第3話 深淵の緑

 その道は途中までが人の足のみで固められただけの、獣道に等しい山道だったが、途中からは石が敷かれて草の生える余地を無くし、馬車はともかく人が歩くにはひとまず安定したものへと変化する。私はそんなところを歩きながらまだ見えないかとちょっとだけ背伸びをして先を覗き込もうとするが、残念、まだ人工物らしきものはこの道以外ありそうになかった。

 それならそれで構わないのだが、以前来たときもこれ程に歩いただろうか。そもそも最後に来たときは私一人ではなかったのでずいぶん前のことでもあるのだが、それでも記憶と道の長さが違う気がするのは何故だろう。――と思ったところで、それは隣に人がいたからだと気付いてから苦笑する。なんとも馬鹿らしい結論ではないか。一人旅を選んだのはあくまでも私の選択だというのに。

 そしてこれからもずっと一人旅を続けていくのだろう。そう、私が望んだ地を見つけるまでは、という条件付きで。

 そんなこんなでもう少々無言のまま歩いていると、やがて一軒の家と覚しき屋根が視界の隅に入ってくる。ほっとして足を進めていき、その家の外観と自分の記憶を照らし合わせてみる。煙突が屋根を貫き聳えているものの、二階建ての平凡な家だ。問題は周りに誰もいない、誰も住んでいないという家の主は相当な変わり種だと予想されることだが、それでも何も知らずにここまで迷い込んだ者がいたらまるで天国にも等しく見えるだろう。まぁ、そのぐらいここは人里から離れているということになる。

 で、私はこの家の主に用があった。

 そもそも用が無ければ来ないのだが。

 家の前まで着いてから少しだけ耳を澄ますと、聞こえてくる『声』の数が少なめで気持ちが幾分が楽になる。ここは比較的静かで過ごしやすく、私みたいな人間にはとても落ち着く土地だ。

 家の脇には割られた薪が積み重なっていて、さらにその奥では足の太い馬が繋がれていた。馬の視線はこちらにまったく向いておらず外客に対して完全な無関心を貫き通しているのはもはや立派としか言えないだろう。野生の肉食動物等に比べたら人間なんて恐るるに足らないことを理解しているのかもしれないが、もう少しぐらいこちらに何かしらのリアクションをくれてもいいのではないだろうか。

 トントン、と扉を叩く。

 気配は無くて物音もない。

「ありゃ、誰もいなかったか。あの爺さん留守なのかなぁ」

 ということはしばしここで待つしかないか。幸いにして家を放ってどこかにいったような痕跡は無く、今でもここに人が住んでいるのは間違いない。ならば座って待つのが一番か、と思っていたところだった。

「玄関に居座られても困るわい」

「ひゃっ!」

 思わず高い声を挙げて両肩をビクンとさせる。

「お前、スズカか。立派に成長したもんだな。ん、あいつはどうした。一緒ではないのか」

 立派な顎髭を蓄えた背の低い男性の、無愛想な印象を与える瞳で私とその周辺を見回す。一見してドワーフ族に思えるが、彼は純粋なドワーフ族ではなく、確かドワーフと人間の混血児だという話だ。おかげで人間の寿命より随分と長く生きており、今年で確か齢二百を超えていたはずだが。さすがに二百も超えていればドワーフといえど高齢と呼んで差し支えなく、彼の深い皺は人生経験をそのまま物語っている。実際、その知識は広く、そして思慮深く、私の今の考え方に強く影響を与えた人物の一人だ。師匠は師匠なら、この人は先生と呼ぶべきかもしれない。

「お久しぶりです、ゲン爺。今は師匠の元を離れて一人旅をしていますから、いませんよ」

 挨拶だけは敬語で済ますのは、一応私なりの礼儀のつもりだった。

「お前が一人旅? お前みたいな小娘が? なに、もうそんな年齢か。驚きだな。こいつと年齢差なんかほとんどないだろうに」

 と、彼の後ろに隠れている少女に目を向ける。

 いや、隠れているわけではなくてゲン爺に遠慮して一歩後ろに控えているのだ。一見しても物静かな少女で、まるで見られたくないかのように目を閉じている。髪の色は黒くて肩で切り揃えている。私みたいに伸ばしっぱなしに近くはない。

