第四章 満たされぬ愛をいだいて

第29話 由紀子の過去

 雨が降りつづく夜だった。


 寄道由紀子と染井正化のオートメイドが肩を並べて入ったのは、LEDライトに彩られたホテルだった。いわゆる連れ込みのホテルで、雨宿りを言い訳にした男女が、由紀子とオートメイドの横を小走りに入っていった。その女の方がプランテッドだと、由紀子には分かった。


 由紀子とオートメイドは、ホテルのフロントに入った。目線を隠すように造られたアクリル板越しに、受付の女がいる。由紀子は女に、「今宵は月が綺麗ですね」と言った。それは合言葉で、受付の女は「お帰りなさいませ」と言って鍵を渡した。由紀子とオートメイドがエレベーターに入ると、後追いでずぶ濡れのミィちゃんが飛び込んだ。


 エレベーターのボタンの下にある鍵穴に、由紀子は渡された鍵を挿した。エレベーターは下降した。由紀子は、茶トラのミィちゃんを抱き上げて、


「可愛いねぇ、ミィちゃん」


 と、指先で頭を撫でてやった。動物の温もりを想い、次いで、彼のことを想った。


「きっと、あなたは暖かい……ん」


 金属の骸骨を露わにしたオートメイドは、折笠悠の指で由紀子の長い髪を梳いた。彼の紅い眼は、由紀子の艶めく髪を見つめていた。


「私ハ本気ダヨ、由紀子。君以外ノプランテッドヲ抹消スル。プランテッドハ、充分ナ社会性ヲ持ツコトガ出来ナカッタ」

「私も失敗作なのね」

「違ウ。君ハ特別ダ。君ノ心ハ誰ヨリモ清ク美シイ。何故ナラ、アノ折笠紫苑ノ心ヲ君ニ移植シタノダカラ」

「やめて。こんなところで」

「君ハ、十年間私ノ相手ヲ続ケテクレタ。君ノ褥ハ暖カデアッタ」


 暖か……であった?――由紀子には、オートメイドのその言葉が嘘に思えた。それゆえに、彼女の身体の中で低く唸るものがあったが、オートメイドがそれを気にする様子はなかった。


「君ニハ、次ノ役割ガアル。他ノプランテッドニハ任セラレナイ、トテモ大切ナコトダ」

「大切なこと?」


 エレベーターの扉が開いた。そこには、白い正方形のタイルが敷き詰められた天井と一本道が伸びていた。


 道を挟むように、棺ほどの大きさのカプセルが複数の列を成して連なっている。カプセルは道の果てまで続いており、総数は千を超す。ガラスに閉じられたカプセルの一つ一つに、裸体の娘たちが眠っている。彼らこそ、〈赤線〉が契約し、或いは強引に攫って冷凍睡眠させた娘たちであった。そのカプセルの一つ、M19の番号が振られたモノは空だった。由紀子が解凍させ、ミックと名付けた娘が入っていたものであった。


 由紀子がミックを解凍させたのは、今から一年前のことだった。普通のプランテッドは、この地下通路の存在を知らない。由紀子がこの通りを知っているのは、染井正化の寵愛を受ける特別なプランテッドであるからに他ならなかった。


 由紀子の美貌は、染井正化によって造られた理想の女性像の反映である。他のプランテッドが、元人格の姿を模倣して造られるのに対して、由紀子の身体は予め造られていたものだった。正化は、十年前のテロの際に攫った多数の女性の中から、自らが望む人格を探し、ある少女を選んだ。


 その少女の人格を入れられて、由紀子は目覚めた。人格が記憶によって形成されるのだから、由紀子は自分の名前を知っているはずだった。しかし、由紀子は自分の名前が分からなかった。


 彼女が目覚めた瞬間に感じたのは、胸から全身を引き裂くような猛烈な悲壮だった。起動して間もない硬い人工筋肉が鈍かったために、由紀子の悲壮は表情に出なかった。目前で由紀子の誕生を寿いだ正化は、由紀子の感情を知ることはなかった。


 染井正化は、彼女を寄道由紀子と名付けた。正化は、生まれて間もない由紀子に言った。「原始人が火を使い、農業で生活を立てるようになったことで、人類は寄り道をするようになった。食べて、眠り、愛するまでの暇を、人は学問や知識の探究に費やした。そうして、寄り道の間に兵器を造り、イデオロギーを造り、コンピュータを造り――その果てにオートメイドを造った」と。


