第17話 焦げた玉子焼き

 ヤカンの笛が鳴っている。ブラインド越しに、朝の光が差していた。

「アレクさん。おはようございます。ご飯、出来てますよ?」


 アレクは、寝床代わりのソファから身を起こした。


 毛布代わりのジャケットからサングラスを取り出して掛けると、膨れっ面の紫苑が目の前にいた。昨夜、自宅から持って来たらしい水色のワンピースを着ていた。


「なんだ」

「……洗顔前にサングラスってどうなんです」


「君に見せる目はない」

「なんでぇー」


「俺の勝手だろう」

「むぅー。せめて瞳の色だけでも教えてくださいよ」


 アレクは「顔洗ってくる」と言って洗面所に行った。紫苑が付いてくるのが分かったが、さっきから部屋が焦げ臭い。アレクは先に歯を磨いた。


 ……後ろに、紫苑の視線を感じる。


 歯磨きを終えると、サングラスに手を掛けた。

 鏡越しに、紫苑の期待に満ちた顔が見える。


「紫苑」

「なんでしょう?」


「焦げてる」

「え……あーッ! 卵焼きっ!」


 紫苑が、どたどたと台所に向かったところで、アレクはサングラスを外した。琥珀色の瞳を睨んで、写真立てに入った十年前の細顔を思い出す。それを払拭するように、水道水を顔にぶつけた。


 今朝は、黒焦げの卵焼きをトーストで挟んだモノだった。


「えと、私、まともにできる料理はカレーだけなんです。あの、気にしないでください」

「ああ。作ってくれるだけありがたいよ」


 二人でいただきますの手を合わせる。それから、昨夜に買っておいた猫用の缶を思い出して、紫苑はまだ眠っているミィちゃんの側に、開けた缶を置いた。


「どうです?」

「菊本さんが戻ってこないことには始まらないなぁ。彼女の家も分からないし」


「そうじゃなくて、いや、それはそれなんですけど、味はどうでしょう」

「ああ。甘いな。好きな味だ」


 紫苑は胸をなでおろした。


「まあ、表面の黒焦げはいただけないが」

「すみません……」


 アレクは、卵焼きサンドを大口で頬張った。早々に食べ終わると、インスタントコーヒーを啜る。


「ミィちゃんは待つほか無いから、あとはオートメイドだな」

「すみません」


「卵焼きのことはもういいよ」

「いえ、そうじゃなくて。私が力不足なばっかりに、アレクさんに助けてもらってて。それが申し訳ないなって」


「そんなこと気にするな」


 アレクがそう言ったものの、紫苑の表情は暗いままだった。


「でも……。私、前にもこんな気持ちになってた気がするんです。力が欲しい。自分の弱さに泣きたくない、って。私は力が欲しいんです。あの殺人オートメイドに負けたくないんです」


 紫苑は両手でスカートを握っていた。


「だが強くなろうなんて、一朝一夕で出来るものじゃない」

「知ってます。だから悔しいんです」


「何言ってんだ」

「え?」


「だから俺に依頼したんだろ? 大丈夫。俺がアイツをとっ捕まえてやる」

「……ありがとうございます」


 紫苑は、瞳を潤ませた。


 アレクの背もたれに掛けたジャケットから、大きな音がした。端末が朝のアラームを鳴らしていたのだ。直後、床がストンと鳴った。紫苑が振り向くと、茶トラのミィちゃんが布団代わりのバスタオルから飛び出していた。


「びっくりさせちゃったみたい」

「悪いことしたな」


 ミィちゃんはバスタオルに戻ると、猫缶をくんくんと嗅いだ。恐る恐る、猫缶の中身を食べ始めたが、すぐに食べるのをやめて、玄関に歩いて行った。


「味が合わなかったのかな」


 紫苑は目元を拭ってから、ミィちゃんの後を追った。ミィちゃんはドアに立って、左の前脚でドアを掻いていた。


「外に出たいの? だめだめ。可奈ちゃんに来てもらわないと」


 すると、ドアがノックされた。


「はぁい」


 紫苑が応じると、


「おはよ紫苑ちゃん。ウチだよ。可奈だよ」


 紫苑は、ドアの凸レンズを覗き込んだ。間違いない。金髪に紫のパーカー姿は、昨日と同じ菊本可奈だった。なぜか、パーカーの前が破けてボロボロだ。紫苑は、ドアを開けた。


「おはよう、可奈ちゃん。その格好、どうしたの」

「えと……なんか破けちゃった」


「なんかって。また誰かに襲われたんでしょ。私の服貸すよ」


 しかし可奈は、腹を抱えて離れた。「いいから、ね?」と可奈は言った。紫苑は鼻息を漏らして言及を止めた。


「そうだ、ミィちゃんここにいるよ」

「え、マヂ?」


 可奈の足元に、ミィちゃんが寄ってくる。


「アレクさんが見つけたんだよ」

「そうなんだ」


 可奈は口角を上げてミィちゃんを見たが、すぐに視線を紫苑に戻した。


「……嬉しくないの?」

「そんなことないよ! だって、また紫苑ちゃんに会えたから」


 その可奈の返しに、紫苑は戸惑った。可奈はすぐにでもミィちゃんを抱き上げて、家に持ち帰ると思ったのだ。一方のミィちゃんが素っ気ないのは、マイペースな猫らしいが……。


