第30話 由紀子の過去 その二
傍らのメタルの骸骨越しに、紅い頬の悠を想った。
由紀子が悠と出会ったのは、まだ娼婦の仕事をしていた頃だった。彼は、〈赤線〉のマンションに通う常連の一人で、変わった客として知られていた。彼は、行為をしない代わりに、話を聞いてくれるのだという。彼と会ったプランテッドの誰もが、彼を好意的に捉えていた。それは、行為をしないからではなく、「彼と話すと元気が出るから」という、これまたプランテッドらしからぬ感想が大半を占めていた。由紀子は、彼の指名を受けて会う事になった。
折笠悠が由紀子の部屋に入ると、
「君のことを、教えて欲しいな」
と言って、隣り合わせに座った。
「ごめんなさい。私、自分がどういう人だったのか、良く分からないの」
「可愛いプランテッドを何人も見てきたけど、君ほど端正な人は初めてだ」
わぁうれしい、と返して、由紀子は続けた。
「お客さん、有名なんですよ。エッチしないのに、こんなところに通い詰めてる変な人って」
「あら、俺ってば有名人なの? でも、君だってこの辺じゃ有名さ。いろんな意味で」
青年は部屋中をぐるりと見回して、最後にもう一度由紀子を見た。「ハハ」と笑う。
「どういう意味かしら?」
「素直に言ったらどうだい」
「尋問のつもりかしら?」
「そう思ったならごめんよ。でも、俺の心当たりは正しいみたいだ」
彼の瞳はまっすぐに由紀子を見つめていた。由紀子は黙った。一瞬、彼を殺そうかと思案した。それを読み取ったのか、彼は笑った。
「これ以上は僕からは言わないよ、寄道由紀子さん。君が自分から告白するならいいけれど、僕としては知ってない体でいたい。というのはね、俺は君が好きなんだ」
「……はい?」
「本気だよ。街角で君を見たとき、なんていうか懐かしい気持ちになってね。あれはそう、俺が大好きだった妹を想ったときの満たされる心地というのかな。とにかく一目で君に惚れたのさ」
啞然となっていた由紀子は、ひとつ息を吐いた。
「……なるほど。そう言って、他の子も喜ばせてきたんですね」
「違う違う。確かに他の子とも話はしてきた。でも、彼女たちは自分たちがどうしようもない衝動に駆られて、暴力や性行為に及んでしまう罪悪を俺に言ってくれたまでさ。俺は、そういうプランテッドの話を受け止めて、俺が世の中を絶対に良くするから楽しみにしててよねって言っただけ」
「沢山の女の子を救う、ヒーローにでもなったつもり?」
「まぁ僕自身、正義の味方みたいなもんさ」
悠はポケットから煙草を取り出して、由紀子に見せた。由紀子が机の灰皿を指差すと、彼は立ち上がって、使い捨てライターで火を点けた。彼は煙を吐いて、
「あの子たちはみんな自分から話をしてくれたよ。普段の客じゃあ、身体は開いても、心まで開けないし、よしんば全てを晒しても喜ばれないでしょ。そうするとさ、みんなプランテッドとして心を保つってことが、分からないんだよ」
「心を?」
「そう。これは持論だけど、誰かに心を開かないと、心はダメになる。機械でも生身でも、同じなんだよ。アニミズムってあるだろ? 万物に心は宿る。せっかく宿るなら、健やかでいてほしいって、俺は思うなぁ。もちろん君もね、寄道由紀子さん」
「あなたって面白い方ですね」
「そう言われるとうれしいねぇ。俺は折笠悠。職業は……とりあえず正義の味方で」
整った歯を見せる彼を見て、由紀子は胸の内が満たされる心地がした。少しでもそばにいて欲しいという言葉が心に浮かんで、今度は急に胸が苦しくなった。機械の身体に痛覚はないが、確かにそう感じたのだ。由紀子は、煙草を灰皿に押し付ける彼の振り向きざまに、唇を彼のそれに重ねた。その夜はじめて、折笠悠はプランテッドと同衾した。
由紀子が娼婦を辞めても、折笠悠との付き合いは続いた。その裏で由紀子の殺し屋稼業は続き、ミックを解凍してからも、由紀子の生活には人との交流が続いた。
ある時、正化から一人のプランテッドを処分するよう依頼がきた。身体を売る仕事を拒み、他の仕事への斡旋も断るので、不要とみなされた子だった。由紀子は、この処理をミックに任せ、自分は傍観することにした。
ミックは、路上を徘徊していたそのプランテッドに、プロレス技をかけて倒した。あとは地下の粉砕機にかければ済むというところで、ミックはそのプランテッドを生かしたいと言ってきた。由紀子はミックを押しのけて、そのプランテッドを抱き上げた。ああ、と手を伸ばすミックの哀しい顔に、折笠悠の姿が重なった。由紀子は苛立ち、プランテッドを投げ捨ててミックの自由にさせた。
