第5話 緑色の声
道すがら奇妙な噂を耳にしたのが精霊による悪戯か運命か、またはただの偶然か、そこを計るにはやや情報と時間が足りなかった。自然と私の足はその噂の元へと向かうこととなり、馬車が通れる程度に舗装された道を歩いていると、途中で喉の渇きを覚えて近場の川へと降りる。生水をそのまま飲むのは『当たり外れ』を引くものだが、今日は少々暑い。熱中症で倒れるよりかはマシだと判断して荷物を横に置いて山に冷やされた水を何回か口に含んでは喉を潤した。
その際水の跳ねる音――音の大きさから人間ぐらいの生き物が飛び込んだ音がしたので、すかさず身構える。肉食獣は当然だが草食獣もまた人間にとっては脅威の一つだ。とはいえ危機感はさほど覚えてないのも事実で、そうであればとうに私の耳は精霊の警告を受け取っていたことだろう。ということは何者かの川遊びか、近くの村の子供が遊びにきたのか。
未だ水しぶきがあがる処へと目を向けると、そこには水に飛び込んだのはいいがそのまま棒立ちになって川の緩やかな流れを腰で受け止め流れを分けている少年がいた。黒目黒髪、浅黒い肌は多分日焼けだろう。まだ年端も行かない少年が一体何を途方に暮れているのだとこっそり気にしてみたもののそれ以上のことは不要な干渉であると割り切り、十分に喉を潤した私はその場を離れて一人旅へ戻ろうとしたところだった。
悲鳴のような声で誰かの名前を呼ぶ女性の声が木霊して、ついでとばかりに少年が振り返る。濡れるのも厭わず女性が一人川の中へと飛び込んで少年を抱き締める。一体何が起きているのかと不思議に思いながら思わず見ていると、私の目がうっかり『それ』を捉えてしまっていた。舌打ちしながら駆けだして、川に足を取られて水の中へと転がる二人の手を掴んで強引に引っ張り上げる。女性は女性で少年を溺れさせないように抱えながら何とか足で踏ん張り、それを手伝うように力を込めて、なんとか水のない陸へ二人を引きずり上げてから息切れしつつ河原へ腰を降ろす。
「あ、ありがとうございます」
「ああ、そのままだと溺れていたでしょ?」
私は精霊を見て、そしてその声を通じて、あのままではそこで水を飲んでえづいている少年が溺れることを察知したんだが、その少年は一度こちらに振り返ったかと思えばまた川に飛び込んでいく。いやいや、元気がいいにも程があるだろう。
「こら、危ないでしょ!」
恐らくは母親らしき女性が注意をうるために声を張り上げるが、そんなもの関係なしにと少年は溺れた体験も何のその、元気に川で遊び始める。まぁ深くはない川ではあるが、人間というのはどうやら膝ぐらいの高さまで水嵩があれば溺れてしまう生き物らしいので、たった今起こったことを考えると放置というわけにもいかないだろう。
少年がこちらを見つめて手招きをしている。一緒に川の中で遊ぼう、ということだろうか。
「やめとくよ。ごく最近湖で溺れかけたばかりでね、今はそんな気が起きないんだ」
シュン、とあからさまに残念だという風に落ち込むが、またうっかり溺れてしまったりしたら今度はシャワーすら浴びるのが怖くなりそうだ。水恐怖症だけにはなりたくないものである。
「あ、あの、何かお礼を」
女性がそういうので、私は手で制止した。
「いいですよ。旅では互いに助け合うのが普通なので、別にこのぐらい大したことじゃない。それよりもあの少年は?」
「え、ああ、私の子供なんです。村で遊ぶよりこういうところで遊ぶほうが好きみたいで、暑い日はよくこの川に来てはこうして遊んでいて……でも、さっきみたいなのが起きると、怖いから」
「滅多に溺れるわけじゃないけれど、事故というのはどこにでもありますからね。ま、それは川に限ったことじゃない。本当にどこにでもあるものです」
旅をしていればそれこそ何気ないことが大事故に繋がる、なんて場面に出会すことがある。何がどう危険で、命を脅かしにくるのかなど、それこそ時間の概念がない精霊の声でも聞かない限り誰も予想し得ないものだ。過去の経験から同じ過ちを踏まないよう対処こそ可能だが、それでも不測の事態というのを回避するのは実に困難だ。
「あの、やっぱりお礼をさせてください。お茶と菓子ぐらいなら出せますので。泊まる場所を決めてないのでしたら、是非今夜はウチで」
「それは有り難い申し出なんですが」
