10
膝に乗せた毛の長い猫を撫でていた老婆の元へ、青い羽を付けた兵士が駆け込んできた。兵士は老婆の座る椅子の前でひざまずいて頭を下げる。
「戦況報告です。……甚大な被害を受け、急遽魔王城から撤退したと……」
兵士の報告に老婆は猫を撫でる手を止めた。
「どうも、ずば抜けて戦力の高い魔物が二体……と、人間の女性が一人」
「人間?……それは妙ですね」
膝から降ろされた猫は一鳴きして兵士の元へ歩いて行く。
「しかし、その中で我が国の兵士が洗脳を使える少年を保護したようです」
老婆の目尻のしわが僅かに動いた。猫は兵士の背中にのぼり、そこで丸まる。
「……成程。ここへ外務長を連れてまいりなさい」
「が、外務長ですか?……はっ」
猫の乗った背中をそっと上げて兵士は後ろの扉から部屋を出て行った。
おろされた猫は不機嫌そうに鳴いて、老婆の元へと戻る。
「洗脳……これはいいものを手に入れましたね」
足元の猫を拾い上げてしわの刻まれた手で頭を撫でる。
濡れた手を黒いローブで拭きながら歩いてきた魔女は、必死に拒む吸血鬼の声に立ち止まって顔を上げた。
「え、な、何やってるの」
「人が殺せないようなので、再教育しようかと」
吸血鬼の腕を掴んで引く狼男。血はついているもののその姿は元に戻っている。
「ほら、ついてきてください」
震えながら抵抗していた吸血鬼だったが、腕を引かれると引かれるがままに階段の方へと歩き出した。慌てて魔女は狼男を止める。
「や、やめなって。私がちゃんと洗脳できなかったせいなんだから……もう一度」
「いえ、教えたばかりで性格を変えるまでできるなら腕は十分です」
後ろの吸血鬼に目を向ける。
「ですが相手は勇者……根本的なところを変えるのは洗脳では不可能なようです」
前を向いて吸血鬼の腕を引き、階段を下りだす。
「待って。再教育って……な、何するの」
立ち止って狼男は魔女の方を振り向いた。
「慣れさせるため、先日捕らえた人を殺させます」
再び前を向いて階段を下りて行く。腕を引かれていく吸血鬼が、踊り場で魔女の方を見た。目に涙を溜めて魔女を見つめる。
「ま、魔女先輩、助け」
て、と言う頃には二人の姿は柵のついた床の裏に消えた。
入れ替わりで鬼がゴミ袋を持って上がってくる。瓦礫の入った袋を階段の隅に置き、立ち尽くしている魔女を横目に見た。下へと続く階段を見下ろす。
敬礼するゾンビの横を通って狼男は吸血鬼を暗い廊下へと引っ張っていく。
入口付近で立ち止まり、牢の中を見た。捕らえられていた兵士達が悲鳴を漏らして後ろの壁に張りつく。スーツのポケットから取り出した鍵で扉を開錠し、開けた扉の中に吸血鬼を放り込む。扉を閉める音に吸血鬼は顔を上げた。
「や、やだ、狼先輩」
「牢を壊したら駄目ですからね」
鉄格子を掴もうとした吸血鬼の手が寸前で止まる。鍵穴に鍵を刺して施錠し、扉の前で膝を床についたままこちらを見上げている吸血鬼を見た。
「立ってください。それで……ああ、そこの剣を拾ってください」
言われるがままに吸血鬼は立ち上がって、床に落ちていた兵士の剣を目に留める。近づいてきた吸血鬼に兵士たちは更に身を寄せ合って牢の隅に固まり、その手前に落ちていた剣に吸血鬼は手を伸ばして拾い上げた。
刃先を後ろへ向けて剣を持つ手と、後ずさる足が酷く震える。
「では、その人の兵士らを殺してください」
足が止まった。震える刃先が必死に命乞いしている兵士達の方へと向けられるも、上げ切る前に反対の手がその手首を強く握った。指が食い込み、ワンピースの長い袖口が血に染まる。
狼男は吸血鬼を急かすも、俯いてぶつぶつと呟き続けて吸血鬼は動かなくなった。
「……やはりこれ以上は無理ですか。なら……」
廊下を進み、兵士達が固まっている手前で立ち止まる。鉄格子の隙間から手を伸ばして、その手を一番手前でうずくまっているエルフの兵士に向ける。
周囲の悲鳴に顔を上げた瞬間に狼男の手から黒い魔力の球が放たれてエルフ兵士の額へ吸い込まれた。短く悲痛な叫び声を上げ、エルフ兵士は後ろへ倒れ込んで人間の兵士に体を支えられる。
「い、今の……」
「そこの吸血鬼に殺されてください」
狼男が言うとエルフ兵士は閉じていた目を見開き、不自然な動きで立ち上がって吸血鬼の方を向いた。止めようとした人間の兵士は後ろの兵士に腕を引かれる。
凝視しながら近づいてくるエルフ兵士に吸血鬼はひっと声を上げて足を後ろへ下げた。手首から床へ滴った血をエルフ兵士が踏み、吸血鬼の背中は壁に当たる。
「やだ、こ、来ないで、殺したくない」
蒼ざめた顔を小刻みに横へ振って吸血鬼はさらに強く手首を握った。そうだ、と呟いて手首へ視線を落とし、あらぬ方向へ曲げようとする。
だがすぐにその手を離した。解放された剣を握る手を目の前に迫っていたエルフ兵士が両手で掴み、震えている刃先を自身の胸に向けた。
エルフ兵士に引っ張られる手を最小限の力で引き戻す。
「やめて……もう、これ以上、殺したく」
殺したことなんて無い
「え」
力の抜けた吸血鬼の手が前へ動くも、刃先が僅かに刺さったところで吸血鬼は咄嗟に手を引いた。エルフ兵士の兵服の胸部と、手を掴んでいた指先から血が流れる。
「あ……ご、ごめんなさ」
何も悪くない
「あ、で、でも怪我をさせるのは、痛いから」
自分を責めるな 悪くなんて無い
「じゃ、じゃあ……え、あ」
再び掴まれそうになった刃先を自身の胸へと向けかける。様子の変わった吸血鬼に、狼男は扉の方へと近寄る。
「だめだった。ご、ごめ……えっと」
あれ
何で、殺したらだめなんだっけ
「だって、私は」
ただの盗賊に、皆を守る責任なんて無い
「でも」
殺したって僕は悪くない
何で、平和交渉なんてしようと思ったの?
何で
何で
何で
剣がゆらりとエルフ兵士の頭上に振り上げられる。
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