「早く連れて帰った方がいいよ」

「そうだね。そうなんだけど……実はウチの家、昨日から掃除中なんだよね。業者さんが今晩までやってて」


「へえ、珍しいね。じゃあすぐって訳にはいかないんだ?」

「ごめんね。紫苑ちゃん、夜まで預かっててくれないかな」 


 紫苑が頷くと、可奈は嬉しそうに笑って、紫苑の手を握った。その瞬間だった。


 ミィちゃんが、可奈の足元を離れて階段を駆け下りていったのだ。ミィちゃんは道路に出て、左に曲がった。その真横を、一台のゴミ収集車が過ぎていく。


「…………ウソ」


 紫苑と可奈は目を合わせた。

 階段下を確かめて、もう一度、お互いを見た。


「…………マヂ」

「やっば! 逃がしちゃ駄目!」


 紫苑はローファーを履いて、階段を駆け下りた。可奈が追随する。

 その外でドタバタするのを聞いて、アレクはソファを立った。玄関に出ると、二人がいない。


 外から「ミィちゃああん」と紫苑の叫び声がしたので、察した。


「やれやれ」


 アレクは後頭部を掻いた。追いかけねばなるまい。だがアレクがドアを閉めると、その裏に人影が立っていた。菊本可奈? 違う。丹波さんでもない。スラリとした白い姿だった。


「由紀子……! なぜここに?」

「私も紫苑ちゃんに用事があったんだけど、それどころじゃなくなったみたいね」


 白い装いをした由紀子の面持ちはシリアスに思える。それがアレクの癇に障った。


「君は菊本さんの何なんだ? 二人は会わせちゃいけないんじゃなかったのか?」

「まあ落ち着いて。私は引率者。で、可奈は私が管理しているモノ。それだけよ」


「……モノ? じゃあ菊本可奈は〈赤線〉が管理しているモノだと、君はそう言ってるのか?」


 由紀子は頷かなかったが、否定もしなかった。


「でも、あの子はもう限界ね。やっぱり、元から不安定な子をモデルにしてはならなかった」

「モデルだと?」


「アレクさんには教えましょうか。もう隠すこともないでしょうし。菊本可奈はね、プランテッドなの」


 こうもあっさりと、由紀子は言い放った。あれは、マシーンだと。


「……分からないな。君の言ってることが」

「あれがプランテッドよ。人間そのものでしょう? 会話をして、仕事をして、それなりの欲求を持っているのだから」


「欲求ってのは、猫を可愛がることか?」 


 由紀子は首を横に振った。


「可奈にとって、猫は代わりに過ぎない。あの子の欲求をちゃんと満たしてくれたのは、ミックよ」


 アレクはまた後頭部を掻いた。紫苑が言ったではないか。「私、ミックって呼ばれたの。でもミックって誰よ」と。そうだ。ここでもミックだ。可奈も、沙耶も、ミックという人物を頼っているのだ。


「その、ミックって何なんだ? 君や、色んな人から聞くんだが」


 アレクが訊くと、由紀子は腕を組んで黙った。


「何か言ったらどうなんだ」

「紫苑のあだ名みたいなものよ」


「はっきりしないんだな」

「私だって、はっきり言いたいのよ」


 由紀子は二人の行方を気にしてか、階段下に目を遣っていた。


「とにかく言えるのは、可奈が紫苑といると何が起きるか分からないってこと」

「だからなんでだ」


「可奈は、寂しさが頂点に達すると人を襲う。それに、自分と関わりを持った人をもう一度振り向かせようとして、殺す」

「……馬鹿な」


「そう。逆恨みもいいところでしょう? でも本当よ」


 由紀子の呆れ方は、事態を他人事としてみたような言い草に思えた。尚更に腹が立つ。


「だったらなぜ止めない? 管理者の君には、暴走するマシーンを止める義務があるはずだ」


「無いわよそんなの。……十年前の事件を知ってる? テロリストが無差別に人間を殺したとき、虐殺に使われたのはマシーンだったの。自動車をもすりつぶす大型粉砕機が、テロリストの際限ない暴走を助長した。吉祥寺の下水道には、糞尿に混じって五臓六腑と骨皮のジュースが絶えず流れていったの。私は嫌よ。オートメイドの巻き添えなんて。可奈の殺人は、単なる機械の暴走とは違う。本来、意志ある者がそれを捨てて、腹をすかせた野獣のように暴れるだけ。そんなの自己責任でしょう」


「もういい。君の責任逃れなど聞けるか。俺は二人を探しに行く」


 アレクはそう吐き捨てた。行こうとするアレクの腕を、由紀子は咄嗟に握った。


「どうして? あなたも暴走に巻き込まれたいの?」


 由紀子の瞳は震えていた。ここで待てばいいとでも言うつもりなのか。


「殺人オートメイドだろうが暴走だろうが、そんなのは関係ない。今は十年前じゃないんだ。殺人事件が起きるなら、今日ここにいる俺が止める。それだけだ」


 そう言って、アレクは由紀子の手を振り払った。

 階段を駆け下りて、右に曲がる。


 アレクはただ、二人を追った。

 由紀子が、後ろから何か言ったような気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る