第22話 蘇る記憶
その後、文書はこのように続いていた。
捜査五課配属となった悠が、〈粉砕者〉の地下施設を利用した〈赤線〉に目を付け、調査をすすめながら生きてきたこと。
悠の目から見たオートメイドの日常は常人と何ら変わらないこと。
由紀子という女性との出会い。
最後に、婚約した由紀子とデートすることを書き残して、悠の記録は終わっていた。
寝室のドアが開いた。アレク? いや、違う。
事務用机の前に、誰かいる。紫苑は、咄嗟に見上げた。
「誰!」
背の高いシルエット。黒髪と、白のワンピース。
「お帰りなさい。折笠紫苑さん」
目の前の美人は、紫苑を待ち構えていたようだ。
「……あなたは、お兄ちゃんの……? どうしてここに?」
「寄道由紀子です。あなたとお話がしたかったの」
由紀子の目は、同姓から見ても美しい。まつ毛の下の丸い茶の瞳は、鋭利な光を湛えている。この人が鍵を開け、パソコンをいじったのだろうか。
「私と、お話……?」
「ええ。あなたは、十年前のことを覚えているかしら。あの時、何があったのか」
紫苑には、由紀子の意図が分からなかった。ただ、似たような問いに覚えがある。
「あなたも、私に何か思い出して欲しいんですか? 言っておきますけど、私はミックじゃないですよ」
これで帰ってくれればいいと思った。が、由紀子は寧ろこの返事を待っていたかのように笑んだ。
「そう。あなたはミックじゃない。十年前の折笠紫苑は、今になってようやく目覚めたの。眠れる街の乙女さん」
由紀子の言い草が気に入らない。何をもったいぶっている? 紫苑は「やめてください」と言うために口を開いた。
しかし。
「何言ってるの」
そんなことを言った。
紫苑は両手で咄嗟に口を塞いだ。一瞬、由紀子の笑みが崩れた。
「……? とにかく、あなたは折笠紫苑なのよ。ずっと、会いたかったわ」
由紀子の言葉で、反射的に紫苑の眉が引き攣った。紫苑の身体は、本人の意を介さぬまま拳を握り、眉間に皺を寄せて、片足を前に踏み込んだ。
「……あなたの顔なんか二度と見たくなかった」
由紀子は黙り込み、殺意まじりに紫苑を睨んだ。
数秒、沈黙が蔓延る。
すると紫苑は我に返り、慌てて居直してから罰が悪いように癖毛をいじった。
「す、すみません、さっきから何か変……。あなたは、私のことを知ってるんですか?」
由紀子は落ち着いた顔つきに戻り、頭を横に振った。
「私が、あなたから聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
「あなたも感じているの? 胸の奥に、ぽっかりと穴が空いていて、うずいて仕方ない痛みを」
「胸の、痛み……?」
「私は感じている。あの時。悠に会ったときも、アレクに会ったときも。ねえ、何かを愛おしいと思ったとき……紫苑さんは、胸が痛まない?」
紫苑は、胸に手を当てた。人を想えば、ときに暖かく、ときに切なくなることがある。由紀子は、そんな当たり前を聞いているのだろうか。
「由紀子さんは、初恋を覚えていますか?」
「初恋……」
「私に分かるのは、そう。初恋のときの胸の痛みだと思います。くすぐったくて、何かしたいもどかしさがあって、心臓のあたりがさわさわとするんです。由紀子さんがお兄ちゃんと会って胸が痛んだのなら、その時の由紀子さんは恋をしていたんじゃないでしょうか」
由紀子は頭を振って、
「どうにかなりそうに、なる?」
「そうかも」
「殺したくなるくらい?」
「え?」
紫苑を見つめる由紀子の瞳は、真剣だった。紫苑は目を瞬いた。瞼の裏に、先刻の菊本可奈の紅い眼光が刻まれている。無惨なガラクタが宙を舞う光景も。
「由紀子さんは、好きな人を殺したいんですか?」
「これは例え話よ」