 いや、一応切ってるよ。さすがに腰に届かない程度には切っているんだよ、これでもね。

「で、今日の用事はなんだ? 久々にやってきて思い出話ってこたぁないだろ。そんなに時も経ってないからな」

「いやゲン爺、結構経ってるからね。ゲン爺の尺度で時間を計らないで。私からしたらここへ来たのは結構前のことだからね」

「なんだ、そんなに前か。人間の時間の感覚はいまいち掴めんから困るな」

 というが、そもそもゲン爺が後ろに控えさせている少女だって私からしたら随分と下の年齢だろう。齢にして十から十二といったところだろうか。――先日の事件を思い出すが、それは敢えて口に出すことでもない。というかそれなりに身長差もあるのだから同年齢という判断はおかしいと思うのだが、どうだろうか。

「彼女、両目を閉じてるけど大丈夫なの? そのまま歩いてきたということ?」

「お前さんが来たから閉じてるだけだ。なに、同類だって分かれば開いてくれるだろうよ。おいリン、安心しろ。こいつも『未知を知る者フェアリアーナ』だ」

「え?」

 少女は小さな声を出してから両目を開く。そして周辺にザワリとした気配を覚えた。それは精霊達のざわめきに他ならない。

 ――深緑の瞳がこちらを覗き込み、私は一瞬だけ息を止めた。少し前に出会った少女の影を思い出してしまったからに他ならないが、すぐさま彼女は別人だと心の中で三回ほど唱えて滲む汗を隠すように平静を装う。

 リンという少女はすぐに目を閉じた。まるでそれが普段通りだといいたいかのようだ。

 家の中に案内される。中の様子も以前の記憶から者の配置が僅かに変化しているだけで、生活するのに必要最低限なものが置かれているだけのシンプルさを追求したスタイルは変わっていない。ゲン爺、あんまり趣味が無いからなぁ……という心の声はあくまで心の中だけで留めておこう。

 居間の方まで案内してくれたのはリンと呼ばれたあの少女だ。彼女を先頭に、ゲン爺と私が並んで歩く。とはいえあまり広くない家であり、廊下もないような家だ。玄関を抜ければ彼の仕事場に直結し、その仕事場の奥にある扉を開けば居間があり、そこに上へ繋がる階段があるだけだ。

 リンは目を閉じたまま居間の椅子を私に差し出してくる。

「なるほどね。声さえ聞ければある程度は問題ないか」

「そうじゃなくとも、ここに住んでいれば目なんぞに頼らなくともある程度は歩ける。お前らはすぐ目と耳に頼りよる。特にお前はな。ちゃんと言いつけは守っているのか?」

「守ってるって、安心してほしい。むやみやたらと精霊の声は聞いてないし、何より私自身好んで聞いているわけじゃない」

 椅子に座りながら苦笑をする。こういう小言は本当に前と変わらない。

「で、用事とやらはなんだ?」

「ああ、針が少し曲がったんだ。それと念のためさらに数本欲しい」

 私は鞄から黒い針を数本取り出してテーブルの上に置く。

「こりゃ、柱か何かに突き刺したか? お前、精霊相手にケンカ売っとりゃせんだろうな」

「そんな恐ろしいこと出来るわけない」

 目に見える黒い影を縫い付ける為に使用した、なんて言おうものなら小言どころではなく怒鳴り声が響いてきそうだったので黙っておく。

「あくまでも護身用にしか使ってないよ。そもそも針なんて縫い付けるぐらいしか役に立たないからね」

「暗器にはちょうどいいんだがなぁ」

「暗殺者家業をするつもりはないんだけど……」

「まぁいい、とりあえずそいつのメンテと新しいのを何本か作ってあるからそいつを渡してやる。しかしまだそれがヘタれている様子じゃねぇんだがな」

「まぁ、その」

 後ろ頭を掻きながら、ぼやくように言う。

「最近立て続けに精霊に関わる事件と遭ってね。二度あることは――」

「なるほど、何度でもあらぁな」

「何度は勘弁願いたいけどなぁ」

「というが、こういうのは縁だ。ロクでもねぇことだろうが奴らの縁は根深い。短期間でソレ絡みの事件が起こったってんなら、これからしばらくは関わっていくことになるだろうな」

