第4話 愛しの彼女

 直斗がオリエンテーションの行われていた教室を後にして向かったのは、大学内にある図書館。

 ICチップの入った学生証をかざして、改札機のような入り口から図書館の中へと入る。

 そのまま階段を上っていき、二階の閲覧スペースへと向かう。

 閲覧スペースの奥、柱の後ろにある人目に付かないような壁際のテーブルの椅子に、彼女はいつものように腰かけていた。

 何やら熱心に資料のようなものを見ながら、ノートにメモを取っている。

 直斗は邪魔しないように足音を忍ばせて近づいていく。

 そして、向かい側の椅子へ腰かけると、彼女のながな瞳がこちらへ向いた。

 目の前に座ったのが直斗だと分かった途端、艶つやかな黒髪をさっと耳に掛けて、柔和に微笑んでくる。


「おはよう、直斗。オリエンテーションはもう終わったの?」

「うん……かえでは?」

「二十分前くらいに終わった。直斗が来るまで、どの講義を受けるか考えていたの」


 そういう彼女の名前は桧原楓ひのはらかえで

 直斗の一つ上で同じサークルに所属する先輩であり、直斗のいとしの彼女。


「今日は仕事ないの?」

「午後からスタジオで撮影だから、昼前には大学を出る予定」


 楓はその美しいスタイルと容姿から、一応女優として活動をしている。

 まあ、知名度はそれほど高くはなく、たまに地上波で放送するドラマに一話だけゲスト出演する程度。

 けれど、毎日何かしらのレッスンや撮影などは入っており、忙しくしている。


「そっか。じゃあ今日もちょっとしかいられないのか」


 残念に思っていると、楓は申し訳なさそうな顔を向けてくる。


「ごめんね。春休みも全然会えなくて」

「仕方ないよ。楓は忙しいんだから」


 楓は春休みの間、仕事と資格取得のためにほとんど時間を費やしてきた。

 そのため、直斗と過ごす時間も必然的に少なくなってしまったのだ。

 直斗は楓と外でデートしたり、おうちでまったりしたいという欲求を我慢して、彼女のやりたい活動を応援しようと心に誓っている。

 だから、楓のやりたいことに水を差すようなことはしない。

 そんなこともあり、直斗は彼女に伝えなければならない大切なことを今日まで後回しにしてしまった。

 けれど、彼女にも言わなければならないタイミングなので、直斗は覚悟を決める。


「楓……一つ言わなきゃならないことがある」

「えっ……何どうしたの? そんな急にかしこまって」


 緊張した声音こわねで尋ねてくる楓。


「も、もしかして……別れたいとか、言わないよね?」

「へっ?」


 楓から出た予想外の言葉に、直斗は間抜けな声を上げてしまう。

 見れば、楓の目には涙がまり、今にも瞳から溢れ出しそうだ。


「そ、そんなことするわけないだろ。俺は楓のこと愛してるよ」

「本当に?」

「あぁ、本当だ」

「じゃあ……んっ」


 すると楓は、瞳を閉じて唇を差し出してくる。

 ここは、図書館の中でも最も人目に付きにくい場所。

 誰もいないことを確認してから、直斗は椅子から立ち上がって顔を近付けていき、彼女のぷるんとした唇へ口づけをする。


「んっ……」


 一回じゃ物足りなかったらしく、直斗はもう一度今度はさらに深く唇を押しつける。

 じっくりたっぷりとついばむようにキスを交わして唇を離すと、楓はとろけた顔で直斗を見つめてきた。


「直斗、大好き」

「うん。俺もだよ」

「えへへっ……」


 照れ笑いを浮かべる彼女は、本当に幸せそうにしていて可愛らしい。

 会える機会が少なくとも、こうして愛情を表現してあげるだけで喜んでくれるのなら、直斗はいくらでも彼女へハグやキスをしてあげたいと思う。


「それで、言わなきゃいけないことって何?」


 別れ話じゃないと分かった楓は、座りなおしながら軽い調子で尋ねてくる。


「そのことなんだけど……実は、妹たちが上京してくるから、引っ越すことになったんだ」

「えっ……確か直斗の妹さんって双子姉妹の子たちだよね?」

「うん」

「ってことはじゃあ、今住んでる家から出ちゃうってこと?」

「あぁ、妹たちも初めての上京で色々不安があるだろうし、両親も娘達を一人暮らしさせるのは心配だろうから、俺が一緒に暮らすことになったんだ」


 端的に事実を告げると、楓は黙っていたことを怒ることもなく、にっこりと微笑んだ。


「そっか。直斗は家族想いだね」

「そうかな……?」

「うん。だって私は、その優しさと包容力ほうようりょくがあったから、直斗のことを好きになったんだもん」

「そう言われると照れるな。でも、ありがとう……」


 反対されるかと思っていたけど、あっさりと妹との同居を認めてくれた。


「だからその……前みたいに仕事終わりに気軽に俺の家に来ることが出来なくなっちゃうけど、それだけは先に謝っておくよ」

「えっ、どうして?」


 すると、何の疑いもなく、楓が首を傾げた。


「そりゃだって、妹達がいるのに彼女を家に上げるわけにはいかないだろ……」

「それなら、普通に彼女がいるって紹介すればいいんじゃない?」

「いやいや、だとしても彼女が家に泊まるってなったら、妹達にも気を使わせることになるし……」

「大丈夫だよー! むしろこれってチャンスじゃない? もし直斗の妹ちゃん達と仲良くなれれば、実質家族公認で付き合いを認めて貰えたようなものだと思わない?」

「た、確かに……」

「それに、これからずっと一緒に付き合っていくにあたって、いずれ通る道なんだから、早いに越したことはないでしょ! それに私、直斗の妹ちゃん達とずっと仲良くなりたかったんだ!」


 超ポジティブシンキングに物事を捉える楓。

 でもそのおかげで、家族へ楓を紹介する直斗の心のハードルも下がった気がする。


「分かったよ。それじゃあ今度引っ越したら、妹たちに楓を紹介するよ」

「うん!」


 直斗が思ってたよりも、すんなりと物事がうまく進んでしまった。

 というより、楓がポジティブに物事を捉えてくれたことで、何もお咎めなしで終わったと言った方がいいだろう。

 これでひとまず、一つ大きな山は突破した。

 後は引っ越してから、妹たちに楓を紹介するだけ。


「そうだ直斗、今日仕事終わり直斗の家に行ってもいい? 引っ越し前最後に、今までの思い出を残しておきたいな」

「分かった。俺も夜はバイトがあるから、終わり次第駅で待ち合わせしよう」

「いいよ。それじゃあ、直斗の仕事が終わる頃に連絡するね」

「うん、わかった」


 こうして二人は、今日のおうちデートの約束を取り付ける。

 事態も一件落着して、これから順風満帆な新生活がこれから始まる……はずだった。

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