第28話 紫苑は、紫苑

 折笠紫苑は、幅およそ一メートルほどの狭い路地裏を走っていた。

 視界の先に、白の上衣と紺の袴の弓道着の、蘭の姿が見える。彼女もまた、白い仮面をつけて表情を隠していた。目を丸くさせ、歯を見せて微笑む仮面の表情が不気味でならない。仮面の下には、蘭の愛らしい大和撫子の顔があるはずなのだ。それでもオートメイドの顔に過ぎないが、染井正化はその表情すら仮面に覆わせて殺しを敢行した。紫苑は、それに怒りを覚えた。


 蘭も、花恋も、沙耶も、可奈と同じプランテッドだ。どうして可奈ちゃんは死んだの? 紫苑は、冷えた両足で走るこの瞬間ですら、自分がミックであったなら可奈を救えたのに、と悔やんでいた。だから、足は一層強く地面を蹴り、気が付けば矢を避けるように紫苑の身体は三メートルの高さを跳んでいた。


 ビルの二階の室外機の角に、紫苑のスキニーが引っかかる。ビリッと破れる瞬間の羞恥すら置き去りにして、紫苑は蘭の直上に迫っていた。

 紫苑に武器はない。あるとしたら、いま蹴り落とさんと伸ばしている、この足だ。


「ラアァン!」


 蘭はすでに、矢筒から最後の一本を番えて、直上の紫苑に向けていた。

 ピッ、と弦が飛び、矢は紫苑の右足を貫いた。しかし紫苑は、痛みも知らないようにその足を伸ばして、踵を蘭の頭と仮面の間に落とした。

 仮面のゴムバンドに引っ張られて、蘭の上体は頭から地面に叩き付けられた。

 紫苑は、動かせない右足で着地したあと、後ろにふらついて倒れそうになった。しかし彼女の背中は、大きな体に包まれた。駆けつけたアレクが、後ろから支えてくれたのだった。彼の胸の暖かさを、紫苑は感じた。


「紫苑……足が!」


 紫苑は「大丈夫」と、首を横に振った。


「サイボーグの足に、痛みはないんだよ。アレクこそ、その腕……」

「俺はいい」

「でも……あっ」


 蘭が立ち上がった。彼女の仮面が、真っ二つに割れていてポロリと落ちた。深く虚ろな黒い瞳が、数度まばたきした。蘭は紫苑を認めるや、弓を手放して抱き着いた。


「ごめんミック……ごめんね……。また、あなたに救われた……あなたを傷つけた……」

「俺の腕は?」 


 アレクが突っ込むと、蘭は紫苑の胸を離れて、流れていない涙を拭う仕草をした。


「ごめんなさい。こう言ってはいけないのでしょうけど、あの仮面は、染井正化に付けられたのです。あの仮面を付けて、言いなりの殺し屋になれと」

「殺し屋?」

「そうです。私たちは、与えらえた目的を遂行する、出来たマシーンとしてあなたとミックを殺そうとしました。でもそれは、私や花恋の想いに反するものです」

「君たちにとっても、アイツは敵って訳だ」


 蘭は頷いた。


「これで私たちも〈赤線〉の処分の対象になりました」


 アレクと蘭は、紫苑を挟んで彼女の肩を担いだ。路地を出て通りに戻ると、由紀子が仰向けに寝る染井正化のオートメイドに傘を差し、彼が立つのを待っていた。

 オートメイドが立ち上がり、由紀子は彼の傍らに立ちながらアレクを見つめていた。


「アーア、コレダヨ。ヤハリプランテッドハ失敗作ダ。君タチハ、十年前ト同ジヨウニ処分シナクテハナラナイ。私ガ見限ッタノダ。処分ハ、絶対デアル」


 オートメイドがそう零したのを、アレクは聞き逃さなかった。

 アレクは怒鳴った。


「……由紀子! 君は、なぜこの男といるんだ! 彼の下らない理想と、君の管理する〈赤線〉が、人を殺しているんだぞ! そうだ、なぜ君は可奈を泳がせた? 縛り付けてでも外に出すべきじゃなかったろう!」


 由紀子は、オートメイドに目配せした。オートメイドはそれに気付かない。


「私はただ――私を知りたいだけよ」

「ドウシタ、由紀子?」


 オートメイドが紅い目で由紀子を確かめた。由紀子は、何でもない、と顔を伏せた。また、由紀子から低い唸りが聞こえた気がした。紫苑も、沙耶も、花恋も、その微かな唸りに硬直していた。


「じゃあね」


 由紀子とオートメイドが去っていく。アレクは追いたかったが、足の不自由な紫苑を置いて行くわけにはいかなかった。

 去るまえに、由紀子がアレクをみた。その唇が「きょうじ」と動いた気がした。アレクには訳が分からなかった。巨体に反して、心がきゅうと縮まるようだった。


「逃げるのか」


 アレクは、二人を追おうとした。

 しかし、止まった。


「梗……治……?」


 アレクは、自らサングラスを外した。振り向いて、立ち上がる彼女を見た。彼女の癖毛は、雨に濡れて重力に垂れている。


「紫、苑……」


 アレクは、し・お・んの三音を三度、口の中で転がした。言葉にするたび、滲んでいく視界に、十年前の晴れた光景が重なっていく。しおん。シオン。紫苑。


 ――そうだった。あの時の子は、折笠悠の妹は、ただ一人だ。


 どうして、十年前と同じ姿なのだろう。どうして、こんなにも、胸が苦しく、しかし開かれた心地なのだろう。心の穴が、満たされたようだった。

 彼女こそ、荒川梗治が恋した折笠紫苑そのものだった。


「紫苑――!」


 アレクは――荒川梗治は、一目散に彼女を抱き締めた。紫苑の腕が、アレクの背を抱いた。片腕は暖かく、片腕は氷のようだ。しかし小さな胸には、人肌の温もりがあった。


「きょうじ……梗治ぃ……」


 雨は降り続けた。しかし、梗治は寒いと思わなかった。

 紫苑の黒い瞳が、梗治の琥珀色の瞳を見つめた。

 疲れた紫苑は、濡れ切った身体を荒川梗治に預けるようにして、倒れた。

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