16
床から足の離れかけた狼男の、肩を鬼が掴んだ。
「やめろ」
狼男は振り向いて鬼の顔を見る。
「何故ですか。存在価値がないならば死んだほうが良いと思うのですが」
再び窓の外を向こうとして、ああ、と声を漏らす。
「後片付けのことを忘れていました。申し訳ありません」
肩に置かれた鬼の手をそっと外し、振り向いて部屋の出入り口へと足を踏み出す。
歩き出そうとした狼男の首を鬼が掴んだ。
「待て、存在価値って何だ」
「人を滅ぼすために誘われたのですから、それができなかったのならもう無いかと」
は、と鬼は口を開きかけて、目を開いたまま狼男の後頭部を見た。立ち尽くしている魔物達の視線が集中する。
首を掴む鬼の手がぴくりと動いた。
「こっち向け」
狼男が肩を跳ねさせる。
「す、すみませ」
「いいからこっち向けっつってんだろ!」
狼の耳の間を荒々しく掴んで強引に振り向かせる。
狼男の目から涙がこぼれているのを見て、鬼はちっと舌打ちをした。視線が落ちる狼男の襟元を掴んで顔を上げさせる。
「テメェには本当に見損なったよ」
狼男ははっと視線を上げて鬼の両目を見た。
「大層変わったと思ってたら、昔と何も変わってねえじゃねえか」
咄嗟に手で涙を拭おうとした狼男の襟を乱暴に強く引く。スーツの膝に涙が垂れて染みた。
「誰もテメェを利用しようだなんて考えちゃいねぇんだよ!」
怒鳴って鬼は頬に涙を伝わせている狼男を眉間にしわを寄せて見る。
「うぬぼれてんじゃねえ、テメェ程度の実力ならそこら中にゴロゴロいるんだ」
「そうですよね。替えなんていくらでも」
狼男の体が勢いよく強く床に叩きつけられた。鈍い音を立てて頭を打ち付ける。
「いい加減にしやがれ! テメェは物じゃねえんだよ!」
下ろされた鬼の手が狼男の首を掴んで床に押しつけた。喉元を絞められて狼男は咳き込んで口から少量の血を流す。爪の先の欠けた狼の手が首元を引っかいた。
「生きてんだ。生物なら、ちっとはテメェの頭で考えろ」
鬼の猫の様に黒い縦線の入った赤い両目が狼男の目を睨みつける。首から手を離され、狼男は横になって手で首を押さえながら激しく咳を繰り返す。
鬼の手が再び狼男の崩れた襟を掴み上げた。
「生きる意義を他の奴に求めてんじゃねえ! 甘ったれんな!」
襟を掴む手に力が込められて震える。
「テメェに、替えなんざいねえよ」
狼男の目が僅かに開いた。目の前で、真っ直ぐと向けられた鬼の目を見る。見ている狼男のスーツの襟から手を離し、クソ、と呟いて鬼は涙の滲んだ目を拭った。
「もう、争いはお終えだ」
魔物達の視線が集まる中で鬼は言い、両手を強く握った。狼男は鬼の顔を見て、毛の生えた狼の手で涙のこぼれる目を拭う。
「ええ。そのようですね」
目から手を離した狼男と鬼、見ていた魔物達とパタの影が部屋の出入り口の方へと薄暗く伸びている。
大きく開かれた窓から吹き込んだ風が床に落ちている血染めの包帯を動かす。
鉄格子の向こうでうずくまっている少年がいた。
ボタンの外れた大きなシャツを一枚着ている少年の体は痩せこけて、はだけた胸部には青黒いアザが広がっている。シャツはところどころ破けて血の染みがあり、耳にかけているメガネは片方の支えが割れてかろうじてかけられている状態であった。
「あ」
少年は顔を上げて背後の壁を振り向く。足に繋がれた鎖が揺れて音を立てた。
「ヤモリ」
壁をはっている緑色のヤモリに手を伸ばそうとする少年の後ろで鈍い蝶つがいの動く音が聞こえる。手が届く寸前で、後ろから伸びた手が少年の口に布を押し込んだ。
「んっ」