「本当に勘弁して……」

「諦めろ」

 あっさりと言ってのける爺さんに思わず肩をすくめてしまうが、実際問題そうしょっちゅう関わっていたら体力なんて尽き果ててしまう。しかしゲン爺の言うことは尤もで、なぜか一度精霊と深く関わると立て続けに奴ら絡みの事件に巻き込まれる――というか、恐らくは目を付けられてしまうのだろう。精霊の総数からいえばほんの少しだが、それでも人間とは全く存在が違う、時には神とすら敬われ恐れられる自然の現象なのだから、連中からすればただこちらを注目するという何気ない行為だとしてもとても一人の人間が抱えるには限界のある状況に陥る可能性が待っている。

「で、既に私は今日もソレに陥っているわけだ」

 私の視線はリンへと向けられている。

「その子はな」

 針の尾を指先でつまんでじっくりと観察しながら、ゲン爺は言葉を続ける。

「精霊の声がなけりゃ日常生活すら送れない」

 それはそうだろう、と予想していたことではあるが、いざそう聞かされるとなるとやはり衝撃的だった。先ほどの説明通り、精霊というのはあまり関わって良い連中ではない。私みたいに偶に声を聞いたりする程度ならまだしも日常生活を送る上で必要となるとさすがに関わりすぎている。

 幸いここはあまり精霊の声がする場所では無いのが幸いし、リン自身に直接的な被害が出ているではなさそうだが――

「時間の問題かもね」

「そうだ、その通りだ。正直どうにかしてやりてぇが、俺にゃ奴らの声は聞こえない。見えもしない。せいぜい出来るのは奴らと波長を合わせて干渉できるコイツを仕立てるだけだ。それも俺自身が使えるわけじゃない」

 黒く細い針を見つめながらゲン爺は独り言かのようにぼやく。

「その子がここに来たのは偶然じゃないね」

「俺が連れてきた。ここなら連中はあまりいないからな」

「そうだね。彼らは基本的に人のいるところに居たがる。ここは人郷から離れすぎてるし、実際声はあまり聞こえない。私にとっても良いところだよ。ただ、長居はできないけどね」

「人が三人も寄れば連中がやってくる、か」

「だけど人ってのはさ、結局人の住んでいる場所から離れて一人で暮らせるようにもできちゃいないって、旅をしていてつくづくそう思ったよ」

 コトリ、とテーブルの上にコップが置かれて、中に入った液体へ目を落とした。

「ありがとう。リン、だったね」

 名前を呼ぶと少女はこくりと頷く。

「とりあえず針はいつ頃直る?」

「三日……いや、二日でいいな。そのぐらい時間をくれ。その間リンの面倒を頼む。いや、リンが面倒を見るほうか? この辺の土地なら見えずともその子のほうが慣れている」

「ま、私はこういう時じゃないと寄らないしね」

「ああ、薄情者め」

「……もうちょっと来やすい場所に引っ越してきたら顔を見せに来るよ」

 さすがにそういつも足を運ぶには、ここは山の中過ぎるというものだ。私の最終的な目標の地としては限りなく近いところで良いのだが、さすがに暮らすとなると結構な労力が必要となる。個人のみの自足自給は並大抵の努力では叶わない。嵐が来ようと凶暴な獣が現れようと、助けてくれる隣人が居ないというのは相当な苦労を伴うものであり、それを可能としているのは長年生きてきたゲン爺の経験と知恵、そして人間離れした筋力があってのことだ。私の細腕ではとてもとてもこんな爺さんと同じ事なんてできるわけがない。――そう、私こと占い師スズカはスレンダーでか弱い少女に過ぎないからね?