少しだけどうしたものかと考える。息子の命を救った恩人相手なら妥当なところだろうし、実際今日はどこに泊まろうか、下手すると今日も野宿かと考えていたところだった。
それに、と私は少年をちらりと見遣る。彼のことも気にならないわけではない。あの少年を目の当たりにしてからだろうか、私の中でどうしても拭えない違和感があるのだ。
「……わかりました。今夜一晩、お世話になります」
ぱぁと顔を明るくして女性は頭を下げた。
「私はインと申します。あの子はジュン、夫――あの子の父親は一年前に他界してまして、部屋なら余っていますから、今日一日旅の疲れを癒やしてください」
さらっと重いことを言われるも、そこに触れるのはよしておこう。
「ジュン、そろそろ帰りますよ!」
少年は不満そうな顔をするも、母親のインの言葉へ素直に従ったのだった。
村に着く。
もっぱら農業を生業としているのだろうか、あまり店らしき店がない。こういう村は観光客や旅人狙いで商売するところがちらほら見当たるのが常なのだが、どうやらそういう類の人間が寄っていくところでもない、ということだろう。思い返せば私もここへ寄る予定なんかなく、今夜は野宿をしようかと思っていたぐらいだ。つまり旅人が利用する地図には掲載されていない村ということなのだろうが、別段不思議なことではない。旅人といえば大体目的があって旅をするのだし、それはもっぱら主要都市間を移動する手段の一つでもあるのだから、そこに掠りもしない村など逐一載せていないことはよくあることだ。
ここもその一つであり、別に外から来た人間を嫌っている雰囲気もない。まったく旅人が寄らないというわけでもないのだろうが、それについてとにかく関心を抱く風でもなかった。私がいても普段と変わらない日常を送っている証拠である。
ただ一つ気掛かりがあるとするならば、村人の視線は私ではなく、二人の母子に集まっているよおうな気がした。何故だろうか、という疑問は伏せる。迂闊に関わるなんていうのは通りすがりに過ぎない一介の旅人がするようなことではないからだ。
彼女達の家は村から少し離れた場所にあった。
インに案内されて辿り着いた家の中へと入り、居間で椅子に座る。目の前のテーブルには花瓶に一輪の花が咲いており、少年は右隣の椅子にちょこんと座ってきた。
「なんだい?」
少年にとって旅人は珍しいのか、じぃっとこちらの瞳を覗いてくる。それから視線が動き、緑色の髪へと止まった。ああ、その色はきっと彼にとって珍しいだろう。瞳こそ緑色ではないが、髪の毛だけは隠しようがないし、結構長いのでより目立つ。
髪や瞳、または身体の一部が緑色の人間は未知を知る者と呼ばれ、普通の人間では認識すら出来ない精霊の姿を見たり声を聞いたりすることができる。精霊とは別世界の生き物、あるいは星の産物、時間を超越した者と言われ、彼らはとかく人間という生き物に関心を抱き噂話をよくしているのだ。時間を超越しているので、その噂話に耳を傾ければその人間の過去と未来が聞こえてくる。私はそれを利用して占い師なんてやっているわけだが、とはいえこの能力を知っている人間なんてごく一部であり、私は私の生前から備わった能力を使っているわけだから、決して詐欺師ではないことをここに一筆記しておこう。
しかしどうして精霊が人間に興味を抱くのか、その理由までははっきりしていない。彼らにとってただの娯楽なのか、あるいは人間というのは存外何かあるのか、彼らはしきりに人間を気にしてはちょっかいを出すこともあるので厄介だ。
だから私は少年の喉に目を遣る。
先ほどからどうしても気になっていることがあるのだ。
「粗茶ですが」
コトリと茶の入ったコップを差し出される。そういえば喉が渇いていたなと手を首元にやり、それからコップに手を伸ばす。
「いただきます」
先ほど川で水を飲んだとはいえ、まだまだ乾いていたようだ。お茶がとてもおいしい。
「ふぅ、生き返る……」
味のある飲み物は人間に許された贅沢だ。酒は飲まないけれど果実水やお茶は実に良いものだと、常日頃から食糧事情に悩まされる旅人らしい感想を密かに抱く。
「ふふ、こちらこそ。あ、ジュン、今日はもう遊びに行っちゃいけませんよ。お母さん、ついていけませんからね」
「あの子が遊びに行くときは常に一緒なんですか?」
