第10話 十年前の写真
紫苑と可奈は、寝室のシングルベッドで一緒に寝ることにした。
少し匂うが、可奈は気にしない様子だった。
二人とも寝間着の用意はなかったので、可奈はその格好のまま、紫苑は下着姿で寝ることにした。
紫苑はアレクの帰りを待っていたかったのだが、可奈が一緒に寝たがった。
布団の下で触れている可奈の身体は、季節外れの冷え性のようだった。
可奈はミィちゃんの話を一通り済ませると、間もなくして規則的な寝息をたてた。
紫苑は、可奈に背を向けた横向きになって、ちっとも重くならない目蓋を開けたままにしていた。忙しい一日であったのに、眠る気が起きない。
部屋の時計が十二時を指した。
玄関から鍵を開ける音がした。アレクが帰ってきたのだ。可奈を起こさないようにベッドを抜け出して、玄関に向かった。照明も点けないで、キャリーバッグを持った巨躯がのっそりと歩く。
「お帰りなさい、アレクさん」
「ただいま。起こしちまったな」
「いいんです。待ってましたから。カレーありますよ」
「俺の分も作ってくれたのか」
紫苑は、えへんと胸を張ってみたが、暗くては分かりようもない。紫苑は台所に行く前に応接間の電気を点け、改めて言った。
「当たり前です。私は、アレクさんのお手伝いをしてるんですから」
アレクは黙っている。
「どうしたんです? もっと褒めていいんですよ」
「……あ、ああ。大したものだと思うよ」
「でしょう?」
「……で、紫苑。その白い格好でカレーをよそるのか?」
「白? ………………あっ」
紫苑も、すこし肌寒いと思っていたのだ。ベッドから出たら寒さを覚えても無理はないだろう。しかし肌寒さには、別の理由があった。
解放感は羞恥心へ。紫苑は、目を閉じて胸を張った自分を後悔した。
へそ出しの白いキャミソール。飾り気のない白いパンティー。
紫苑はそんな恰好だったのだ。
「み、見ないでくださいッ!」
言われるや、アレクは顔を横に逸らした。紫苑は、緩いドアノブをがたがた揺らして寝室に戻り、ブラウスとスカートだけ着て応接間に戻った。
リボンやらブレザーやら靴下などもやっておきたかったが、それよりも早くカレーを出さないと! という焦燥にかられた紫苑は、可奈を起こさないように、しかしバタバタと着替えたのだった。
アレクは「とんだお手伝いだ」とサングラスを押し上げて、カレーの鍋に火をかけた。
「どうぞ」
カレーライスをよそったきり、紫苑は黙ってしまった。
「おう。いただきます」
アレクはカレーを口にした。日本のカレーは久しぶりだった。この香ばしいルゥは、スパイスが舌を刺してくる。
しかし刺激は一瞬で、その後に熟成された牛の深みと溶け込んだ玉ねぎのうまみが口いっぱいに広がって、後には爽やかな香りが鼻を抜けていく。
アレクが一番好きなルゥだった。豚のブロック肉も、寝かせたからか程よい歯ごたえととろけた脂身が素晴らしく、ルゥとの相性抜群であった。
「うまい。うまいぞ紫苑」
しかし紫苑はツンとしていた。
「俺が悪いのか?」
「別に。悪いのは私ですよ。でも眼福だったでしょう?」
「図々しいなぁ」
「何か?」
「何も」
アレクはカレーを食べ進めながら、話を切り替えることにした。こういう時、必要な話題を持っていると助かる。
「菊本さんは寝てるのか?」
「ぐっすり」
「疲れてたんだろ」
「かもですね」
「ミィちゃん、だったか。それについて話は?」
「聞きました。ミィちゃんは可奈ちゃんの飼い猫だそうです」
「飼い猫ね。悪い大人にいじめられなけりゃいいけど」
「そうですね。で、アレクさん」
「何だ」
「どうです? 味は」
「さっき言っただろ」
「あれ、そうでしたっけ」
本当に聞いてなかったのだろうか。
いや、それは問題ではない。単に、紫苑は不機嫌なのだ。
「分かった。もう一回言ってやる」