「リン、この辺を案内してくれないかな?」

「……」

 私のお願いにゲン爺は黙ったまま聞き耳を立てている。頼まれたリンは少し戸惑った様子を見せた後にゲン爺へ視線を向けて何かを請おうとしてから、彼が何も言う気がないことを察して、私へ小さく頷いた。

「案内って、どこへ行きますか?」

「どこでもいいよ。この辺に来たのも久しぶりだし、覚えてないところも其処此処にあるはずだからね。お任せコースってやつだよ」

「えっと、じゃあ、案内します」

 おずおずとした様子が似合う――というのは彼女に失礼かもしれないが、東国に見る黒髪だけの人達みたいな雰囲気のある子だ。私も東国の人間と会ったのは旅を始めてから数回程度だが、彼女からはその匂いみたいなのがある。出身も恐らくそちら側なのだろうが、となると何故ゲン爺と出会って一緒に暮らしているのかは不思議ではある。

「あそこには寄るなよ」

 と、ゲン爺さんが忠告をしてくると、彼女は小さく頷いてから淀みない足取りで玄関の戸を開くのを見ると、彼女が目を閉じて何も見えていないというのは端からでは俄に信じ難いものがある。まぁ、私は理由を理解できるから平気なのだが。

 うん、まぁ、そういうことかと心の中で静かに納得する。彼女がこんな人里離れた場所でしか生活できない理由も薄々分かろうというものだ。

 家を出て草原を歩く。とはいえ、見える範囲に森があるから草原だと胸を張って言えるほど広いわけではなく、実際彼女も森に向かって歩いているようだ。確かにこの辺はリンにとって庭みたいなものらしく彼女の足取りに戸惑う様子はない、が、さすがにあの森まで行ったら家から離れすぎではなかろうか。

「どこに連れて行くんだい?」

「わたしと同じだというので、是非連れていきたいところがあるんです」

「ほうほう」

 なかなか意味深なことを言ってくれるではないか。少しだけ期待値を高めておこう。

 森に入ると一気に空気の様子が変わる。恐らくは湿気を多分に含んだものとなるのだろう。鬱蒼と茂る木々は風の通り道をことごとく塞いでその場に止めてしまい、大地に貯められた森特有の水分が空気に溶けるのだろう。

 そんな中を歩いているとじんわり汗がにじみ出してきて、あんまりもうちょっとここに居たくないなーという気分が強くなってくる。つまり、そろそろ戻ろうと提案しようとしたところでリンの足が止まり、すっと真っ直ぐに人差し指を前方に伸ばす。

 ――釣られるようにそちらへと視線を移動させる。

「うわ」

 素直に感心した。

 波一つ立たない鑑のような面に、ゆらりとしたその中を泳ぐ大きな魚は自由を満喫している。その水面はかつて本で見た海を彷彿とさせるほど広く、つまり水平線があるのだ。まさかこんなところにここまで巨大な大きな湖が広がっているとは想像もしていなかった。

「この地域は大雨もないから、湖が溢れることもありません」

 湖の縁に足を掛けて、彼女は指先で水面に触れる。広がる波紋のゆったりとした流れが縁に届いて跳ね返り、そのまま水面の中へと溶けていく。底まで見通せる程に透明度が高いということは、ここはまるで人の手が入っていなくてさらには災害もほとんどない湖であるのだろう。こうして見渡すだけでも心が洗われていくようだが、リンが私をここへ連れてきた本当の理由は別にあるようだった。

「うん」

 リンが何かに頷いて目を開く。

 ――まさか、と思って私は逆に目を閉じた。五冠の一つを閉じることで別の感覚、この場合は主に聴覚を強める。

 小さな、だけれども凄まじい数の声がする。あまりの多さに驚いて腰を抜かしそうになったほどだ。これは一体なんだと目を開いて感覚を閉じる。

「ここは精霊の、ゲン爺の言葉を借りるなら妖精の湖と呼ばれるところ」

「ドワーフでは精霊と呼ばすに妖精と呼んでいたね。それはいい。ここにいる精霊は人里にいるのとは違う。かといってまったく別物ではなく、なんだろう、あまり私達に興味を抱いていない?」

「たぶんわたしたちに気付いていないんです」

「それはどういうこと?」

「人に興味がある精霊だったら、スズカさんは目を閉じる必要は無かったと思うから」

「……」

 言われてみると確かにそうだ。私が占い師として彼らを利用する時、それは対象のことを話し合っている精霊のひそひそ話に耳を傾けているだけに過ぎないのだ。これはつまり精霊がその人間に対して興味を示しているということであり、当然私自身に興味を抱く連中もいる。なるべく声が聞こえることを悟られないようにしているのだが、そもそも精霊達相手に隠し事などできやしないだろう。

 だがどうだろうか。ここにいる精霊はよく視ると人間に興味を抱いてはいないようだ。

「そういう精霊はいると、話には聞いていたけど」

 実際に視るのは初めてだった。

「だからここでは、わたしに教えてくれる精霊はちょっとしかいません。けど」

 彼女の瞳が動いたように思えた。――見えない目が動く?

