第12話 ミックと自警団

 紫苑は、沙耶に手を引かれて学校に着いた。


 駅前の繁華街から歩いて五分ほどの、都道沿いにあるキャンパスだった。紫苑には確かに覚えがあった。今は、学生がこぞって集う時間だろうに、人気がない。


「私たち、いつもここで集まってたんだよ。ミックと私、それと、花恋と蘭。私たちは、〈赤線〉の自警団だったの」

「自警団?」


「そう。プランテッドから、常軌を逸した者や脱走者が出たときに、そのプランテッドを捕らえて抹消させる戦士の集まり。この廃校舎が、わたしたちの集合場所だった」


 紫苑は高校の校舎を見上げた。

 

 記憶の中では、自分はつい最近までここに通っていた。その四階建ての校舎の窓には、一つの人影もなく、教室の灯りもない。校庭の隅の雑草は腰の高さまで茂り、運動部による手入れも全くないようだった。


 耳朶を打つ風がやむ僅かな間に、ぽつねんと建つセピア色の校舎が紫苑の心に分け入って、鮮やかな記憶を枯らしていくようだった。


「どうかな、ミック?」


 沙耶がそう言う。今の紫苑に、この景色は受け入れがたい。


「……ねえ。ミックって誰なの」


 紫苑の声は、知らず震えていた。


「ミックは、私の、私たちのヒーローだよ。あなたは、私のような辛い思いをしている子たちを助けてくれた」


 沙耶の言い方には虚飾や誇張はなく、紫苑が横にいることに安らぎや喜びを覚えているようにみえた。


「でも、私は知らない」


 そう漏らす紫苑に構わず、沙耶は校舎に入った。

下駄箱の間に来ると、廊下から誰かの足音が響いた。沙耶の後に入った紫苑は身構えた。


「沙耶かぁ?」


 足音の方から、女性のざらついた低い声が響く。沙耶は下駄箱から廊下に出て、その方向に手を振った。


「花恋! ミックを連れ戻してきたよ!」

「え? ……マジか! ミック見つかったのか!」


 花恋と呼ばれた女が、沙耶に駆け寄ってくる。

 

 紫苑も、そっと下駄箱から身を乗り出して、彼女を見た。胸元まで伸ばしたライトブラウンの髪はウェーブがかかって豊かに広がっている。緑の瞳が輝くセーラー服の姿は、白人系の女子高生のようだった。


 紫苑は、花恋を確かめると、何かが風を切る音がした。紫苑が廊下の反対側に振りむいた瞬間、紫苑の額に何かが勢いよく貼り付いた。


「いっ!」


 紫苑がのけ反ると、貼り付いたものの先がぶらんぶらんと振れるのが分かった。紫苑がそれを掴んで額から外すと、ぽん、と音が響いた。先端に吸盤が付いた矢だった。


「決まった……初めてだわ」


 紫苑の十メートルほど先に、澄んだ声で喜ぶ射手がいた。弓道部然とした袴姿は、大和撫子と評するにふさわしい、黒髪の乙女であった。


 左目に黒い眼帯を付けている。寄道由紀子と同じくらい艶のある髪を背中まで伸ばした彼女の手には、背丈くらいの弓が握られていた。


「いったぁ……」

「ちょっと蘭! ミックが更に記憶喪失したらどうするの!」


 痛がる紫苑を庇うように、沙耶が両手を広げる。蘭は小首を傾げた。


「記憶喪失? あら、ミックったらそんなことに?」


 蘭は嫌味のない笑みを浮かべて紫苑に歩み寄り、まじまじと見つめてきた。くっきりとした眉と澄んだ隻眼は、対象を観察するマシーンのようであり、無垢ともいえた。蘭に、


「私のこと、分かる?」


 と訊かれて、紫苑は首を横に振った。


「うーん、そっかぁ。ミックが本調子なら、よけるのもわけないもんね。記憶喪失って、勘も鈍るのかしら」

「しっかし、〈菊花〉を抱き込むのは失敗したなぁ。それどころか、立派な処分の対象だ」


 そう言った花恋は、紫苑の肩をぽんと叩いた。


 「〈菊花〉の処分?」と、紫苑は反芻した。


「そう。三日前に、ミックがいなくなったろ? ちょうどその後くらいに、〈菊花〉の奴が人を殺しだしたんだ。今じゃ立派な殺人鬼になって、巷を騒がせてる。ほら、沙耶も昨日、刺されたろ?」


 紫苑は、昨日駅前に出没したイエローパーカーの殺人鬼を思い出していた。あれが、菊花というのだろうか。というより――


「そうだよ! 沙耶、怪我してたんじゃないの!? 大丈夫!?」


 紫苑は、傍らの沙耶の肩を揺さぶった。沙耶は「ああ」と苦笑して、ブラウスをまくり上げた。沙耶の白い脇腹に、半透明のテープが貼られている。そこには一滴の血も、桃色の腫れや爛れもない。