 正化は、工学による人造人間の完成という人類の目標を成し遂げたことを、誇りに思っていた。由紀子は、彼の理想の頂点にある存在であったのだ。


 しかし、正化の満足は由紀子とは関係のないものだった。彼女の心の奥の悲しみは、生まれたときからずっと消えなかった。思い出せない何かを想う度に、切なさがこみ上げて、流れない涙が流れているようだった。


 自分の生まれてきた意味が分からない。


 由紀子は、その切なさの正体を探りたかった。


 ある時、由紀子は地下街に迷い込んだことがあった。そのとき、無数の冷凍睡眠のカプセルを見つけ、その中で妙に親しみを覚えた少年を、解凍して病院に連れたことがある。付き添ってやりたいと思ったが、仕事の時間が迫っていたために、彼を放置して、由紀子はそのまま、その少年を忘れてしまった。


 由紀子の仕事は、他のプランテッドと同様に、〈赤線〉の娼婦であった。娼婦の仕事をしているうちに、由紀子の孤独な心は病んでいった。心と五感が離れているようで、触られても、何も感じない。暗い部屋の中でずっとテレビを見ているような虚無が数年間続いた。


 ある日、由紀子は客に「ぶってくれ」と頼まれた。マゾヒズムに寄った客はこれまでにもいたが、そういう暴力に快感を覚える客は珍しかった。由紀子は初めて、人間を殴った。顎に拳骨をぶつけた。彼女の拳に、男の血とよだれが光った。

 頭が湧きあがり、胸がすくようだった。由紀子は再び殴った。何度も、何度も殴った。男の「やめてくれ」という叫びは、聞こえなかった。気がつくと、男は死んでいた。


 由紀子の胸の中に、また空漠が戻った。


 殺人をした、という事実が、由紀子の胸の内をひずませた。

 ただ、男を殺す瞬間にだけ、自分の喜びがあると思うようになった。

 正化に人殺しを報告すると、彼は由紀子を抱きしめた。由紀子はなにも感じない。彼は、遺体を地下の粉砕機にかけろとだけ言って、あとは由紀子を好きにさせた。


 由紀子の客殺しは定期的に続いた。正化が、根回しして事実の隠蔽に奔走していたことを由紀子は知らない。正化は、そう経たないうちに由紀子に娼婦を辞めさせた。

 代わりに由紀子に与えられた仕事は、由紀子のように殺人をするようになったプランテッドの処理と、暗に回ってくる人間殺しの依頼だった。

 

 こうして由紀子は、空漠を満たすようになった。それでも、それは食事のように一時的な解消であって、不安の正体そのものへの疑問は深まるばかりであった。

 由紀子は、切ない感情の正体を探るために、正化に自分の元となった人間を教えてもらった。正化は自身の人格の元となった少女が眠るカプセルを教えた。


 それが、いま由紀子が通り過ぎたM19のカプセルだった。


 正化はプランテッドによる反逆を恐れて、プランテッドにカプセルの保管場所を隠している。由紀子だけが、プランテッドとして唯一、その場所を知る者だった。

 由紀子は、M19のカプセルと対面したとき、それがたまらなく愛しいものに思えた。中で眠る少女を抱きしめて、キスをしてあげたかった。しかしよく見ると、彼女の両足は腿から下が無かった。由紀子は〈赤線〉の技師を呼んで機械の両足を着けさせた。そして、自分の部屋で少女を解凍した。点滴を打たれながら目を覚ました少女は、冷凍睡眠の影響なのか、頭の前後に大きく跳ねた癖毛を作っていた。


 由紀子は期待した。彼女が名乗り、切なさの正体を言い当ててくれることを。

 しかし、目覚めた少女もまた、自分の名が分からないと言った。由紀子は失望を顔に出せぬまま、少女に名を与えた。

 M19を借りて、ミックと。

 

 由紀子は、ミックがいつか記憶を回復して、全てを語ってくれる時が来るのを期待して、ミックを自分の側に置いた。それだけでも、幾分か気が休まるような気がした。由紀子は、ミックに自分が身につけつつある戦いの技術を教え、二人で〈赤線〉の自警をすることにした。


 ――そのミックは今、紫苑という名を思い出してアレクの側にいる。今の由紀子の隣には、婚約者の身体をした、オートメイドが歩いていた。あの折笠悠の手を握るように、オートメイドの手をとろうかと、由紀子の手は震えた。由紀子は手を止めた。

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