「あ、ええ、実はあの子、喋れなくて……生まれつき声が出ないんです」
「生まれつき、ですか」
「はい。なので何か起こったとしても誰も助けを呼べないと思うと、母としては不安で――先ほどのこともありましたし」
確かに、川に足を取られて近くの人へ助けを求めようにも声が出せないのではどうしようもない。人間というのは声が一番身近で手軽で、そして確実なコミュニケーション手段である限り、声を出せないというのは何かと不便だろう。だから母親であるインが常に傍にいるのも分かる気がする。
「喋れない、というよりは声が出せない――いや、声を出すことを防がれている、というのが正解かもしれませんね」
少年の喉を凝視する。
「――お医者様が言うには、特に異常はないようです。声が出ない理由はもしかしたら精神的なものかもしれない、と。でも生まれた時から声を出せないのだから、やっぱり喉がおかしいんじゃないかって思うんです。母としてはこの子にはもっと普通に過ごして欲しいのですが」
「なるほど」
さて、ここでどうするか迷う。この子の喉をじっと見るのには理由があり、そして今の母親の会話でおおよその事情は察した。
「インさん、精霊というのはご存じですか」
「精霊? あの、それが何か?」
「いえね、実在しているんですよ。突然言い出しても訳分からないかもしれませんが、ここは信じる信じないよりも前に素直に話を聞いてくれると嬉しいんですけどね」
「それはもちろん。ジュンの命の恩人ですから」
「――ありがとうございます」
精霊なんて普通は関わらないものであり、目に見えないものを信じるなんてのはそうそう出来ることではない。この子を助けたことがプラスに働いているようで今回は助かった。
「精霊は実在します。ただ、目には見えません。けれど彼らは人間に興味を持ち、時に人間へ異常に執着することもある――しかも夥しい数が、です。彼らに決まった形は無く、現世の物理法則にも縛られないくせに人間へ干渉が可能だ」
「あの、それは一体」
「精霊は未来と過去を見て、それを囁く。喩えば――インさん、三日ぐらい前に髪飾りを無くしているそうですね。それ、台所の隙間に落ちていますよ」
「え?」
インさんは驚きながらもすぐに立ち上がって台所を探すと、すぐさまその手には決して派手では無いが彼女に似合いそうな髪飾りが一つ、見つかる。
「まさかこんな」
「精霊の声を聞いたんです。彼らは総てを見ているので、こういうことぐらいなら楽しげに噂をする。私はその声が聞こえるんですよ。ま、占い能力の一部です。こう見えて旅の占い師ですから」
「これ、あの人の――夫が結婚前にくれた大切なものだったんです。ありがとうございます!」
別段大したことをしているわけではないが、彼女にとってその価値は違う。彼女にとってそれはとても大切なものだったのだろう。
「いえ、数日もすれば見つかったものでしょうから、そんな感謝は要りませんよ。それよりも――」
そうだ、それよりも、だ。
「その精霊が、ジュン君の喉に張り付いている、としたらどうなるでしょうか」
「……!」
インさんは驚くが、ジュンは首をかしげるばかりだ。
「ジュン、君はいつも喋っているんじゃないか?」
私の問いに彼はこくりと頷いた。
「やっぱりね」
「精霊が喉に取り憑いてて……声が出ない? そんなことあるんですか?」
「事実としてそれが起こっていますよ。けど私はただの占い師で、精霊が起こした症状を治すのは難しい」
「……あの、それは医者に診せても駄目ということですよね」
「精霊に心当たりのある医者がいるなら別ですが、残念ながらそんな医者は出会ったことがありませんね」
まぁ、むしろ私が健康体過ぎて医者に罹ることなど滅多にないのだが、精霊をなんとかしてくれる医者がいるなら私が今すぐ出会いたいぐらいだ。
「それだと、一生この子の声は……」
「……」
悩むのはここからである。私は確かに医者ではないが、対処しろといわれて出来ないわけではない。むしろ精霊に対する自衛手段を用いていなければ生活ができないのだから、当然その応用は他者にも効果的だろう。以前にも針を目に刺して対処する、という荒技をしたばかりなのだから。