 ずり、と彼女の足下が滑るのを視界の端で捉えた。反射的に身体

が動き、喉で叫ぶ。

「危ない!」

 伸ばした手が彼女の服に触れると、彼女は驚いた顔で――目で、逆に私を掴もうとするが。

 間に合わず、私は水面の中へとたたき落とされてしまったのだった。


 沈む。

 この感覚は何度も味わうものではない。苦しいと感じなければならないのに、私の肉体は苦しさという感覚を追い出してしまっているからだ。危険だ、命が終わる、水を飲み込んだ服は重くて身体を浮かばせてくれない。そも、水の中に入る想定をしていない服であり、特に靴が辛い。足が上がらない。

 ――ああ、危険だ。

 まさかこの湖、一旦落ちるといきなりここまで深いとは思わなかった。光の屈折で底が近くに見えていたとでもいうのだろうか。

 何にしろ、難にしろ。

 私の命はここで終わるのだろうと、心静かに私は諦めて、静かに目を閉じて水の重さに身を任せることにしたのだが。

 その腕を引っ張り上げられた私は、胃の中に入った水を思いっきり吐き出したのだった。


「うっ……」

 まだ肺の中に水が残ってる気がする。

 実際はそこまで水が入り込んでいるわけではないが、胃に溜まった水を吐いた不快感はねっとりと喉に張り付いている感触がなかなか消えそうもなく、私としては実に最悪な気分のまま小屋の中へと戻ってくる。口の中は一度沸騰させて消毒した水で何度も綺麗にして、ついでに顔も洗ったが、こうなった原因が水そのものにあるのだから今の気持ちが流れてくれることもないだろう。まぁ、実際にそうなってくれればどれだけ楽か、それこそ何度も考えたことではあるが――

 気持ちは洗い流せない。故に、その時に抱いた疑問や疑念も洗い流せるものではない。ふらりとした足取りで井戸のある外からゲン爺の家の中へと戻ってくる。

「あー、きっつい」

「全く、何をしとるんだお前は」

「何をと言われても」

 黒針の先をじぃっと観察しているゲン爺はこちらに一瞥すらくれることなく、お叱りの言葉だけを投げかけてくる。

「お前に頼んだのはあの子の救出であって、お前の救出ではない。リンだって呆れておるだろうが」

「あ、いえ、そんなことないです」

 おどおどした様子でこちらとゲン爺の顔色を窺っているが、一応私としては助けられた身なのでむしろ彼女に対して恐縮する立場である。

「いや、助かったよ。この辺は精霊が教えてくれることが極端に少ないからね。油断していた。普段は精霊の声に耳を傾けないでいるつもりだったが、どうやら無意識にでも頼ってしまっていたみたいだ。私もまだまだ未熟ということだね」

「確かにわざと『妖精』共の少ない場所を選んで住んでいるが、そこまでか?」

 とはゲン爺の質問で、存外簡単に訊いてきたその意味にやや重さを覚える私がいる。つまりだ、彼が訊きたいことはこういうことになる。

「ああ、私が目を閉じてもここら辺を歩くことはできないだろうね。声は聞こえるが、それは私の求めるものではなくて、もっとささやかで拙く、そして関係のないことばかりだ。ここの精霊は驚く程に人間への興味が『無い』」

「……」

 ゲン爺は思わず黙ってしまっていた。

 そして私は椅子に座っていまだもぞもぞとしているリンへと目を向ける。

「じゃあここで一つ疑問が浮かんでくる。リン、君はどうやってここで生活をしてきた?」

「それは」

「精霊の声は君に語りかけていない。その上で、だ。精霊が逐一君の歩く場所を教えてくれるのなら、まぁ目を閉じていても何とかなる。その理屈なら私も納得しただろうね。けど」

