳をまっすぐこちらに向けているのは、まだ、少女ではないか。


「……帰れるんですか」


 そして、そんなルーガの半分も生きていない幼気な少女に、もう一つ、告げなければいけないこと。


「……いいえ、リメルがこの世界に訪れて、元の世界に帰ることは二度とないと、言われています」


 思い出も、繋がりも、己が生きてきたという欠片も、すべてを置いてきた懐かしい世界には、二度と、戻れない。


(神よ。どうか、この哀れな貴き娘に、幸福を与えたまえ)


 ルーガは心の中で、そう願うしかなかった。


 ただ魔法のためだけにリメルの訪れを待ち望んでいた、過去の自分を恥じる。しかし哀れみを感じながら、同時に喜びを抱いてしまっている今の自分も、確かに存在している。


 なんて、自分勝手なことだろう。そう理解しているから、願うことしかできなかったのだ。目の前の少女、瑠都はそれっきり、何も言葉を発しようとはしなかった。



 客間には、しばらく沈黙が漂った。


 見守るように様子を伺うルーガとミローネも、その沈黙を無理に破ろうとはしなかった。音も立てずに紅茶を飲むルーガと、声をかけようか思案するように唇を開くが、結局は閉ざして眉を下げるミローネ。


 その長い沈黙を破ったのは、意外にも瑠都だった。


「すみません……あの、混乱していて、私」


「ルト様」


 思わず名を呼んだのはミローネだった。重い空気が動き出したように、深く息をする。


「いえ、あなたが謝る必要はないのですよ、ルト様。混乱して、仕方がないことです。こちらこそ、知らせるのは早いほうがいいと考え、訪れたばかりのあなたにあのようなことを……」


 そう言ったルーガに、瑠都は首を横に振って答えた。


「それに、胸に花が咲いたことも驚いたでしょう」


「あ、」


 忘れていたのか、瑠都は小さく声を漏らして胸元を押さえた。


「そうだ……。これも、リメルとかに関係あるんですか」


「はい。それこそ、リメルの証なのです。リメルはこの世界に訪れたその瞬間、胸に花が咲くのです。そして、リメルに花が咲くと同時、この世界のある者たちの胸にも、花が咲くと言われています」


「ある者?」


「……これを申しますと、ルト様をまた驚かせてしまうのですが。その者たちは、リメルフィリゼアと呼ばれる、リメルの夫たちです」


「夫……? え、夫たち?」


 再び青ざめた瑠都に、ルーガは、ああやはり、とひっそり思った。


「リメルがこの世界に訪れる一番の理由は、この世界に天が決めた伴侶がいるからだと言われています。しかし誰がその伴侶に当たるのか、見ただけでは分からない。なので、それを見分けるために、リメルの伴侶、夫になる者の胸にも花が咲くのです。そして、それは一人ではありません。なので、一夫一妻のこの国でも、特別にリメルだけは一妻多夫が許されています」


「つまり……リメルである私も、何人か夫を持つという、ことですか」


「はい。こればかりは……天が決めたことですので」


 再び口を閉ざした瑠都に、ルーガは気遣うように続ける。


「しかし、安心してください。リメルフィリゼアは、必ずあなたを想います。それが恋慕であるかは別の話ですが……。親愛であれなんであれ、あなたを大切に想うことに変わりはありません。リメルを想う心がない者を、天が選ぶはずがないのですから。また、それはリメルも同じこと。ルト様、あなたも、リメルフィリゼアに想いを抱くことでしょう。恋慕であるか親愛であるか、どちらにしても、かけがえのない存在となる。必ずあなたを支え、あなたを守る、大切な伴侶となるでしょう」


 瑠都と同じように胸に手を当てたルーガが、優しく微笑む。その柔らかさに少しの安堵を覚えて、瑠都は胸に添えた手をぎゅっと握り締めた。


「お互いに必ず想いを抱く。だから証である花は、胸に咲くのだと言われています。想いの始まりはいつも、熱いでしょう。愛しさも憎しみも、悲しみも、抱く瞬間は刹那、焼き付くように熱い。そして、誰かを想うその熱は、いつも心に宿る。だから花は、心を示す場所、胸に咲くのです」