だが今回は――喉に精霊が集まっている。そう、意識しなければ確かに見えないのだが、空中に浮かぶ光の粒が彼の首元に集まっているのが見えるのだ。何故首になのか、そこに精霊達の興味を示すものがあるのか、原因ははっきりとしないものの彼の声はそれらが邪魔しているのは間違いがない。
つまり精霊を追い払えばそれだけで済む。
「一つ、手はあります」
私は鞄の中から一本の黒い針を取り出した。
「それは?」
「ある職人が作った精霊に触れることを可能とした針です。たまたまそういう物質があって、それを針の形にしているのですが、これを使って精霊を喉から引きはがす……のは違うか、追い払う、というほうが正解かもしれません。それをやってみましょう」
「可能なのでしょうか……?」
「さて、この物質は精霊も嫌いますから、ひとまず彼の喉にくっつけてみましょうか」
ただ針なので扱いに気をつけなければならないのが辛いところだが、どうにかなるだろう。
「ジュン君、声が出るようになりたいかい?」
彼に意思を確認してみる。というのも、今までは母親と話していただけで彼の意思を確認していなかったからだ。すると少年は困ったような顔をしてから、指先を虚空に伸ばす。
「……」
虚空の、指先には光の玉がぷかぷかと浮かんでいる。――視えている。
「もし声を出せるようになるなら、きっとそのほうがいい。人間は人間と暮らすのが一番なのだから」
精霊に唆されるのがきっと一番困ることなんだ。
だから彼には喋るようになってもらいたいが、それを決めるのは私ではない。それに本当に精霊を追い払えるかどうかはやってみないと分からない。
「……」
少年は私の髪をじっと観てから、小さく首を縦に振ってみせた。小さく嘆息し、針を横にしながら彼の首にぴったりとくっつける。瞬間、光の玉達がパッと空中に散った。
喉に集まっていた理由は分からないが、喉の動きを邪魔していただろう原因である精霊は散った。これで声が出るようになればまだいいんだが、少しだけ緊張しながらもジュンの様子を見守っていると、彼は小さく口を開ける。
「あっ……」
声が聞こえた。
母親であるインが思わず自分の口元を手で覆う。その両目にはうっすらと涙が浮かび、今にも叫びださん程に感情を押し隠せず震えていた。
「あっ……あ、おか……ん……」
所々声が途切れてしまうのは、実際に音が出て戸惑っているか、または慣れていないか。どちらでも同じだろう。時間が解決することである。
「しばらく喉に針を巻き付ける処理をしましょう」
「ありがとうございます!」
「そういえば」
頭を下げ続ける彼女に、ふとしたことを尋ねてみる。
「ジュン君の身体の一部に、緑色の部分はありませんか? 私みたいに髪の毛でもいい、目でもいい、爪でもいい、皮膚のどこでもいい、そういった緑色に染まった部分を見たことは?」
「緑色……いいえ、見たことありません」
ゆっくりと首をふるインさんだが、確かに嘘は吐いていない様だった。
「声……えてる……ね」
「ええ、これからゆっくり声が出せるようになっていきましょう」
「たぶん声はすぐに出せるようになるでしょう。彼は元々喋っていたのだから、声が出せないこともないはず――」
――そうだ、何故声が聞こえない? 少年は今まで声が出せなかった? だけれども喋っていたと、『応えて』いた。
……その意味もないことすらこの歳なら十分に承知していたはずだ。それなのに何故返事をしていたのか。
「今日は一泊されるのですよね。いいえ、是非歓迎させてください! 一所懸命におもてなししますので!」
「え、ええ」
私は何かを見落としている、そんな気がしてならず、思わず少年の喉に巻き付かれた針に目を向けたのだった。
翌朝、家の外に出て空気を吸う。朝の新鮮な空気という表現も妙だが、部屋に籠もっていた空気から一変した時はなんだかんだと気持ちの切り替えになるので嫌いではない。それと旅人としての習性がすっかり身に付いているのか、こうして起きた時は周囲を確認してしまうのだが、ここはあくまで村の中だ、誰が、または何が襲ってこようというのだろう。
村の中はすでに働き者達がそれなりに動いているので、こちらも仕事は出来ないものかと思案する。彼らに占いを嗜むほどの余裕はあるだろうか、暇潰しや気分転換でそうしてくれると助かるのだが。
そんなことを考え心の中で呻っていると、ふと近寄ってきた男とその小さな子供らしき二人組が少し手を挙げてこちらに声を掛けてくる。