 そうではないのだ。

 私に聞こえないということは、また彼女も精霊の声を聞くことはできやしない。

「リン、君は目を閉じているが、見えているね」

 つまるところ、そういうことだ。

 それ以外に彼女がこの山の中で生活できた理由はない。そして声が聞こえないのに私を助けられたというのも、目が見えていたからに他ならない。何の迷いもなく私の手を掴んで引っ張ることが出来る程度には視力がある。――というよりも、元々視力が失われていたのではない、ということではないか。

 普段ならここで精霊に声を聴くのだが、生憎とそこらに浮かんでいる精霊は語りかけてくれないというか、恐らくは彼らが興味を持つほど人の移動がない。私にくっついてきた精霊もいることはいるが、それだって私だけに興味を持って常に張り付いているわけでもない。精霊とは基本的に気紛れな存在だ。だが、人智を超えた存在であることを忘れてはならない。

「目が見える者をどうにかしろっていうのは、ゲン爺、さすがに私でも無理だ。で、なんでそんな嘘を吐いていたのか教えてもらっていいかい?」

「……私は、あの、目が緑色だから……」

「目が緑で私と同じ症状の人間は他にも知っている。だけどそれだけだ。精霊が見える、声が聞こえる者は身体のどこかしらが緑色になるだけであって、普通の人間となんら変わらない」

「ち、違うんです……わ、わたし、目を開いたら……駄目なんです。大変なことになるんです」

「目を開くと?」

 ちょっと待て、と私は私に警鐘を鳴らしていた。なんだ、私は何かを忘れている。精霊が視えるのは私達にとってごく当たり前で、むしろそうしない訓練が必要になるのだが、この子はそれが出来ていないのは元より、目を閉じなければならない理由があったということになる。

「どいういうことだ。見えるなら目を開けばいいだろうが」

「いや、待って。その症状……もしかして君は目を開いたら……いや、その目を精霊が狙っている、のか?」

 先刻見させてもらった時は僅かな時間だったから影響がなかったものの、もし普通の人間と同じように目を開いていたらどうなる?

「どういうことだ? おいリン、お前何を黙っていた?」

「ご、ごめんなさい……わ、わたし、この目のこと、知られたくなくて」

 椅子から立ち上がって、僅かに後ろへと後退していく。

「きっと、この目のことを知ったら、『みんな』みたくわたしのことを追い出すと思うから」

「馬鹿を言うな。そこらのヒューマンとこの儂を一緒にするんじゃない」

「――いや」

 しかし私はゲン爺の言葉を否定し、彼女の言葉を肯定する。当然、あり得る話だからだ。

「分かったよ。その目の意味が。確かに開いちゃいけない。だが閉じたままここで生活をし続けることは難しい。精霊は無関心を装っているが、彼らがどうしてここまで人間に興味を――余所からやってきた私すら気に掛けなかったのか、その疑問が解けた。なるほど、彼らは知っていたんだ。自分達が一番興味を抱く奇っ怪な現象があることに。だからその他のことに無関心でいるという、彼ららしくない行動を取っていた。もし本当に無関心であれば別の場所に移動していてもおかしくないだろうからね。その原因は一つ、リン、君の両目は精霊の餌となる」

「……ッ!」

 肩を震わせる矮躯な身体を前に、彼女がどこで何をしたのか朧気ながらも察してしまう。精霊は超常の現象。その力はいざとなれば大災害すらも引き起こしかねないものだからだ。

 ましてや彼らが個人を狙った場合、その個人が住んでいた地域がどうなってしまうかなど――さすがにそこばかりは想像を絶するのだが、良い結果になるなんて話はないだろう。

「なるほどね。私がやるべきことは分かった。ようはその両目を殺せということだね」

「え?」

「ゲン爺、針を一本もらうよ」

 ちょうど整備が終わったらしき針を一本指でつまむ。

「待てスズカ、何を考えてやがる」

「だから私のすべきことだ。その目は私にとっても危険だからね。もし彼女が両目を開きっぱなしにして私を覗き込みでもすれば、恐らく私自身が精霊の渦に飲まれかねない。時々あるんだよ、そういう精霊の住む世界に同調した身体の部位というのがね」