 まるでカッターで切った紙をもう一度セロハンテープで繋いだような、奇妙なお腹だった。


「ミックは覚えてないだろうけど、このくらいの傷は、よくあることだよ」

「本当に大丈夫なの? 止血とか、消毒とか、ちゃんと病院でしたんだよね?」


「病院……といえば、病院なのかなぁ。ほら、いつものことって言ったでしょ」

「そんなノリでつける傷じゃないでしょ!? 私たち兵隊でもロボットでもないのに……」


 紫苑がそこまで言うと、三人はそれぞれに困ったようなしぐさをとった。沙耶は顔をそらし、花恋は、蘭に目を遣って、蘭は首を横に振った。


「どうしたの、みんな」

「ミック。私たちがどうして自警団をやってると思う?」


 紫苑は黙った。沙耶がブラウスを下ろして、血色の無い腹が隠れる。その白さが、不気味に感じられた。沙耶は、紫苑の目を見つめた。


「オートメイドやプランテッドの犯罪行為を取り締まれる存在は、法律上存在しない。オートメイドは、自動車や家電と同じ機械で、人間じゃない。人間でない以上、警察が彼らを犯罪者として逮捕することはできないの。同時に、機械を破壊してはならないというルールもないけれど。つまり、もしオートメイドやプランテッドが犯罪に手を染めると、ただの暴走機械として害獣駆除のように処分される。ただし、処分できるならね」


 紫苑の脳裏に、殺人鬼に刺されてうずくまる警察官が浮かんだ。


「超人的な存在を処分するには、どうすればいいとおもう? かんたんな話、目には目を、オートメイドにはオートメイドをぶつけるの。〈赤線〉の自警団とは、身内を斬る組織のこと。それが私たち。――私たちは、オートメイドなのよ」


 私たち、という沙耶の言葉に、自分が含まれていることを紫苑は悟った。心臓の音が、繊細な鼓膜の一切を抑えつけるような気がした。紫苑は、何かを請うように紫苑を見つめる三人が、途端に恐ろしくかんじられた。


「だからミック、私たちと一緒に菊花を――」

「やめて」 


 紫苑は、沙耶の手を振り払った。重力が三倍にも感じられる、こんな苦しさ抜け出してやる。


「――そんなの、私は知らない。関係ない! 私は紫苑! 折笠紫苑なの!」


 紫苑は、力任せに三人を振り払って、廊下へと駆け出して行った。


「ま、まって! ミック!」


 沙耶の追いかける声など、紫苑の耳には届かなかった。

階段を駆け上がった。思うまま、息が切れるまで走って、走って、とうとう屋上への扉を蹴破った。鍵が開いていたのか、扉は容易に開いた。春の晴天が広がっていた。


「こんなものっ!」


 紫苑は革靴の踵を潰し、太陽に目がけて蹴り上げた。革靴は放物線を描き、柵を超えて校庭へと落ちていく。いい気味だった。


「こいつもっ!」


 次は左足を思い切り蹴り上げた。革靴は、垂直に飛んでいく。


「うわわっ」


 しかし蹴った勢いで、紫苑の右足が滑った。

 紫苑の視界が九十度上がり、崩れた身体は、背中からアスファルトにぶつかった。紫苑は顔をしかめた。


 そして日輪の眩しさに閉じた目蓋を、じんわりと押し上げた――直後。


「……あぐっ!」


 落下した革靴が、足裏から顔面に着地した。硬いゴム部分が鼻筋を打ち、そのジィンとした痛みに、涙が誘われる。


「はぁあ……うぅん」


――カッコ悪いなぁ私。でも、これでいい。今は、泣きたかったから。


 風がそよぐ。それに溶け込むように、紫苑は独り言を漏らした。


「……私は、紫苑。兄は悠。アレクは相棒。梗治……梗治は多分、好きな人。あれ。梗治って誰だっけ。そうだ。卒アルと写真立てにいたハーフの男の子だった……。今はきっと、外国で偉いお仕事やってるんだろなぁ。十年……十年かぁ……」


 荒かった息が整っていく。胸の辺りの火照りが、汗になって冷えていく。その涼しさは眠気に変わっていった。しこりの取れた身体をアスファルトに預けて、紫苑は革靴をアイマスクにしたまま目を閉じた。


「ミックって、だれ、な、の……」


 この眠りが自分を助けてくれるとは思わない。

 それでも紫苑は、ただ眠っていたかった。


 学校は、高架線路の近くにあった。中央線の行き交う音が聞こえた。近くを走る宅配便のトラックのエンジン音。ゴミ袋を突くカラスの汚れた鳴き声。一瞬、風が止む。紫苑の耳は、不思議なくらい良く聞こえる。


 …そして、この耳は拾った。断末魔と嫌な静寂。それから何か大きな声。風は再び吹き、その中に、昨夜と同じ声が微かに拾えた。


 「……ちゃーん。ミィちゃん……」と。


 そう。今朝別れてしまった、菊本可奈の悲しそうな声がする。ああ。行かないと。紫苑は起き上がり、頭の重さにもたげた首を、ぐるりと回して伸びをした。


 片割れの革靴も柵の外に放り投げて、校舎の階段を駆け下りていった。校庭に落とした両足の革靴を履いて、紫苑は学校を出た。


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