12
片方の扉が壊れて開け放された建物内に踏み入ったパタは顔を上げ、広い室内を見回した。高い天井には電灯が吊るされて、カーテンの開けられた大きな窓から月灯りが差し込み、本棚の並ぶ暗い部屋の廊下を照らしている。
天井の一角は崩れて吹き抜けとなっており、瓦礫が積みあがっていた。
部屋の中を歩き進んだパタは木製の机に足を当てた。奥の机で本を読んでいたキツネ獣人の少年が顔を上げてパタを見る。オレンジ色のキツネの耳がぴくぴくと動く。
「兄ちゃん、どうしたんだ?」
木の机の前で立ち尽くしていたパタは、キツネ獣人の少年に顔を向けた。
「えっと……その」
「何読む? 俺ここ詳しいから持ってきてやるよ」
あ、と呟いてパタは首を横に振る。
「僕、本読めないんだ」
「へぇ、変なの」
少年は持っていた本に目を戻す。表紙には剣を持った青年とドラゴンが描かれ、窓から差し込む明かりが紙を照らしている。
パタが後ろを振り向こうとした時、キツネ獣人の少年が顔を上げた。
「なあ、兄ちゃんは何でこんな時間にこんなとこ来たんだ?」
少年の方を向いたパタは少しだけ考え込む。
「……なんだか、眠れなくって」
「じゃあ俺と一緒だな!」
元気に言って少年はにっこりと笑い、机に本を置いた。
「うちさ、今日父さんが熱出した弟の面倒見に行っちゃって。俺一人なんだ」
狐獣人の少年は頬杖を突いて口をすぼめて見せる。
「けど、うち電気壊れて真っ暗でさ……なんか、お化けとか……」
「わかる。僕も暗いの苦手だよ」
返答に少年はえっと声を上げてパタを見た。
「兄ちゃんそんなおっきいのに……」
う、とパタは言葉を詰まらせて本棚の並ぶ方へ視線を逸らす。本へ目を戻そうとした少年は、大きくあくびをして白い毛の手で目をこすった。
小さな寝息が聞こえてきたことにパタは少年の方を向く。数秒ほど眺め、月明りに照らされている本棚の方へと歩いていく。
蝶つがいの外れかけたもう片方の扉が勢いよく蹴り倒されて大きな音が鳴った。扉の前に立っていたマントを着た男は、机に突っ伏して眠っている少年に目を留める。
本から顔を上げ、眠たげな目をこすって少年は目の前まで来た男を見上げた。
「ほう、こいつぁ良い毛色だな」
「本当か!? えへへ……」
首元を掻いた少年のオレンジ色の毛の耳が動く。少年を眺め回していた男はよし、と囁き、膝に布を当てたズボンのポケットに節くれた手を入れる。
素早く少年の後頭部に手を回して引き出した布を近づけた。
「な」
だがその手首は色白な細い手に掴まれてそれ以上動かなくなる。ゆっくりと男は顔を上げ、横に立っているパタの顔を見た。
「な、なんだテメェ」
「この子に酷いことするのはやめてください」
狐獣人の少年は丸い目で男の顔を見上げていた。パタの手が緩んだ隙に、男は布を持つ手を引き抜く。
「人聞きの悪いことを。俺はただ、こいつがよだれを垂らしてたから……」
真っ直ぐと見つめてくる瞳孔の開ききったパタの黒い目に、男はひるんで布を掴んだまま机から数歩後ずさり、扉の方へと駆けだした。
慌ただしい足音が遠のいて、室内は再び静寂に包まれる。狐獣人の少年は机の向かいに立っているパタを見上げる。
ぱっと両目を輝かせた。
「兄ちゃん強え! あのでっかいやつ追い返しちまった!」
え、とパタは少年の方を見下ろす。少年は机に乗り出して、毛先の白いオレンジ色のしっぽを左右に振っていた。
「あ、えっと、あの……」
パタは僅かに目を開いて少年から足を引く。
「俺も兄ちゃんみたいになりたい! でも、何で悪いやつってわかったんだ?」
引きかけた足を止める。茫然としているパタに少年はなあ、と催促する。
「……ハンカチから、睡眠薬の臭いがして」
「すげえ、兄ちゃん探偵みたいだな! かっけえ……」
憧れの眼差しを向けてくる少年に張り詰めていたパタの緊張がだんだんと解けていく。狐獣人の少年は乗り出していた身を引き、パタに笑顔を向けた。
「助けてくれてありがとな! 俺、兄ちゃんのことそんけーしたよ」
言った直後に腹の鳴る音が聞こえた。あ、と俯いて腹部に手を当てた狐獣人の少年に、パタは上着のポケットに手を入れて小包みを取り出した。
「これ……一緒に食べる?」
少年の表情が明るくなった。しっぽを振りながら頷く。パタは小包みを木製の机の上に置き、結ばれた細いリボンを指先でほどいて袋を開いた。甘い芳香が袋の中からふんわりと広がる。
「けど、いいのか? これ兄ちゃんが貰ったんだろ?」
つばを飲み込んで、少年は広げた袋にころがる四個の小さなベリーケーキを眺めた。
「うん。でも、僕お腹空いてないから一個でいいや」