 その最たるモノが以前出会った少女に他ならない。その少女は精霊と共にあり続けた結果、こちら側の世界の住民ではなくあちら側の世界へと旅立ってしまったという希有な現象だった。今回の場合はきっと生まれつき【両目】のみ向こうの世界への回線と繋がっていて――そして向こうのモノになってしまったのだ。

 だから彼女は目が正しく『使えない』ということになる。恐らく目を開けばこちらの世界の景色と、そしてまた違う景色が映っていることだろう。それこそが精霊の世界であり、人間が踏み込んではならない領域なのだ。ましてや私も彼女と同じく精霊が見える希有な人間の一人、その目による被害を一番被るのは誰よりも私自身だ。

「それともその両目を精霊に持っていかれたほうがいいのかい。それでも構わないが、精霊が意志を持って触れた部分はやがて全身に拡がり、君は結局こちら側の人間ではなくなる」

「スズカ……本当のことか? リンは」

「本当だよ、ゲン爺。今私がいる間にその目を殺さないと、やがてゲン爺まで巻き込んでこの辺は更地にでもなってしまうんじゃないか。それはきっとリンが一番身を以て経験しているだろう」

「――そう、だけど、でも……」

 目を殺す、と言われたのだ。しかも針で。それを受け容れられる筈がない。

「あくまで治療の一環だよ。だけど」

「目まで死んだら、もうわたしどこにも生きていけない……!」

 ゆっくりと、その両目が開かれる。

 まずい、と危機感を覚えて手を伸ばすものの、間に合う筈もない。彼女の目が私とゲン爺の姿を捉え、突然強烈な力でドアから外へと放り出されてしまう。

「ぬぐぅ! あ、頭を打ったぞ!」

「頭どころじゃない! 世界が変わる!」

「――なんだこりゃぁ!」

 外へと放り出された私達が視たモノは、まさに現実と虚像の入り混じった異質な空間である。空は紫に変わり木々はまるで軟体動物のようにゆらゆらと揺れ、大地は大きく上下運動を繰り返していて私達を混乱させるのだが、不思議と足場の不安定さはない。

「住む世界のチャンネルが違うから、私達には正しくこの世界が見えていない。結果として認識が歪んでしまっているんだ。これは精霊側の一部がこの辺に侵食を始めた結果だよ」

「リンの両目がこれをやったと?」

「もっと正確に言うなら、リンの両目を狙っている数多の精霊がコレを起こした、かな。精霊は多く集まり過ぎると不可思議な現象を起こすんだが、それは別の世界と私達の住む世界がリンクしやすくなっているんだと、私は考えている」

 そして私達未知を識る者は特に精霊に好かれる場合が多く、それ故にあまり一箇所に留まっていられないという特徴があった。この現象はゲン爺がドワーフであり私とリンの二人がいたからこそ巻き込まれたが、そうでなければ今頃元の世界で災害に襲われていたかもしれない。そう、認識出来ない向こうの世界ではこの重なりは何かしらの災害となって『表現』されるのだ。

 肝心のリンはいつの間にか消えていた小屋のあっただろう場所の中央で目を開いたまま泣き叫んでいた。というのもゲン爺には知覚不能だろうが、彼女に無数の綿毛のような精霊達が取り憑くように両目へと集まっていたのだ。自分達の世界とリンクする私達の世界で生まれた珍しい部位に興味を持った厄介な連中であり、しかも人間から引っ剝がすことに恐らく何の躊躇もない。精霊には温情もないが残酷でもなく、そもそもそういう感情で動いていないからだ。

「ゲン爺! やるよ!」

「待て、それをやるとリンの目は――」

「あああああああああ!」

 絶叫がゲン爺の言葉を遮る。時間が無いと判断した私は針を持って駆けだし、リンに取り憑く精霊を刺していく。これで殺せるわけではないのだが、それでも一時的に追い払う程度のことは可能だ。ゲン爺の作ったこの針だけが唯一精霊に対抗できる手段だといっても過言ではない。

 一気に駆け寄って少女の前に詰め寄り、彼女の目をこちらに向けさせる。彼女の目が次元の違うモノだとしても、私が視ているモノと同じ筈だ。ならば多少は肩代わりが可能だろうと踏んで彼女の目だけを覗き込む。怯えきった深緑の瞳の奥の奥では渦が巻き、まるで宇宙の深淵を覗いているような危うさと神秘性が感じ取れる。だが違う、私が視なければならないのはそんな奥ではなく、この世界とあの世界を好き勝手に行き来する存在なのだ。

