第32話 由紀子からの誘い
救急車で病院に運ばれたアレクは、腕の治療を受けた。骨折や血管の損傷もなかったが、様子見で三日間入院することになった。
アレクは、入院の決まったその夜に、病室を抜け出していた。雨の止んだ朧月夜の下に、ネオンも眠る頃だった。彼は、由紀子と会おうとしていた。由紀子に渡した名刺の電話番号に、由紀子からのショートメッセージが届いていたのだ。
待ち合わせ場所は、吉祥寺の地下である。
吉祥寺は、駅を中心として丁字型に百貨店を設け、それを基にして街づくりをしてきた歴史がある。
駅を南下すれば、マルイ、北上すれば、伊勢丹があった。伊勢丹百貨店から東には近鉄、西には東急の百貨店があり、その四点を俯瞰して線で結ぶと丁字型になるのである。
その百貨店同士の間に、アーケード商店街が形成されることになり、半世紀以上の時を経て、現在の繁華街を形成するに至る。
元号が永光になった時分には、この丁字の地下に新たな街がつくられていた。
それが、ムーンロード地下街である。
主だった入り口は、旧伊勢丹の目前にあるタバコ屋の、脇の階段である。他にも、元々アーケード沿いの地下にあった多数の店舗から、地下街直通の通路が開通され、いまや東京駅や新宿駅もかくやとばかりの迷宮が出来ていた。
アレクは、吉祥寺に帰ってきてから、この地下街を歩いてみたいと思っていた。
駅の北側に出て、商店街のアーケードをくぐる。オートメイドか人間――人型の、服を着たどちらかが行き交う。
アレクは、アーケードを左に曲がった。靴屋、宝くじ売り場、カラオケボックスと、その対面の旧伊勢丹に挟まれたレンガ色の道の先に、レンガ色の途切れた場所があった。鋼鉄製の金網で出来た道だった。地下への空洞があるようだが、金網の前には〈立入禁止〉の立て看板が立っている。
タバコ屋を見つけた。その脇にある階段を下る。半地下に、ファミリーレストランや理髪店があり、更に奥の階段を行くと、砂埃の混じった開放的な風が吹き込んできた。
ムーンロード地下街が広がっていた。
それは、さながら吹き抜けのショッピングモールだった。天井の金網から差し込む微かな月明かりは、吹き抜けの底にあるはずの中庭を、闇に隠している。薄暗い蛍光灯のようなわずかな光が明滅すると思えば、天井を自動車が渡っているのだった。
天井を見上げるアレクがいるのは、地下街の最上階だった。見下ろせば、吹き抜け越しに二、三、四階のキャットウォークと、それに伴う商店が連なっており、まばらに人影が行き交っていた。また商店と商店の間にも小路が窺えるが、その奥は薄暗くて見えない。
アレクは、脇の商店を一瞥した。寂れた居酒屋、狭いカードショップ、革製品を主とした鞄屋、ジャンク屋、需要の分からない無線機屋。
商店の合間にある階段を下った。
踊り場の壁には〈赤線〉の「クリーンな世の中へ」という不可解なポスターの上に「目玉 買い〼」「この人 探して〼」「求人募集」のチラシが貼られ、さらにその上から長髪の女神のスプレーアートが股を開いていた。
似たような雑多な落書きが、階段の最下層までびっしりと埋め尽くしていた。
アレクは、地下四階の中庭に出た。
風が砂粒を吹き飛ばして、コンクリートに出来た水溜りに波紋を浮かばせる。中庭には、砂埃を被ったブランコと滑り台、そしてソメイヨシノの大木が立っていた。
ホームレスのように横たわる男のシルエットが水溜りに横たわっている。よく見ると、目がくり抜かれ、手足が欠落していた。オートメイドの残骸らしい。
『桜の木の下には、一万のカプセルが埋まっている』
アレクは、携帯端末を取り出して、由紀子から届いたメッセージを読み返した。
花見の時期はとうに過ぎていて、青い若芽が枝についていた。
「こんばんは」
携帯端末を持つ手の向こうに、白く細い脚が光っていた。視線を上げると、ワンピース姿の由紀子が来ていた。
「ここでよかったのか?」
「ええ」
「用は何だ?」
「夜のデートを、ぜひ」
「依頼料は高いぞ?」
「同級生として、付き合ってよ」
「そうなのか? 俺たち」
「そうよ。私は地元っ子で、この辺りには明るいの」
「じゃあ、案内を頼む」
由紀子は、アレクのジャケットの袖を掴んだ。アレクは気にしないようにした。
地下の入り口からははっきりとしなかった、退廃的な臭いと、穢れた街並みの奥を、由紀子は歩いて行った。
すれ違った女の子のひとりが、由紀子を避けるようにして歩いた。オートメイドなのだろう。ムーンロードは思いの外、長い。
「同級生、か」
「ええ。学校のことなんて、覚えてないけれど」
「俺も、覚えていることは少ない」
「そうなの?」
「色々あった十年だった。そうでなけりゃ、こんなマッチョにはならない」
由紀子は、くすりと笑った。
「詳しく聞かせてくれる?」
「構わないが、ひとつ条件がある」
「何?」
「あとで君のことを聞かせてくれ」
由紀子は頷いた。
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