パタはベリーケーキを一個つまみ上げて口の中に入れた。くちびるについた赤紫の木の実の汁を細い指でこする。少年は白い狐の手で袋の上からケーキを一個取った。
「わっ、これすげぇおいしい!」
白い毛に赤紫の汁を付けて二個目に手を伸ばす少年のしっぽが左右に振られて木の椅子にさらさらと当たっている。
ケーキを飲み込み、パタは微笑んだと同時にあくびをする。
窓から朝日が漏れ込む中、机に突っ伏して眠っていたパタは白い手袋をはめた手に肩を揺すられる。眠たそうに眼を開き、赤紫の汁がついたままの手でこすった。
「あれ、いつの間に……」
口を手で押さえながらあくびをして、赤くなった額に手を当てる。
「このような所で寝られては風邪を引きますよ」
「ご、ごめんなさい……つい」
007は手を離したパタの額に微かに血がついたのを見て、木製の椅子からパタが立ち上がるなりその手を取って平を確認した。朝日に照らされた白い手の中央に浅く穴が開いており、傷口に滲んだ血は固まりかけている。
「まだ回復していなかったのですか」
呆れ気味な007の声色にパタは慌てて反対の手に魔力を溜めかけるも、007は口で手袋を外し、指先から半透明のジェルを出してパタの手の平に塗りたくった。
「あの、これは……」
手を解放されたパタは日光に輝いている手の平に指で触れる。
「即効回復薬でございます。今までも何度か使わせていただいたはずですよ」
手の中央に触れると既に傷は無くなっていた。驚いた様子でパタは指先についたジェルをすり合わせ、あ、と声をこぼした。
「さて、行きますよ。せっかくなので町を見てから出発しましょう」
頷いて、扉の壊れた出入り口へと歩き出した007の後についていく。
歓声が遠のいて城の青い屋根が空気にかすんできたところで007は立ち止った。
「ところでパタ様、なんだか元気になられたようですね」
草を踏む静かな足音が止まったのを聞いて、パタは立ち止る。
「うん、もう大丈夫。昨日は心配かけてごめん」
「いえ。ですが、これならもうお一人でも魔王城へ行けるかと」
パタの笑みがすっと消える。二度瞬きし、パタは007の顔を見た。
「唐突で申し訳ありませんが、私はここでお別れとさせていただきます」
立ち尽くしているパタを紫色の左目のライトで見て、007はああ、と付け加える。
「急遽用事が入りまして。ですから、ここから先はお一人で向かわれてください」
ライトの光を真っ直ぐと、身長のあまり変わらぬパタの黒い目に当てる。
パタは無言のまま視線を足元の草へ落とした。
顔を上げて007へ目を向ける。
「そっか。なら、あとは僕に任せて。頑張るから」
言って、パタは笑った。
「今まで本当にありがとう。いろいろ、お世話になりました」
丁寧に頭を下げて、バンダナに通した黒髪の束が前に垂れた。
顔を上げて007に笑顔で手を振る。
「じゃあ行ってくる。007、またね」
下ろした手に魔力が溜まる。007は白い手袋をはめた手をパタに振り返し、出しかけた声を寸前で止めた。
「転移魔法っ」
唱える声と共にパタの姿が魔力に包まれて消えた。
止めた手を下ろし、007は微かに赤く光る目の前の空中を見つめる。
膝から崩れ落ちて草の上に倒れこんだ。左目に光っていた紫色のライトが点滅する。
仰向けになって空を見上げた007の顔の前を、黄色の蝶が横切った。
「あの程度の魔力混入と軽視していたな……」
空中にスクリーンを投影するもその角の方は赤や緑の四角が並んでいる。レンズの壊れた右目の配線に電流が走り、連動して左目のライトが消えかかった。
空中のスクリーンには今朝の速報の新聞が表示されていた。見出しには指名手配犯の盗賊が東の国を救ったこと、本文にはその詳細と盗賊が訴えたことが書かれている。
「……ま、いっか」
電子音になりかけの声を止め、007は瞼を閉じた。
頭に大きな角を生やした男は顔に返り血を浴びて見下ろしていた。
「勇者、お前は神の存在って信じるか?」
天井が半分灰となって、雲の合間から差し込む光が床に広がった血を照らす。
「俺は確信してる。実際に会ったもんでな、若干胡散臭かった気もするが」
男の手は指先から灰となり足元にできた血の池に浮かぶ。
「だからよ、初めっからこうなるよう決まって」
剣の刃が男の頭部を切った瞬間体が全て灰となって風に流された。蒼白した顔に血を浴びて、伝説の剣を握った手から鮮血が滴る。足元で胸の穴から赤い血を流している少女を見下ろした。赤く染まった長い白髪の頭部が血を垂らしながら床に転がっている。
血の滴る剣を鞘に収め、振り向いて歩き出す。
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