第45話 マイティ・マインド
由紀子の手が、再度紫苑の腕を掴もうとした瞬間――何かが矢のように飛び、由紀子の右肘から先を吹き飛ばした。由紀子は驚愕した。トンファーが、地表に突き刺さっていた。
「妃――沙耶!」
降り注いだ瓦礫を払って、ポニーテールの少女が屋上に這い上がってきた。
「紫苑!! 今、そっちに行くよ!」
動揺する由紀子から離れるためにも、立たない足を震わせて強引に立ち上がった。足下がふらついて、踏ん張れる力すらないけれど、それでも折笠紫苑は立って由紀子に克つしかない。だから沙耶の助けを拒みたかった。
紫苑は「来ないで!」と叫んだ。
「どうしてっ!」
紫苑の片膝が折れた。頽れる身体を、右手を杖にして支えた。再度立ち上がった勢いで身を翻して、尚も叫んだ。
「沙耶ッ!! 私のお願いを聞いて!」
「紫苑――!?」
「沙耶は、みんなを助けて! あなたにしか頼めないの!」
妃沙耶は、コンクリートに顎を押し付けたまま、瞬きをした。そして、脇に抱えていた楕円形の物体をコンクリート上に置いた。
「紫苑、聞いて! アレクが……これを守って瓦礫の下に……!」
「アレクが――」
紫苑に、動揺に動揺を重ねる暇はなかった。対面の由紀子は立ち上がり、片腕ながらファイティングポーズをとっていた。その由紀子が、妃沙耶の手元をチラリと見遣ると、小さな口をあんぐりと開けた。
沙耶がコンクリートに置いたのは、由紀子が預かっていた折笠悠の骨壺である。それは、由紀子自身に、愛の失念を――自己の喪失を示すものに他ならない。あれをよその人間に持たせるほどに、今の由紀子は独りを選んだはずだった。
それでも、由紀子の口は、自らを独りにさせようと動いた。
「妃沙耶。それを棄てなさい」
沙耶は頭を横に振った。由紀子は、骨壺から目を離さない。そこに、紫苑の好機が見えた。紫苑は、身を屈めて走り出す用意をした。
「棄てて……。棄てなさい!」
由紀子は金切り声を上げ、妃沙耶の方へと走り出した。その直後、紫苑は由紀子の横から突っ込み、その頬へ飛び蹴りをぶちかました。
「ぐおあッ!」
美しさの欠片もない汚い呻きが由紀子から飛び出た。紫苑は飛び蹴りの流れで由紀子に跨り、組み伏せようとした。しかし、由紀子もまた巴投げを仕返して、紫苑を離そうとした。
「沙耶! 早く行って! みんなで可奈ちゃんを――」
紫苑は、取っ組み合いの最中にそう言った。沙耶は骨壺を抱え直して、ビルの屋内へと戻っていった。
頬をつねり、爪を立て、紫苑は動かない左腕を鞭のように振るって、由紀子の頬をぶった。紫苑は、沙耶が行ったのを視認してニヤリとした。由紀子と紫苑は、互いにふらふらとファイティングポーズをとり、一メートルの間合いで向き合った。
「妃沙耶を遠ざけて、私を侮辱したのね」
「違う。自分のことは自分でカタをつける――それだけよ」
「気に入らない! 弱虫の小娘がいい気になって――!」
「私は弱いかもしれない。でも、もうあなたを恐れない。あなたは悲しい人よ、由紀子」
「憐れむのは、やめて!」
「由紀子、あなたは自分を独りだと思い込んでいるから、狂気に逃げてしまう――」
「黙れ! 私はもう一人のお前だッ。お前は、私の孤独を分かりはしなかった! 誰一人として――私の苦しみを知りはしなかった! この怒りも、悲しみも、憎しみも、虚しさも! お前に分かるはずがないんだ! 死ね! 死ね死ね死ね死ね! 殺す! 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――――!」
由紀子は、がむしゃらに殴り掛かる。受けようとした紫苑の左手が、跳んだ。
「分からず屋! 分からず屋が!」
「殺す殺す殺す殺す――――――――!」
「狂気に流されないでよ!」
涙が出た。雨。
「殺す! 殺す! 私よ! 死ね――――!」
由紀子の鋭利な金属が剝き出しになった右腕が、紫苑の右肩を鋭く刺した。
「このォ!」
それでも、紫苑は止まらなかった。ブラウスの下で血がどくどくと滲むのも知らず、由紀子と同様に鋭利な槍と化した左腕を引いて構えた。その意思はただ一つの叱咤となった。
「私の! 私の、臆病者ォ――!!」
紫苑は、ミックの左腕によって、由紀子のおぞましいはらわたを貫いた。幾つもの人間を細断した鋼鉄のシュレッダーは、その一突きを砕くことだけは出来なかった。
瞬間。
紫苑の脳に、五感を消し飛ばす感情の嵐がどっと吹き込んだ。
どす黒く凍てつく「死ね」の吹雪が全身を打つ。
「好き」「嫌い」の昼夜の巡り。
「誰か助けて」と、桜の花びらが手のひらをすり抜けていく。
「寂しい」「苦しい」「辛い」と、雨が降り注いで、泥沼に足を取られる。
手を取ってくれた折笠悠の四肢が、由紀子のはらわたをくぐって肉片に変わる――「虚しく」全身を吹き抜ける、何もない風。
ああ、そうか。
これが寄道由紀子の、紫苑でもミックでもない私が受けてきた、全てなんだ。
紫苑が見上げる由紀子の顔は、もう元来の美しさからは程遠い。所々の肌が破れて首元まで、人工の骨格と筋肉が露わになっている。片目は陥没し、もう片方もまた、皮膚が剝がれてガラスの眼球がさらされている。その茶色い瞳が、かつてなく美しいと、紫苑は素直に思った。
いま、由紀子の思惟が、身体に巡った。
――今、初めて分かった気がするの。人と触れる暖かさが。このために、虚しい思いを重ねてきたわ。幾ら重ねても喜びの無い日々を。愛とも恋ともつかない、安らぎと喜び――
「由紀子だって、生きてるんだよ」
――そう。希望……。やっと、希望を持って死んでいける。謝らないと。梗治にも、正化にも、悠にも。償いきれなくても――
「それでも、私は許すよ。あなたは私だもの。あなたの罪すら、背負えるかもしれない」
「そう。なら――――一緒に死にましょう?」
「!?」
紫苑の意識は限界を越えていて、朦朧としていた。されるがままだった。
由紀子が紫苑を抱きしめたまま屋上の端に行った。
飛び降りた。
そしてアレクが、二人を追って飛んだ。
落ちていく二人を何とか抱えて、アレクは地の底へと落ちていった。
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