第三章 眠れる記憶をさまして
第20話 紫苑の動揺
群青混ざりの曇天から、湿る夜風の臭いがした。
まだ目立たない街灯が灯る。
漣のような電車の音が、高架下の闇を歩く紫苑の心を騒めかせた。
――用が出来た。先に帰ってくれ。
そのアレクの低い声が、紫苑の耳朶に残っていた。あの時、紫苑は顔を伏せた。自分がどんな顔をしているか分からなかったし、見せたくもなかった。ただ、私には力がないんだと思った。
仕方ないのかな。
脳裏にガラクタが浮かぶ。あの冷えた金属光沢に、菊本可奈の声は重ならない。可奈の激情も、憂いも、微笑みも、全てが、あの残骸とは嚙み合わなかった。
紫苑は、井の頭公園を過って、住宅街に出た。その中の一軒が、紫苑の実家だった。小さい家だと、紫苑は思う。表札が外されて、空き家と化していた。紫苑は、左腕で強引に扉を開けようとした。さすがに開かなかったので、庭に回った。空き巣がやるように、窓ガラスを石で叩いて破り、割れた穴に手を入れて錠を解いた。不法侵入で実家に帰るなど、望みやしない。しかし、寒い心地を和らげるには、服くらい要る。
紫苑は、自分の部屋に入った。革靴でフローリングを踏む違和感があるが、ようやく帰ってきた。少し埃っぽいが、昔のままだ。ベッドも、枕元のクマのぬいぐるみも、勉強机の写真立ても、洋服タンスも。
紫苑はタンスを開けて、セーターやスカートを取り出した。殆どが、カビを生やし、虫に喰われていた。
紫苑は落胆した。それでも、何とか着られそうなものがあったので、紫苑は制服を脱いで着替えた。重ね着をして、残りの服は、制服と一緒に大きめの紙袋に詰めた。菊本可奈の笑顔とメタルの骨が、ふと脳裏に過る。写真立てと、卒業アルバムも、紙袋に詰めた。写真立てには、事務所と同じ写真が入っていた。
紫苑は、玄関の水玉模様の傘も持って、家を出た。
ぐずついた曇り空だった。
可奈のことが浮かぶ度に、事務所に帰る気になれず、紫苑は学校に向かった。
沙耶たちが居合わせてくれたなら、可奈はああならずに済んだのではないか? 紫苑は苛立っていた。誰にでもなく、自分に怒っていた。冷静を取り繕ったところで鎮まるものでもなく、そのやつあたりに近い気分を自覚しながら、校舎に入った。
校舎の窓から、四人の人影が見えた。その教室に向かった。
教室に入ると、妃沙耶、三条蘭、村山花恋が、各々の手に白いマスクを持って俯いていた。三人の後ろに、ひどく見覚えのある見た目の男が立っていた。ウソ、なんでここにいるの――?
沙耶が紫苑に気付き、じっと目を合わせてきた。
「〈菊花〉が壊れたって、聞いたよ。車に轢かれたんだって?」
「〈菊花〉って、可奈ちゃんのことだったのね」
「ミックなら、可奈を救えたかもね」
「まだ言うの? 私はミックじゃないよ」
「そうね。ミックじゃないから、可奈は壊れた。守れなかったのかもしれないわね」
沙耶はそう言って、紫苑に歩み寄ってきた。
「私のせいだと言いたいの? 沙耶たちは、何もしなかったじゃない!」
「私たちは自警団でしょ。もし使命に則って動くなら、可奈は処分の対象。今日の結果は、喜ぶべきよ。でも、ミックなら……貴女が私たちを救ってくれたミックだとしたら、きっと可奈は助かったはずよ。私たちがそうだったように。ね、ミック」
沙耶は、白いマスクを自分の頭に掛けようとした。紫苑は、とっさにマスクを蹴り上げて、沙耶の手からそれをとばした。
「そんなものでふざけないで。私を見て」
紫苑の言葉に、沙耶がハッとした。男が、二人のうしろにいる、蘭と花恋にマスクを付けさせた。マスクは、能面のおたふくのように白く艶があり、鬼のように深い彫りの双眸は大きく昏く、その意思をかたく閉ざしている。
「染井正化より命が下った」
「これより自警弾は、アレクなる男を抹殺する」
花恋と蘭はそう言った。
「何で――」
「彼は、危険であるという判断からです。正化からの指示があり次第、実行します」
男が、窓から飛び降りて教室を去った。あれもオートメイドだったのだ。
「まて! どうして――」
「紫苑、こっち」
沙耶が、紫苑の手を引いて、廊下に出る。マスクを付けた二人が、持っていた武器を構えていたのだ。紫苑と沙耶は、隣の教室に逃げて、机の高さにかがんだ。
「沙耶? さっきと違ってる?」
「流石はミ……紫苑だね。ごめん、たった今まで、私、正化に操られてたの。あいつ、本社のてっぺんで私たちの行動を全部見てるのよ。で、オートメイドの一体なら、自分でえらんで意のままに操れる。あのマスクは、複数体に、何かしらの命令を強引にやらせるときにつけるもの。他のオートメイドに切り替えたから、今はこの身体は私のだけど、おそらく、正化は今、さっきの男を操っている」
「ねえ、その男って」
「うん。あいつ、下種の極みよ」
「でも、蘭と花恋が無抵抗でマスクなんて、どういうこと?」
「――おそらく、由紀子もいた。そうでもない限り……」
「由紀子さんが?」
由紀子には、プランテッドを無抵抗にする何かがあるだろうか。
「お願い、紫苑。あなたが思い出さない限り、私たち、ずっと苦しんだままなの」
「でも……でも、思い出せない。それに、思い出したところで、もしそれがトラウマだとしたら? 怖がって、何もできなくなったら? この十年の間に何があったのか、私に受け止められるのか、分からないんだよ? 私は、怖いよ」
隣の教室から、二人の足音が遠ざかる。恐らく、アレクを殺すために、街に繰り出したのだ。
「紫苑、私は信じてる。どんなに嫌になっても、貴女なら私たちを救える」
沙耶が立った。
「紫苑、ここにいなよ。私が守るから」
それもいいと思った。しかし、
「ごめん。私は、事務所に行かなくちゃ。アレクが帰ってくるから」
「怖いんじゃなかったの? あいつは紫苑の何なの?」
「私の……何でも屋だよ。きっと、あの二人のことも何とかしてくれる。それに、沙耶は私を信じてくれるんでしょ?」
紫苑は校舎を走った。
沙耶は、頑なにその場から離れなかった。
紫苑はいつもの雑居ビルの前に立った。珈琲店は店じまいで、二階の窓は閉まっている。足元には、三本足のミィちゃんがついて来ている。
紫苑は、自分の腹をさすった。お腹、空いたな。帰ったら夕飯の支度をしよう。アレクだってお腹を空かせて帰ってくるに違いない。それにこの空腹だって、寂寥の一因だと思う。
事務所のドアに鍵を差す。
……開いている?
紫苑は、恐る恐るドアを開け、応接間兼リビングへそろりと歩いた。
机のディスプレイが光っている。紫苑は誰かいるのではないかと警戒しつつ、ディスプレイの前に座った。
画面には、横書きの文書が展開されていた。兄、折笠悠の書いたものらしい。
「お兄ちゃんの、日記?」
初期化されたはずのPCにデータが入っている。机上に金のブレスレットが置いてあった。
嫌な予感がした。しかし紫苑は、寄る辺を求めるように文書を読み始めていた。
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