第36話 少女たちの安らぎ
「蘭、大丈夫? まだマスターに直してもらったばかりなのに……」
「舞……私の舞……」
紫苑は困った。自警団一同で丹波珈琲店の手伝いをしていたら、突然、長髪の三条蘭が抱き着いてきたのだった。
蘭は、客席の空いた皿を落としてしまった。割れる音が、小さな店内で嫌に響いた。
「舞? ミックじゃなくて、今度は誰?」
三条蘭は、マスターが用意していたウェイトレス姿だった。紫苑も、花恋も、黒を基調とした、ロングスカートのメイド服に似た格好をしていたのだった。
蘭は、しばらく紫苑の小さな胸に顔を埋めていたが、また我に返ったように、紫苑と目を合わせた。
「あら……ごめんなさい、紫苑。不意に意識を盗られていたみたいです。染井正化に」
「正化が? あいつが、抱き着くだけですむもんかよ」
箒と塵取りを持った村山花恋が、ざらついた声でそう言った。花恋は割れた皿を手際よく掃いて、カウンター内のゴミ箱に捨てた。
「でも、それくらいしかありえませんよ」
「まあ、確かに」
「き、君たち、もう休憩でいいよ。お、お客さんも帰ったから」
マスターが、カウンター席に三人分のコーヒーを置いた。花恋、蘭、紫苑は「はーい」と声を合わせて、席に着いた。ランチタイムのピークが過ぎて、店には客がいなかった。
「マスター、元気そうで良かったよ。こんなところでカフェをやってるなんてな。おかげで、みんなの修理とメンテもできたし」
カウンターの内側にいる妃沙耶が、オーブンからカップケーキを取り出し、各々の前に置いた。
「しかもマスターは、私たちに味覚を付けてくれたのですから」
「そう言われちゃうと、甘いものが食べたくなるよねぇ」
蘭と花恋は、出来立てあつあつのカップケーキに、頬を緩ませた。
花恋が、真っ先にカップケーキを頬張った。満面の笑みだった花恋は、ケーキを噛めば噛む程にその眉をひそめ、怪しい顔になっていった。
気になった蘭も、続いて食べたが、花恋と同じような顔になった。
「なんでカップケーキが辛いワケ?」
「……味覚の機能が可笑しいのかしら」
マスターと紫苑も口にした。紫苑は慌てて飲み下して、口直しのコーヒーを啜った。
「かっ……辛い! 辛い辛い! なにこれぇ! 沙耶、何をいれたの!?」
ケーキを焼いた張本人は、何食わぬ顔で
「ハバネロ」
と答え、自身もそのケーキを食べた。
「う~ん! おいしぃ。やっぱりこのくらい刺激がないとね。コーヒーと相性抜群。流石、マスターね」
「そ、それはどうも……」
「沙耶さんだけ、味覚が壊れてるのではありませんか?」
蘭に訊かれて、沙耶は否定した。
「私、辛党だから」
「いや味の趣味押し付けんじゃねぇ!」
花恋が、沙耶に怒った。
「えー美味しいのに」
「んな訳あるかッ!」
紫苑は、あはは……と苦笑した。花恋はマスターに向き直った。
「ったく。激辛はともかく、味が分かるってのはいいよな。いままで、人付き合いで食べることはあっても、なんにも感じなかったし。でも、これなら食べるのが楽しくなる」
「オートメイドのエネルギー補給は、バッテリーの充電か、内燃機関の燃料ですからね」
そこに、マスターが口を挟んだ。
「プ、プランテッドが殺人者に陥る原因は、ヒトとして行っていた欲求を満たす行動――即ち食欲、性欲、睡眠欲の解消が出来ないことにあるのかもしれないと思ったんだ。だ、だから、味覚を付けて食事を楽しくできるようになれば、心を満たす助けになると思った。き、君たちの反応を見ると、成功のようだね。ち、ちゃんと表情が豊かだ」
マスターは、別のオーブンから自分が焼いたカップケーキを出した。沙耶以外の三人が警戒していたので、マスターは一つ食べてみせて、にこりとした。
すると、三人は目を輝かせて、各々カップケーキを頬張った。
ん~、と唸ってから、
「甘ぁ~い!」
という三人の満たされた声が、半地下で甲高く響いた。
沙耶は一つ食べて、
「甘い。刺激が足りない……」
と、残った激辛カップケーキを余さず食べた。
「そういえば、アレク、だっけ。今日退院だったな」
花恋は白磁のカップを傾けて、紫苑に訊いた。
「う、うん。そうみたい。マスターの携帯端末に、連絡が入ってたの」
少女たちは、紫苑の反応が今一つなのを見て、互いを見合った。
花恋は訊いた。
「どうした? あんま嬉しくないのか?」
「別に、そんなことないよ」
「なんかあったな? 素直に吐いちゃえよ?」
「別に」
紫苑は、頬を赤らめていた。
「会いてぇか?」
「ん……」
蘭がささやく。
「抱きしめたいですか?」
「……うん」
沙耶が、ケーキを飲み下して言った。
「キスしたい?」
「う…………えっ」
紫苑は顔を上げた。囲まれている。にやにやした三人のJKに。マスターは素知らぬ顔で自分のコーヒーを飲んでいた。
「マスタァ~!」
「せ、青春だね」
「それっぽく済まさないでくださいよぉ!」
「ははは……。そ、そういえばさっき、舞と言ってたね」
マスターは、紫苑を気遣ってか、話題を替えた。
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