第16話 菊花

 ※


「お願い。今夜は離れないで。一緒にいて……」 


 それが、源氏名〈菊花〉の殺し文句だった。

 客の多くは、それをリップサービスと思いながらも、その言葉に酔いしれて一夜を過ごす。

 だが〈菊花〉にとって、それは本当の気持ちだった。温かな身体に触れたときの安らぎ。自分だけを見据えた眼差し。しかし、何も感じない身体。

 それが寂しくて、「離れないで」と言ってしまう。

 今日の客にも、同じように言った。


「お願い。今夜はずっと、一緒にいて……あっ」


 しかし、客は〈菊花〉の手を振りほどいて服を着ようとしていた。


「いやだよ。君、右手が故障してたろ。ロボットの癖にさぁ。メンテはちゃんとやってないの?」

「私……ロボットじゃありません」

「ロボットもオートメイドもなにが違うんだよ」

「…………」

「じゃ。金は置いとくから」

「…………」


 消灯された部屋の中で、〈菊花〉は沈黙した。


「うん? 仕事だろう。客にありがとうも言えんのかこのロボットは」


 掛ふとんのずれる音がした。一歩、一歩と〈菊花〉は客に近づいた。


「なんだ――うっ!? あああああああああああぁぁぁ……!」

「助けて。私、寂しいの。お腹が空いてるの。切ないの。寒くないのに寒いの。助けて。お願い………」

「や、やめろ! 俺は客だぞ! 客に嚙み付くな……がああっ!」


 がんっ。ぐちゃ。ぬちゃあ。

 べちょん。びちゃ。びちゃびちゃびちゃ。

 ぱくぱく。

 もぐもぐ。

 ごっくん。

 げろげろ。


「…………」


 ぱくぱく。ぱくぱく。げろげろ。げろげろ。

 皮膚を裂いた。肉を噛んだ。血を啜った。骨を砕いた。吐いた。

 客は、黙ってしまった。

 〈菊花〉は、部屋のシャワーを浴びた。口をゆすいだ。

訳もなく「寒い」と呟いた。

 部屋に戻ると、電気が点いていた。背の高いすまし顔の女性がいた。


「あなた、また散らかしたの」

「うそ。ウチ知らないよ? でもいいぢゃん。生ゴミって、粉砕機で抹消するんでしょ」

「あなたがこうならないように、ミィちゃんを用意してあげたのに。ミィちゃんはどうしたの?」

「何か逃げちゃった。ねね、ウチお腹がすいたの。由紀子さん、何か食べるものないかな」


 〈菊花〉は、無邪気な子供のようだった。


「そうね。隣の部屋が空いてるから、そこを使いなさい。新しいお客さまがいらっしゃるから」

「うん。分かった。あ、あとね、ミィちゃんは明日、友達と探すね」


 〈菊花〉は鏡台に置かれた札を取ると、小柄なバスローブ姿を弾ませて隣の部屋に向かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る