 つまり、この胸に咲いた花も、誰かへの想いだということだ。まだ見ぬ誰かへの想いが、熱く心に焼き付き、胸に花開いた。


「じゃあ、その夫になる人はもう、分かっているんですか」


 瑠都は胸から手を離して、ルーガに尋ねた。


「いいえ。それが今回、胸に花が咲いたと申し出る者がまだいないのです。リメルがこの世界に訪れると同時に、咲くはずなのですが……」


「そう、ですか」


 少しだけ安心したように、瑠都は息をついた。いくら必ず想い合うと言われても、いきなり夫となる存在が現れれば、それはそれで困ってしまう。


 まともに恋すらしたことがないのに、天に定められた夫がいるだなんて。ただでさえ混乱している今の瑠都の頭では、到底受け入れられるものではなかった。


「ですので、ルト様のことは、リメルフィリゼアが現れるまでは公表しないことになりました。いらぬ心配と憶測を呼ばぬためです」


「はい……」


「しかし自由を奪うわけではありません。城から出て城下を散策するもよし、この世界には珍しいものもあるでしょうから、ミローネらと買い物に出かけるもよし、でございますよ」


 にっこりと微笑んだルーガに、少しぎこちなくはあったが、瑠都も笑みを見せる。


「ただ、公表しないということは、大々的に城の者が警備することもできません。そういう困った事情もあるのですが……」


「あの、私、大丈夫です。出かけるのとか、やめておきます」


「ああ、いえいえ、そういうわけではないのですよ」


 遠慮するように外出はしないと言った瑠都に、ルーガはすぐに否定を返す。


「そういった事情を考えて、護衛を買って出た者がいるのです。あなたが訪れた時にも、その場にいた者なのですが。実力もあり、信用できる者ですので、ご安心ください。……まあ少々目立ちすぎるという難点があるのですが」


 最後は自分だけに囁くように、ルーガは小さく漏らした。それに瑠都が首を傾げると同時、扉を叩く音がした。


「噂をすれば、というやつですな。その者をここに呼んでおいたのです。通しても、よろしいですか」


「はい」


 瑠都の答えに、ルーガはミローネに目配せした。それに頷いたミローネが、扉に向かう。


 開かれた扉から、二人の男が入室してきた。

 前を歩くのは、絵画から出てきたような、完成された美しさを持った男。金色の髪が眩い光を放っている。


 後ろにいるのは、人の良さそうな笑顔を携えた男。茶色い髪をしたその男は、部屋の中の瑠都を見つけて、少しだけその笑みに躊躇いを含ませた。


 その二人の男たちと一緒に、開かれた扉から、微かな一陣の風が部屋に吹き込んだ。その風に頬を撫でられて、瑠都は静かに立ち上がった。


 なぜ体が動いたのか、理解するよりも早く、突然、胸に熱が宿った。


「っ、」


「な、んだ……胸が、熱い」


 瑠都の吐息と、茶色い髪をした男の声が重なる。


 とっさに胸を押さえた瑠都の目に映るのは、二人の男。その男たちも瑠都と同じようにして、胸を押さえていた。苦しげに寄せられた眉、熱さに耐えるように喉が鳴る。


 瑠都と、金色の男の視線が絡まり合う。そして次はその斜め後ろに立つ、困惑に満ちた顔をした男の視線と。


 金色の男が、はっと我に返り、軍服のような服の前を少しだけはだけさせた。


 覗いた胸元には、桃色の花が一片咲いていた。瑠都の胸に咲いた花の、その花びらを一つだけ切り取ったかのような、鮮やかな花の欠片。



(――ああ、咲いてしまった)


 そう理解して、瑠都は瞳を潤ませた。溢れたものをこぼすまいと耐えたその仕草に、気付いた者がいただろうか。



 そうだ、想いの始まりはいつだって熱いのだ。焼き付けるように、心を熱く焦がしていく。心に宿ったその想いは、胸の上に鮮やかな、消せない花を、咲かせるのだ。

 

 

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