「あんた、旅人か?」
「あの化け物のいる家から出てきたよね」
「こら、やめんか」
小さな男の子がそういうのをすかさず父親が窘める。――化け物、か。
「それはもしやジュン君のことかな。なぁ坊主、人を化け物呼ばわりは良くないな。言葉は自分に返ってくるものだからね」
「うっ、だって……」
「それとも」
私は子供から父親のほうへ目を向ける。
「喋れない癖にまるで何でも見透かしたかのような態度を取る、そのことに畏怖でも覚えてます?」
「……ッ、そ、そういうわけじゃない。ただ……一つあんたに忠告しておきたかったんだ。あの子は少し、その、言い方は悪いが異常なんだ。だから」
「化け物、ですか。私にはただその辺にいる子供と一緒にしか見えません。ただ、確かにあの子には色々と教えてやる必要はあるかもしれないけど」
「喋れないのは仕方ない。そういうこともある。だが何も言わなくてもどうしてこちらのやりたいことや欲しいものが分かるんだと、村の中では少し畏れられていてな……俺だって可哀想だとは思うが、あの一家には近寄らないほうがいい。あんたのためだ。少なくともこの村にいる間は、な」
「父ちゃん! もう離れようぜ! こんなとこにいないでさ!」
と、子供は地面に落ちていた石を拾った。何をするのか一瞬前に知った私は同時にすかさず動き、彼が投げた石を右手でキャッチする。
「ったぁ~! 家に向かって石を投げただろ!」
「う、うわ! 取った! 何この人、あいつと同じなのか! 変な緑色の髪だし!」
「こら、馬鹿なことを言うな! も、申し訳ない、我々はここで……」
憎たらしいガキンチョだが、どうやらあの子供の態度こそ村の総意であるのだろう。周りの大人達がそういう態度だから感化されそう育ったのだ。だからといって許されるわけでもないが、すぐ旅へと戻りここを出て行く私が関与することでもない。
つまりだ。
ジュンはずっとこの視線を浴びせられただけではない、精霊を通じて村の総意というのを知ってしまっている。何しろ彼は――
「私と同じ、見える側の人間……か」
私みたいな人間は世の中にそうそういるものではないが、私自身が旅をしているからか、あるいは同じ種類の人間は引き合う運命にでもあるのか、特に最近は同種を見かける気がする。だが、彼は……。
「私のような特徴を持っていなかった筈だけど」
だからこそ母親に直接聞いたのだ。見える位置に緑色をした身体の部位は無かった。――見える範囲、見える位置には無かった、か。
「まさか」
もし緑色の――精霊と関わる証明となる部位が見えない位置にあるのだとしたらどうだろうか。
「だとしたら、あの子は」
ガラリ、と扉が開いた。喉に包帯を使って針を巻き付けた少年が静かな瞳でこちらをじっと見詰めてくる。
「私が何を考えたのか、もう分かっているんでしょ。なら君は何を考えてる? 君の喉は――」
その喉の奥が緑色で、精霊はそこに取り憑いていた、と考えるのが普通だ。少年は精霊にあれほど取り憑かれていたということは、その声を遮断する術を知らない。一方で精霊は何でも見通し何でも噂話として私達に語りかけてくる。ならば彼は自分のことを知らない筈が無いのだ。
「――じゃ、ない。喉、じゃ、ない」
「喉じゃない? だけれど実際に君は針に触れて喋れるようになった。なら」
「ありがとう、お姉さん。ほんとは僕、昨日川で遊んだら死のうと思ってた。だって、世界はこんなにも五月蠅いんだから、生きていても辛いだけだったんだもん」
思わず目を見開く。予想もしない言葉に私の言葉が瞬時に詰まり、思わず彼の次の言葉を待ってしまった。
「お姉さんも聞こえるんでしょ。あいつらの声。一箇所に留まっていたらどんどん集まって来るあいつらの声。だから旅をしてるんだよね。みんなの醜いことも、みんなの酷い思いも、僕を守りたいだけのお母さんのことも、とうにいないお父さんのことも、全部全部知ってるんだ。だけどお姉さんだけは違った。お姉さんだけはまるで精霊を弾いているみたいで、精霊の声を無視していた。だからとても嬉しいんだ」
「……そういう風にする術を知っているだけさ。君にも教えたいんだけど」
「無理なんでしょ。僕達みたいなのが二人も同じ箇所にいたら、連中はより集まって来る。それに連中は特に僕のことが好みみたいだから、これ以上喋るときっと大変なことになる」