 彼女の目から光がぽつぽつとこぼれ落ちては私の頭に集まって来る。緑色に反応する精霊の特徴の一つだ。目には意志が込められる、眼力というのは存外馬鹿にしたものではない。実際、私は両目で精霊を捉えて興味をこちらに促しているのだから。

 だが全く以て足りない。

 精霊の数があまりにも桁違いだ。このままだとリンは連中に引き摺られて私達とは違う世界の住人となってしまう。望んでそうなるならまだしも、そうでないのならば恐らく地獄となるであろう異世界に向かわせるのは御免被る!

「リン、私を視て」

 彼女の瞳をより深く覗き込む。

「今からその目に針を刺す。この世界の針は向こうの世界にのみ干渉をする。リンの目には届かないが、けれどリンが私を信じずに目を一度でも閉じたらその限りじゃない。分かるよね。精霊と繋がっているのはリンの目だけで、瞼はそうじゃないんだから」

「あっ……あ、でも……」

「その目は君の故郷に災害をもたらしたかもしれない。だけれども今はその目を信じてしっかりを開いて。私を視て。私だけを観て。いいかい、余計なところに目を向けちゃいけない。これから私は君に酷いことをするが、きっと大丈夫。君は幸せになれる。だから私を信じるんだ」

「――スズカさ、ん、わたし、は……!」

「行くよ」

 すぅ、と彼女の眼前に真っ黒い針が突き立つ。

 リンを育てたゲン爺が作った精霊に干渉できる針。そして精霊を視て、聴いて、感じることができる私と、そんな師匠の教えを受けたこの腕。

 あとはリンの気持ち一つだ。

「――うん……」

 静かに頷き、私は息を止めてその針を動かした。


 ――新緑と深緑の景色が連なって続く遠い山の壁を眺めながら、私は背伸びをした。

 世界は変わらず静かで、静かさというのもまた五月蠅いのかもしれないと、私は耳たぶに触れる。

 カラリと玄関が開き、そこから一人の老ドワーフがやってきた。

「行くのか」

「行くよ。そろそろ行かないと、余計なのが集まる」

「リンが寂しがるな」

「また来るよ」

「選別だ、もう何本か持って行け」

 と、私はゲン爺から黒針が十本ほど入った袋を受け取る。礼を言おうとしたが、それはゲン爺が右手を挙げることによって止められた。

「助けてくれた礼だ」

「案外孫想いの良いお爺ちゃんみたいだね」

「ふん。――まぁ、そういう余生も悪くない」

 余生とはいえドワーフの寿命は長い。あと何十年も生きるだろうに何が余生かと余計な一言を言いたくなった。そんな会話が届いたのだろうか、玄関からさらにもう一人の姿が現れて、私は思わず肩をすくめてしまった。

「……スズカさん」

「あっと、起きちゃったか」

 彼女が起きる前に行こうと思っていたのに。

 今の彼女の両目には包帯が巻かれている。

「ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない。ちゃんと報酬はもらってるからね」

「でも、ありがとうございます。わたしもいつか、スズカさんみたいに立派になりたい、です」

「こいつが立派じゃと? うーむ、これはしっかり教育せねばなるまいなぁ」

「ゲン爺、そこは黙っておいてくれると雰囲気壊れずに済むんだが?」

「スズカさん」

 彼女は真っ直ぐに背を伸ばし、それから頭を下げる。

 その頭に手を伸ばして、ゆるりと撫でた。

「時間はかかるだろうが、その両目は治るよ。以前と同じほど酷くなることもない。とはいえ深緑が消えることはないから私と同じ運命を辿るだろうが、そこは教えてくれる人が身近にいるからね。だから――」

「だから、いつかスズカさんの旅に追い着きますね」

 少女は口端の形を変えて、とても年相応の笑顔を向けてくれる。

 ああ、これで目に包帯が巻かれていなければ、とてもとても記憶に残る笑顔となったことだろう。

 そんな旅の思い出に刻まれるような印象深い感傷は、いつか彼女の瞳が治る時まで取っておくことにした。

 

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