第44話 由紀子と紫苑とミックと


 闇夜に雨が降りしきる。天井の破れから稲光が閃いた一瞬、モニターだらけの部屋に、おぞましい影が浮かび上がった。


四肢を露わにした由紀子は、斃れた中年を踏みつけて、高らかに笑っていた。


「ついに……私は自由を手に入れたわ」

「由紀子……」


 冷ややかに艶めいた笑みを浮かべて、由紀子は天井の破れに跳んだ。紫苑もすかさず、サイボーグの両足で追った。

由紀子は屋上に着地するや、踵落としで厚さ五十センチのコンクリートを砕いた。

 その、身の丈ほどの塊が紫苑に降りかかる。紫苑は左の拳を突き出してコンクリートの塊を砕き、軽やかに屋上へと着地した。そして、紫苑は焦燥した。今の攻撃の狙いは自分ではない。その下にいる二人だ――。


「しまった! 梗治ッ! 沙耶―ッ!」


 紫苑の足元で、数千のモニターのガラスがバリバリと割れ、コンクリートの粉塵が大きく舞い上がった。思わずよそ見した紫苑に、すかさず由紀子が飛び掛かかる!


「死ね――ッ!」


 両目を潰さんと眼前に迫る高速の抜き手。紫苑は、反射的に左足を下げて半身になり、鼻先を過った由紀子の細い腕を、両腕で捕まえた。


「このォ!」


 紫苑は全身を鋭く回して、由紀子の身体を自分の背中にピタリと着けた。回転の勢いを地面に向ければ、それは一本背負いとなる。紫苑は、由紀子をコンクリートへと苛烈に叩き付けた。

 由紀子が、声にならない声を上げる。紫苑は由紀子の腕を離さず、息を整えながら彼女を睨んだ。


「あなたの負けよ。由紀子」

「死ね」

「なっ――」


 銃声が轟く。由紀子の左腕には、武器庫から持ち出したらしいショットガンが握られていた。紫苑は、三メートル跳んだ先で仰向けに倒れていた。一瞬でも判断が遅ければ、上半身が吹き飛んで確実に死んでいた。


「あ……ああ……ぐっ!」


 紫苑は、何とか起き上がった。血に染まる制服の袖の中で、左腕はもう動かない。

 雨に濡れて薄らぼんやりと光る、はだかの由紀子。機械的に歩み寄る彼女の腹部に、粉砕機の鋼鉄刃が鈍く輝く。ショットガンを構えると、ターミネーターのようだった。


「しね」


 再びの銃声が散弾を撒き、紫苑の両の義足を蜂の巣にする。紫苑は跪いた。

 由紀子は、もう一度ショットガンの引き金を引いた。弾切れだった。由紀子は銃身を握り手に持ち替えて、銃床を振りかざす。


「私を一人にして……!」


 癖毛を濡らした紫苑の頭上に、由紀子は銃床を振り下ろした。

 紫苑は、左腕でそれを受けた。由紀子は、何度も、執拗に銃床を叩き付けた。

 紫苑の左腕は拉げた。紫苑は右手で腕を支えて堪えたが、由紀子は叩きつけるのをやめると、その流麗な脚を蹴り上げて、下からミックの左腕を折った。

 由紀子は次いで銃床を構え、バットでボールを打つようなスイングで、紫苑の空いたあばらをぶん殴った。紫苑の身体は、銃床に持ち上げられて仰向けに飛び、背中と後頭部を強く打って、動けなくなった。


 動けない。雨音が遠のき、意識の底に、紫苑は沈んでいく。紫苑の前に誰かが立っている。由紀子? 梗治? 悠? 違う。大きな二つの癖毛を付けた少女。ミックだ。


 ミック。自分よりも戦えたという、ミック。甘い記憶だけを残して、後を全て、ミックという者に託せるなら、それでもういいじゃないか。

紫苑は、ミックに手を伸ばした。


 しかし、ミックには右腕が無かった。紫苑は左腕を出そうとした。自分の左腕は、無い。


立とうとした。両足が無い。ミックには両足がある。


――ミック来て! 私に、私として生きる力を……!


 紫苑の右手に、ミックの左手が伸びる。二つの手のひらは重なり、指の一本一本を絡ませて祈るように繋がった。折笠紫苑とミックは目をつぶり、耳元に、鼓膜を震わす雨音が甦る――。


 遠く、雷鳴が轟いた。意を決して、紫苑は眼を開けた。


「くっ――!」


 由紀子の五指が、紫苑の右腕を掴み、腹で光るシュレッダーに引き込もうとしていた。紫苑は、由紀子の手を払った。きつく握られていた感触が、右腕にずきずきと残る。由紀子のガラスのような双眸がどこを見ているのか、紫苑には分からなかった。


「由紀子ッ! 目を覚まして! あなたは狂気に身を委ねてるのよ!」


 由紀子の瞳が、我に返ったように紫苑を捉えた。そして、目を大きく見開いたかと思うと、笑みを浮かべた。


「――それがなんだというの?」


「悪い事よ。だって、そうでしょ……!? 自分を失って人殺しをするなんて!」


「ええ。私は人の命を喰らい、やせ細る心を満たしてきたわ。でもそれは、愛することと何が違うの? 命を食べて生きる当たり前の営みと、何が違うの?」

「それはっ」

「答えなさいッ!」

「……あなたは命を見下しているから、弄ぶんだ!」

「いいえ。私は、今まで奪った全ての命を愛しているわ。美しい命を愛するからこそ、愛を手に入れるために殺し続けてきたの。そう。殺すことで……私の心には彩りが残る!」


 由紀子の腹のシュレッダーが唸りをあげた。片腕で紫苑の肩を抑えて、再び紫苑の右腕を掴んだ。瞬間、紫苑は思った――寄道由紀子の瞳は稲妻のように美しく、哀しい。ガラスの瞳は恐れを払おうと震えていて。だから、ただ一つの言葉に砕かれるだろう。


「そうやって――傲慢で! 自己中心で――」

「だから?」

「あなた臆病なのよ!」


 由紀子の顔が凍り付いた。


「可愛くない子。殺してあげる」

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