「喋る? どういうこと?」
はっとして周囲を見回す。
気付けば私達の周りは光の球に囲まれていた。右も左も上も何もかも、信じられない数の精霊が私達を取り囲み、恐らくは興味津々に見下ろしているのだろう。
馬鹿なと言いかける。これだけの数の精霊を視たのは初めてのことだ。はっきりいって異常事態であり、いくら精霊の声を遮断して彼らから身を隠しているとはいっても、これでは隠しようがない。どう足掻いても、どこに目線をやっても彼らが視界に入る。ジュンの喉には精霊を追い払う効果のある黒い針を撒いているのに、どうして精霊がこれ程寄ってくるというのだ。
少年はにこりと笑って、村の方へと歩いて行く。それに着いていくように精霊達も移動していった。
――何をするつもりか、精霊の声を聴こうと思い、やはり辞めた。あれだけの精霊がこちらに興味を抱いてしまえば、とてもではないが私個人の力で追い払うことなど不可能だからだ。
だが、あの数を放置しておけばどうなるか分からないのも事実だ。精霊は時に大災害に近い自然現象を起こすこともある。この世の物理法則に縛られず、気紛れで何かをしでかすのが連中だ。そして『村から迫害されていた』ジュンがそれを知った上で村の中央へと向かっていく……。
「あらスズカさん、ジュンは見ませんでしたか」
水汲みをしていたのか、桶を持って戻ってきたインにジュンが村へ向かったと伝える。すると彼女は顔を真っ青にして桶を地面へ落とし、中に入っていた水が地面に広がってじっくりと大地に染みていく。
「なんで、そんな!」
恐らくインは我が子が迫害されていると知っていたからこそ過剰なまでに傍へいたのだろう。もちろん声が出ないという危険性をも考慮していたのだが、村の態度に気付いていない筈がない。精霊の声が聞こえるというのは、周りからすれば不気味な人間に受け止められる危険性がある。何しろ今目の前で喋っている人間の未来をすら精霊の声を通じて識ることが可能なのだから、これ以上不気味なことはないだろう。預言者や神の子といった歴史上に出てくる人間はほぼ私と同種ではないかと、かつて師匠が語っていたことを思い出す。
「追いかけます! あの子が村に行ったらきっと大変なことに!」
「……追いかけましょう」
何が出来るかは分からない。だけれども放置しておいたら何が起こるかも分からない。きっと私が取れる最善の手段は全てを放り出して逃げることだが、そんなことがあっさり出来るようなものなら人間と関わろうなんてしていない。
だから二人で村に向かって走って行った。
ジュンは村の中を歩いていた。
それに向かって幾人かの子供達が罵詈雑言を投げている。ジュンの瞳は明らかに褪めきっていて、きっと彼らに対して想う気持ちはほとんどないことが窺い知ることができた。そんな彼らは「出て行け」とばかりに石を手にとって。
「やめろ!」
叫んで前に出ようとしたところ、私よりも早くジュンをかばって抱きしめて、その頭に石をぶつけられたインが力なく頽れていく。
「インさん!」
彼女に駆け寄って頭を抱える。どろりと、朱色の重い液体が地面を伝う。やり過ぎたとばかりに周囲の子供達は騒然として、ジュンはそんな母親を前に目を見開いて震えていた。
「――あ、ごめん、お母ちゃん。こうなることは『識っていた』のに」
「……ジュン」
ならば止めることが出来たはずだと非難するよりも早く、ジュンは声を張り上げた。
「だけど! お前等がいなければ! お母ちゃんはこんなに苦労しなくて済んだんだ! お父ちゃんもお前等の無茶振りで死んだんだ! だから今度はお前等だ! お前等が僕の味わった苦しみを味わえ! 精霊が僕の『声』を喰って集まって来るぞ! お前等が! お前等の済むこの村ごと! 精霊に呑まれて消えてしまえ!」
――そういうことか。
納得したと同時、集まっていた精霊が上下左右へと忙しく激しく動き出し、まるで少年の声の一粒一粒を逃がすまいとするように声を吸収する。精霊は物理法則を無視しているとはいえ、現世に関与することが可能であり、そんな彼らが一つの地で此程集まり縦横無尽に動き回ってしまえば――それは一つの天変地異を生み出す危険性もあった。
「やめるんだ、ジュン! これ以上声を出しちゃいけない! インさんは、お母さんはまだ死んでない! だから!」