アレクは、スプーンで多めに掬ってみせてからカレーを頬張った。味わうようにゆっくりと噛んで、少し大げさに飲み下した。
「うまい。俺好みのカレーだ」
紫苑は、視線を下に遣って真一文字に口を結んでから、ぼそりと、
「それは……良かったです」
と言った。
アレクは、紫苑の面が事務机に向かったのを見た。
その視線の先には、伏せた写真立てがある。
「写真立てが、どうしたんだ?」
「いえ。あの、写真は見ましたか」
アレクは首を横に振った。
「お兄ちゃんはすぐわかったんですけど。あとの二人は、どういう人なんでしょう」
アレクは、ソファを立って写真立てを手に取った。見覚えのある写真は、中学卒業時のものだった。琥珀色の瞳の長身は、荒川梗治。真ん中に折笠悠。隣には悠の妹。
頭が重たい。胸の穴が痛む。
目の前に立つ折笠紫苑は、やはり悠の妹によく似ている。紫苑は、二人と年の離れた妹とみていいだろう。紫苑は、兄姉の顔を覚えていないらしい。
「俺にも悠以外は分からないな。女の子の方は君によく似ているから、紫苑のお姉さんじゃないのか?」
知らず、アレクの口調は冷たくなった。
写真の中で笑う琥珀色の瞳の男に、アレクは腹が立った。それは遠回しの自己嫌悪であり、その時の自分が、未だにこの胸に残っていることが嫌だった。
「お姉ちゃん……?」
紫苑はアレクの傍らに寄って、写真の梗治を指さした。
「何か、見覚えあるんですよね」
「面識があるのかもしれないな。この写真は十年前のだ。君が七歳くらいの時に会ったのかもしれない」
「十年前の、写真……」
「君は、兄妹の顔も憶えてないのか」
「……飛び飛びというか、曖昧で。そもそも、私ってどういう人なんだろうって」
「紫苑?」
「すみません。私、アレクさんを我儘に付き合わせてます。私は気が付いたら、この街にいたんです。自分のことも、周りのことも、何にも知らない。いくら強がりを言ったって、アレクさんに縋ってしまう。きっと私、本当は、お兄ちゃんのことなんて二の次なんです。私のことが知りたい。今回依頼したのは――」
「そこまでにしとけ」
アレクは紫苑の癖毛をわしゃわしゃと撫でた。
撫でると言うよりホーローをたわしで擦るような感じだった。
「何ですっ」
「君の私情は、俺には関係ない。俺はただ、親友の死を知りたいだけだ。確かに、今の折笠紫苑は記憶を無くしているのかもしれない。不安なことばかりかもしれない。それでも君は、悠を殺した犯人を捕まえたかった。だから俺に依頼した。そして俺のアシスタントになった。俺にとって君は、それだけの人だ」
ムッとしていた彼女の顔が、少しずつ崩れていった。
安心したような、しかし少し寂しい顔になった。
「私のことは、無関心ってことですか」
「俺がサングラスを掛けているワケが、分かるか?」
「知りません」
「――割り切るためだ。人情で治まることなんぞ、たかが知れている」
「でも、アレクさんは私を助けてくれました。それに、仇討ちはやめろと。どうしてです?」
「それは」
言えるものではない。アレクは後悔をしたくないだけだった。
「私はあの時のアレクさんが、正義の味方とか人情とかそういうものの体現者に思えたんです」
そう返す紫苑の瞳は、輝いていた。十年前の写真に写る彼女のように。その輝きは、今のアレクにはない。
「……冗談はよしてくれ」
「ホントですよぉ」
「好きにしてくれ。俺は残りを食べてるから、君はもう寝るんだ」
「もう。アレクさん、どこで寝るんですか?」
「このソファで充分だ。明日は、殺人オートメイドの調査やるからな。しっかり休んでおけ」
「は、はいっ。じゃあおやすみなさい、アレクさん」
「ん、お休み」
紫苑は手を振ってトイレに入った。
アレクは照明を暗めにしてカレーの残りを食べた。
暫くして、トイレの水が流れた。
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