それから由紀子はプランテッドの処理の仕事はミックに任せ、殺し屋稼業だけを続けた。由紀子の知らぬ間に、ミックは自警団を拡張し、処理の対象だったプランテッドのうち数人がミックの仲間になった。由紀子はミックが独り立ちしつつあると思い、彼女を放任した。ミックに自分の正体を聞かずとも、折笠悠がいれば自分は満たされるからだった。しかし、それも長くは続かなかった。
染井正化に、悠との交際がばれてしまったのだ。婚約指輪を正化の前で嵌めてしまっていた。ほどなく、正化から悠を殺せという指示がきた。由紀子は、悠とこの街を抜け出そうと決めて、彼を部屋に呼んだ。
悠に、洗いざらい話してしまおう。殺しをしてきたことも、彼ならば受け入れてくれる。楽になって、全てを棄てて、彼と生きるのだ。決心した由紀子の身体の中に、低く、重い唸りがあった。
彼は部屋に入ると、いつものように笑った。由紀子はたまらず、彼を抱きしめた。
「どうした?」
「ねえ」
由紀子は、自分の身体が肩を震わせて、嗚咽を漏らそうとしているのを感じた。嗚咽を漏らしたかった。泣けるなら、泣く。オートメイドでなければ。ミックのように、人間であったなら。沸き立つものを掻き分けて、言葉を継いだ。
「どうして私のことが好きなの?」
「愛してるんだ。僕も不思議で、なぜか君に惹かれてしまう。すごく、好きなんだ。僕は昔、君に似た人に救われたことがある。だからかもしれない」
悠は、「プレゼントだ」と言って金のブレスレットを由紀子の腕に巻いた。
由紀子には理解できなかった。自分の気持ちすら、理解できていない。「好き」という言葉に寄りかかっていたいのに、その「好き」という言葉を浮かべるたびに、「好き」という気持ちが分からなくなる。ああっ……。
「好き。好き……」
きつく抱いて欲しい。いや、突き放して欲しい。どうにかしてほしい。悠の温もりが優しくて、だから物足りなくて、欲してしまう。
だのに、悠は由紀子を離した。彼の手は、警察手帳を見せてきた。
「七十九人。君が殺してきた人間の数だ」
「……私に言わせるんじゃなかったの?」
「事情が変わった。僕がなぜ君を好きだったのか、分かったんだ。君の本当の名前は、折笠紫苑。君は、俺の妹だった。あのミックという子は、間違いなく俺の妹だ。君は妹のプランテッドだったんだ」
由紀子の身体の奥が唸った。
「あなたを殺せと言われた。でも……でも! 殺せない! 殺したくない! 私、私はただ、私を知りたいだけ……こんな私でも、本当の居場所を、本当の生き方を知りたいの。それだけなのに、どうしてそれだけのことが分からないの…………」
「俺は事実を言った」
「ああっ……!」
悠は、由紀子をもう一度抱き締めた。
「すぐに受け止めなくていい。君が望むなら、こうしてあげるから」
そうだった。由紀子にとって、彼は埋め合わせに過ぎなかったのだ。そうでなくては、どうして、彼の胸に抱かれながら虚しさが胸に広がるのだろう。自分の心を満たす、本当の欠けたものは何なのだ? どこにある? 誰が私を満たせる?
身体の芯が唸る。強く、強く、唸る。
どこからか声がした。
私の由紀子に触れるな!
それは、染井正化の。
途端、由紀子の意識は遠のいた。
「し、お――」
え?
我に返った。
右を見た。左を見た。血飛沫だった。下を見た。
腰から上のない身体が倒れている。
由紀子は裸だった。下腹部に、紅くじゅくじゅくしたなにかが垂れている。両手が赤い。足の周りが、べとべとする。腹いっぱいに、何かが満たされている。ミンチやモツを、いっぱいにぶちまけられたようだった。
自分の腹の奥に、鋼鉄の刃が光っていた。なんなのか、分からなかった。分かってしまったが、分かりたくなかった。地下の粉砕機が過る。アレが、自分のはらわたなのだ。
部屋のドアが開いた。
ミックだった。彼女は口元を抑えて辺りを確かめ、最後に由紀子を見た。
その目が怒りに燃えていた。
「由紀子ッ! あなたは、誰を殺したか分かっているの!」
「私が、私がお前だったなら……」
「由紀子!」
ミックが駆けて来た。お前が、私を満たすのか?
「お前を喰らってェ――!」
由紀子は、ミックの左腕をもらった。
それで満ちたのか、ミックを窓の外から棄てた。
翌日の夜には、早々に折笠悠の葬式を行い、翌々日にはアレクがこの街に来た。
そして由紀子の道程は、今日のこの地下道に至る。
毎日、何か一つを引き金にして、由紀子は半生を振り返る。そのたびに、腹の底が低く唸る。傍らのオートメイドは知る由もない。由紀子が彼を見るのは、侮蔑の意思を送る時だった。カプセルの連なりが終わり、自動扉が開く。
由紀子とオートメイドは地下道を抜けて、〈赤線〉の本社に入っていくのだった。
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