「でも未来では殺されるんだ! 今みたいにいつか石が当たって、それで死ぬ! お姉ちゃんも声を聴いてみたらいい、それが確定した未来だったんだって! お姉ちゃんがここへ立ち寄ったのも決定した未来だったんだから!」
少年は私があの川に来るのを知っていた。それは精霊が教えたことだったのだろう。つまり精霊が教えたことは確実になると、あの時点で察してしまっていたのだ。精霊はインさんが将来村の人間に殺されることを教えたことから、きっともうその事実は変えられないと確信して、その前に村を滅ぼすつもりでいる。
「な、なんだよお前、ジュン、何してんだよ!」
精霊が見えていない者からすればただジュンが叫んでいるだけに思えたことだろう。だがこれからだ。私は僅かに耳を澄まして精霊の声を聴く。
――もう迷う時間はとうに過ぎていた。
「ジュン、もう私はこれ以上関わらない」
精霊の声が確定したものだというのは、私も同じ意見だ。彼らは先の未来を視ているのだから当たり前である。
「だけど、私自身の身は守らせてもらう」
「遅いよ」
少年は金切り声のような耳を劈く声を上げて、精霊をより刺激する。私は急ぎ彼の首から針を引き抜いて、彼の喉に精霊が入り込んで直接声を『食べ始めた』のを確認したが、やはりもう手遅れだった。
その声に触発された精霊はまず地面を揺らし、村中に竜巻を発生させる。村から幾つもの悲鳴が聞こえては幾人かが巻き込まれ、地震からやがて地割れが発生し、家屋が沈んでいく。局所的に起こる災害としては本来あり得ない現象だが、現実に今ここで起こっていることだ。
「くそっ!」
助けようにも、ここまできたらどうしようもない。この責任の一端は恐らくジュンを治療しようとした私にもあるが、どうしろというのだろうか。
その場から動こうとしないジュンとインを抱えて、私はとにかくこの場から離れることにしたのだった。
最初に出会った川のところまで逃げるように走ってきたところで、少年の喉にもう一度針を押しつける。
「何をしたか、理解しているね?」
「……うん、お姉さんのおかげであいつらを倒せたんだ」
「それだけかい?」
「それ以上ないよ」
「……。お母さんは生きている。最低限の治療だけはしておこう。私はもうここを離れる。君が今度どう生きるかどうか、もう私がどうこうする範疇を超えている。君はしてはいけないことをしたんだ。人間は精霊を利用してはならない。精霊を動かしてはならない。出来ることはそっと耳を傾けることと、せいぜい精霊から身を守るぐらいだ。それ以上はこの世界の法則を破壊する」
「でも、僕はずっとこれを望んでいたんだ。ずっと、ずーっと、あいつらから受けた仕打ちはそれだけのものだったから」
「そうだね。否定しない。だが村を一つ滅ぼしたことだけは絶対に忘れてはならない」
彼の気持ちが理解できないわけではない。むしろ深く理解できてしまう側だが、これだけのことをしでかしてしまうのを看過するのは難しい。
だから私は彼らを『放置する』ことにした。
「もう二度と会わない事を祈っている。代わりに、その針は返してもらう」
彼から針を離す。これでもう彼は声を出せない。だって少年の声は緑色なのだから、そんな珍しいものを精霊が放置しておくはずがない。
彼の声は今後一生精霊によって食べられていくことだろう。
それは他者と意思疎通を図る重要な手段を奪い取るに等しいが、きっとこれでいいと自分自身を納得させるしかなかった。
「君はまだ人というものをよく知らないんだ。きっとこの先、大人になった時、自分のしでかしたことを後悔する日が来るだろう」
まるでそれは自分に言い聞かせているようでもあった。
「そんなの、分からない……でもあいつらはああするしかなかった。あいつらに人の心なんてなかったんだから」
「それもまた、大人になる時に理解することを祈っているよ」
そう言い残し、私はその場を後にする。
川辺で寝ている母親を前に膝を曲げた少年は今にも泣きそうな顔で母を見下ろしている。その姿だけを一瞥した後、私は置いてきた鞄を拾い、背負って、次の旅へと戻ることにしたのだった。
未知往く先のスズカ 平乃ひら @hiranohira
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