第38話 女たち
マスターが、赤いラジオを点けた。ニュースが流れる。数日前に吉祥寺でオートメイドを轢いたトラック運転手が不起訴になったという話だった。可奈のことだと分かった。
ドアベルが鳴った。客が来たと思い、紫苑が真っ先に席を立った。
「いらっしゃいませ!」
「……お、おう。ただいま」
聞きなれた声に、紫苑は恐る恐る顔を上げた。
「ア……お帰り」
「た、ただいま」
黒サングラスと、新調したレザージャケット姿で屹立するアレクだった。
紫苑は両手で顔を覆って、席に戻った。
「元気そうじゃないか」
アレクが言うと、紫苑はこくこくと頷いた。
「き……えと、アレクも、右腕はどうなの?」
「大事ない。矢は骨と骨の間を通ってて、血管も破らなかったんだ。不幸中の幸いだな」
アレクはジャケットの右裾をまくって、包帯の巻かれている箇所を見た。骨の間とは、尺骨と橈骨の間のことである。三条蘭がアレクの前に来て、深々と頭を下げた。
「荒川様、本当に申し訳ありませんでした。私にできることがありましたら、何でも言ってください。何か償いをしなくては済みません……」
「アレクでいいよ。マスターもお疲れさん」
アレクは、意図してか、紫苑の隣に座った。
「マスターが〈赤線〉の関係者なら、悠がこのビルに住んでいたことも納得できる。マスターは、悠とはただのご近所さんではない。そうだろ?」
そう言われて、マスターは、眼鏡の蔓を押し上げた。
「コーヒー、飲むかい?」
「大きい器でたっぷりとね」
紫苑が、ちらちらとアレクを見てくる。
「ウェイトレスは、マスターの趣味かい?」
マスターはむせた。
「やっぱりな。けっこう似合ってるぞ、紫苑」
紫苑はアレクから目を反らした。
「……梗治のバカ」
大きめのコーヒーカップにアレクのコーヒーが三分の一ほど残っている。湯気も立たなくなった頃、少女たちは制服に着替えていた。大体の事情も粗方共有し終えた。
「マスターはどうして〈赤線〉を辞めたんだ?」
「わ、私は逃げたようなものだよ。じ、自分で何十人ものプランテッド造りに関わってしまって。か、彼女たちの人生を奪って、こちらの実験につかった。ほ、本来なら、私は紫苑くんたちに殺されても仕方のない男なんだ。
ざ、懺悔してもしょうがないね。わ、私はトヨシマで技術者をやってく中で、オートメイドの開発と生産に力を尽くしてきた。その点で言えば、彼……染井正化と私は同志だった。彼が十年前に立案した〈オートタウン計画〉が上層部に止められた時、私は彼に同情したものさ」
「〈オートタウン計画〉?」
「ああ。都内の埋め立て地に、オートメイドで営まれる実験都市を建てる計画でね、いわば、この街の元になった青写真だよ。
彼はトヨシマを辞めて、この街でテロを起し、〈赤線〉を立ち上げた。
私はテロの首謀者が彼とは知らず、この街の再生に参加するつもりで〈赤線〉に入った。由紀子に指示されて紫苑くんの両足を造った時になって初めて、彼がマッチポンプ式に人を攫ってオートメイドを増やしていると知ったんだ。
私は〈赤線〉を辞めて、この店を始めた。人を癒すためでもあるが、ひとを癒すことで、自分も癒されたかったのかもしれないね。
店を開いて間もない頃、悠くんと出会った。彼は私の出自を知っていた。彼は十年前のテロの首謀者を捕まえたいと言っていた。私は、罪滅ぼしの積もりで、彼に協力したんだ。
悠くんが死ぬ前の日、彼は君宛てに手紙を用意していたんだ。もう少しはやく、君が荒川梗治くんだと分かっていたらよかったのだけど」
アレクは、マスターからの手紙を受け取り、その場で開いた。
『君にどうしても会わせたい人がいる。この街で。でも、この手紙が、マスターから君に渡っているということは、僕の悪い予想が当たったのだろう。君を頼りにしたい。この出来事にケリを付けるのは、君でなければならない。染井こそ、君が好きだった紫苑を半殺しにし、冷凍睡眠カプセルに入れ、その魂を寄道由紀子に植えた張本人なのだ。彼の犯罪は明確だ。奴の悪行をまとめたレポートを、由紀子に託した。それは……』
アレクは読み切ると、その手紙をジャケットの内ポケットにしまった。
「聞いてくれ。これから、染井をしょっ引くために、由紀子に会いに行く。紫苑、来るか?」
紫苑は、答えに詰まった。
「それは……」
また、来客のベルが鳴った。今度こそ普通の客が来たと思い、迎えに出た女の子たちは、次の瞬間、凍り付いたように固まった。
「私に用があるんですって? 外から聞こえましたけれど」
寄道由紀子が、来たのだった。
「準備が出来たのか?」
フフ、と由紀子は笑んだ。
紫苑が口を挟む。
「由紀子、あなた待って」
由紀子は、アレクを抑えてその唇に唇を押し付けた。珈琲店全体が、凍てついた。由紀子は、誰に憚ることなく、何度も、深くキスを求めた。アレクは抵抗していたが、腕の傷のせいか、由紀子の力の方が勝っているようだった。
ようやく、アレクから顔を離すと、由紀子はこれ見よがしに紫苑と目を合わせた。
紫苑は、店を飛び出した。女子たちも紫苑を追って出た。
店には、由紀子とアレク、そしてばつの悪そうなマスターだけになった。
「お前……!」
「好き合っていれば、当たり前のことでしょう?」
その身体は、いくら激しいキスをしても、冷たいものだった。
アレクの瞬間的な怒りは、その冷たさの名残りのせいか、憐れみに変わった。思わず、その奥に温もりを求めて、由紀子を抱き寄せた。彼の首元に、由紀子の金のブレスレットがひんやりと当たった。身震いをした。
由紀子から離れて、アレクは、
「マスター、コーヒーごちそうさま。また来るから」
由紀子のガラスのような双眸が何を見ているのか、アレクは分からなかった。
由紀子が翻ると、マスターが言った。
「ゆ、由紀子くん。君は、君なのだよ。君という人格が既に出来ているということは、忘れないで欲しい」
由紀子は冷ややかに、
「なら、もうあなたの指図も不要ですね」
と返して、アレクと店を出て行った。
赤いラジオから、夜にかけての雷雨が予報された。
天気予報の後は、音楽番組に変わり、『ラ・カンパネラ』の旋律が、雨音のごとく店に降り注いだ。
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