「愛憎は表裏一体と聞いたことがあります。お兄ちゃんは殺されたと、あなたはアレクさんに言いましたね。もしかして、由紀子さんがお兄ちゃんを殺した……なんてことありませんよね?」
「だから例え話って言ったでしょ」
「はあ」
真剣そうに聞いてきたのは由紀子の方だ。何だって、自分が話をリードしていると思っているのだろう。紫苑は不快だった。由紀子は、可奈が死んだこの期に及んで、神経を逆撫でする人なのだろうか。紫苑は終ぞ、可奈が兄を殺したとは思えなかったのだ。
「とにかく、好きだから殺したいなんて私は思いません。もう帰ってください。夕飯の用意があるんですから」
紫苑は、ブレザーをぬいでブラウスの第一ボタンを外した。更に袖を捲って、調理の準備をアピールしたつもりだった。だが、由紀子は紫苑に目もくれず、机の写真立てを手に取って呟いた。
「荒川、梗治」と。
「――え?」
紫苑は硬直した。なぜ、この女が梗治を知っているのだ? 赤の他人が、なぜ。
「あなたは、彼が好きなんでしょ」
「へ?」
「その彼を、あなたはどうしたいと思うの? 私が聞きたいのはそういうこと。愛してあげたいの? ただ傍にいたいだけ? それとも、私が思うように、殺したい?」
「由紀子さんが思うように?……いッ!」
紫苑は、言いかかって絶句した。突然、頭が割れそうに痛い。毛細血管がズキズキと脈打つ度に、脳に針が刺されるようだった。耳鳴りがして、思わず膝をついた。紫苑はうずくまって、体の中から爆ぜそうな何かを抑えるのに、精一杯だった。
「ダメ……!」
吐き気が紫苑を襲った。
何かを吐きだそうと腹筋が収縮し、嗚咽とともに咳き込む。
身体が寒い。怖い。
紫苑は、震える左手でふくらはぎに触れた。
感触が分からない。
右手で触った。
足は、氷のように冷たかった。
まるで凍傷で壊死したようだった。
すでに無い物に触ったような気味悪さ。
また咳き込んだ。その瞬間、重機の轟音がした。
幻聴だ。これは、幻聴だ……!
頭では分かっているのに、大型粉砕機が出すエンジン音と、全てをすり潰す鋼鉄の歯のキュリキュリという鳴き声が頭の中で響いて、止まない。
紫苑の温かい両足が、熟れた葡萄をジュースにするように潰れていく。
葡萄の一粒一粒が紫苑の足で、それが弾けてジュースになる。
「助けて! 助けて、梗治……!」
幻聴の中で、紫苑は叫んだ。途端、幻聴が引いた。
紫苑は、閉じていた目蓋を静かに開けた。
――この幻聴は、噓じゃない。あの頃の、十年前の痛みだ。十年前の叫びだ……。
紫苑は肩で息をした。床に跪いたまま、由紀子を見上げる。
彼女は、紫苑の様子を愉しんでいるようだった。
「……由紀子さん。いえ、由紀子。私、思い出したよ。十年前のあの日、私は〈粉砕者〉に両足を潰された。ミックと呼ばれていたことも、あなたに育てられて、自警団にいたことも」
「そうよ。折笠紫苑、あなたは十年前、〈粉砕者〉に捕まった若者の一人。そして私が、冷凍睡眠(コールドスリープ)で保存されていたあなたを蘇らせた」
「どうして……」
「あなたに聞きたいことがあったからよ。そして、あなたの答えは、荒川梗治への恋慕だった」
紫苑には、由紀子の言葉を満足に読み取れなかった。思考を止めて、機械的に問うた。
「そんなことを知って、あなたは何がしたいの?」
由紀子は憂う瞳で、手元の写真立てを見つめていた。
「私は、私を知りたいだけよ」
そう言うと、由紀子は紫苑を見た。そのガラス玉のような瞳が虚しく、何かを求めているようだった。由紀子は自分が分からないのかもしれない――と、紫苑は直感した。
紫苑の甦った記憶が、彼女の瞳に宿る本質的な虚無を積乱雲のように取り巻いている。紫苑の胸のなかで、稲妻のような怒りが唸っていた。
それは、もっとも恨めしい記憶が甦っているせいだった。
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