声を漏らした少年の両手が背中に回されて手錠を掛けられる。
「暴れるな」
口に押し込まれた布の上から更に布が巻かれて後頭部で結ばれる。燕尾服を着た男が持っていた鍵で少年の足枷を外した。
「立て」
手錠の短い鎖を引き上げられて少年は立ち上がった。首に縄をかけられた少年の細い足は震え、よろめきかけたところを男に縄を引っ張られる。
「付いて来い」
鉄格子の扉の外へと歩き出した燕尾服の男の後をおぼつかない足取りでついていく。
左右にバラの花の植えられた大きな金属製の門の向こうで、傷んだ帽子を深くかぶった顔に大きな傷のある男が腕を組んでしきりに指を腕に打ちつけている。
「お待たせ致しました」
金属の門が開かれて傷の男は顔を上げた。燕尾服の男は少年の縄を強く引っ張って、少年は前のめりに二歩よろめく。
「成程。確かに魔力は多いようだな」
傷の男は少年をじろじろと眺め回し、少年の顎をぐいと指で上げさせた。
「目が悪いのか」
「少々、しかしその分学術には長けております」
「奴隷に学など必要ない。が、まああるだけマシだろう」
傷の男の言葉に少年は僅かに目を開く。燕尾服の男が縄を傷の男に引き渡し、傷の男に縄を引かれて少年は門の外へと数歩踏み出した。
「では、また後程」
燕尾服の男は金属の門を閉め、丁寧に頭を下げた。男に縄を引っ張られて少年は石造りの塀沿いに門から離れる。
「あっ」
背後からした少女の声に振り向く。
白いフードを被り、左右から毛先のくるくるとカールした金髪を下ろした少女がこちらを見ていた。高い塀の前に立つ少女の手にはリボンでラッピングされた小包みが握られている。
一歩踏み出した少女のフードがずれ落ちて、先の尖ったエルフの耳が露わになった。
「ちゃっちゃと歩け」
男に縄を引かれて少年はよろめいて前を向く。その時、轟音が鳴り響いて少年は顔を上げた。山の上の建物が倒壊し、炎に包まれていた。少年のメガネのひびの入ったレンズにオレンジに燃え盛る炎が映る。
「ちっ、とうとう暴走させやがったか……」
縄を強く引かれ、少年は燃えている建物から目を外す。
町民服のシャツのボタンを閉じ終え、顔を上げたメガネの青年を髭を生やした年増の兵士が上から下まで眺め回す。
「ほう、洗ったら小ぎれいになったな。これなら問題無いだろう」
頷いて、手でサインをしてから髭の男は歩き出した。青年はその後をついていきながら、時々止まって靴を履いている足を少し動かす。
「ここだ。玉座の横で待っているように」
兵士は立ち止まって扉を開けた。部屋の中に入った青年は向こうの大扉まで真っ直ぐと敷かれた赤いじゅうたんを眺めて、その先に設置された中年の男の座る玉座に向かって進む。すでに玉座の横に立っていた女に軽く頭を下げて横に立ち、玉座に座る中年の男を横目に見た。金の冠を被った中年の男は髭を指で撫ででいる。
隣の女が笑っているのを見て、青年は口角を上げた。
じゅうたんの先の大扉が開いた。
「失礼します」
やや早口で言って兵服の女が部屋に入る。そっと扉を閉めて、赤いじゅうたんの上をぎこちない足取りで進み、兵服の女はひざまずいた。
「おお、よく来た。早速だが今回の任務を伝えよう」
こほん、と一つ咳払いをして冠の男は兵服の女を見下ろした。兵服の女は俯けていた目を僅かに上げて、玉座の横の青年と目が合った。
「魔王を倒しに行ってきたまえ」
えっ、と声を漏らして、兵服の女は茫然と冠を被った中年の男を見上げる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます