第6話 私の依頼を受けてください

 ※


 茜と群青を背に、ネオンの星々が天の川となっていた。


 吉祥寺駅の東側には、かつて「近鉄裏」と呼ばれた歓楽街の名残があり、店の灯が、仕事終わりの人々を魅了している。あぶく銭を握る浮浪者が、街灯に吸い込まれる羽虫のように、キャバクラに入っていく。


 アレクはそれを見て、「Easy come, easy go」という言葉を思い出していた。


 店前に、ティッシュ配りをする子がいた。ショッキングピンクのドレスは、胸元や脚を露出させていて、髪を染めて化粧もしているが、まだ小さい子に見えた。


「夜の仕事には早いんじゃないか?」


 そんな小言を止めて、珈琲店にいた女たちを思い返していた。


 彼女らに両親はいるのだろうか。今日は休日だけど、明日は学校に行くのだろうか。それに、由紀子……。由紀子はどこで働いているのだろう。


 ――助けて。


 ふと由紀子の声が聞こえた気がして、アレクは立ち止まった。空耳だ。


 駅前ロータリーに出れば、グリーンジャケットの集団が変身したように、派手な衣装の子が街を歩いていた。


 老人は少ない。子どももいない。駅の西側を、遊び盛りで働き盛りの大人たちが、横丁の酒屋や百貨店へと行き交う。歓楽街の怪しさを離れて、華やかであった。


 

 長い一日も終わる。もう帰ろうか。アレクはそう思うくせに、未だに街を巡っている。十年前の風景を、心のどこかで重ねていた。


 悠と、彼女と、梗治と。


 テストが終わると、いつもロータリーのサーティワンに行っていた。

 本を買うならアーケードや商業ビルの本屋を巡った。


 ラーメン屋はたくさんあったが、小遣いが追い付かなかった。

 終ぞ寄れなかった店は、違う店になっていた。


 そろそろ酒か煙草が欲しくなったので、アレクは潮時だと思った。羽田のホテルに戻ろうか。日がすっかり落ちて、群青を幾重にも重ねた夜空であった。


 商店街のアーケードを抜けてロータリーに戻る――そこに。

 悲鳴が、喧騒を貫いて響いた。


 なんだ。


 人々は固まって悲鳴の先を見遣り、逃げた。

 アレクは人波に逆らって走った。十年前に見た動画の悲鳴が、頭を過る。


「邪魔だ、どけ!」


 アレクは、携帯端末を構える野次馬を、巨体で伸して進んだ。


 アレクのサングラスに、鋭利な光が跳ね返る。それは十メートルほど先に見える、ナイフの刃だ。フードをかぶった小柄な影が、それを握っていた。


 その傍らに、誰かがうずくまっている。白刃は、赤黒い血を伝わせて次の狙いを捉えた。癖毛の女子高生が竦んだ。あの癖毛は――紫苑という子じゃないか!


 奇声を発した殺人鬼の影が、紫苑に跳びかかる。紫苑は身を縮めた。その光景が、アレクの胸の穴をどくどくと疼かせる。


 十年前のあの時、なぜ彼女は殺されたのか。


 亡き友は、答えた。

 無差別殺人だった、と。


 あれから十年だ。今の俺に、どうしようもないとは言わせない。

 アレクは迷わず地を蹴った。


 目の前の危機を救えなければ、胸の痛みは嘘だ!


「助けて――」


 紫苑がか細く叫んだ。アレクのサングラスに写るのは、憎らしく笑む殺人鬼の横顔。殺人鬼は、大仰に振り上げたナイフを逆手に持ち替えると、紫苑へと真っ直ぐに振り下ろした。


 ――俺の目の前で殺人はやらせない。絶対に!


 湧き上がる執念はアレクを二者の間に割り込ませ、気がつけば、殺人鬼の手首はアレクの大きい手に握られていた。


 殺人鬼の小柄な身体を、アレクは力のままに投げ伏せた。ナイフが、殺人鬼の手から離れて転がる。アレクのレザージャケットから、名刺入れが落ちた。


「あなたは……」

「はやく逃げろ!」


「でも沙耶が!」


 紫苑の視線は、うずくまる一人に向けられていた。

 制服姿の項垂れたポニーテールは、珈琲店にいた子のようだ。


 沙耶に気を取られた隙に、殺人鬼の腕がアレクの手からスッと抜けた。

 殺人鬼はナイフを拾わずに跳んだ。


 トランポリンでも使ったかのような一跳びは高さ五メートルを優に超え、野次馬を容易く飛び越えた。血塗りのパーカー姿が、吉祥寺駅前を曲芸のように跳び回り、瞬く間に現場を去っていった。


 行ったぞ! 追え! 物好きや警官が殺人鬼を追っていく。


 ――あれが、由紀子の言っていたオートメイドなのか。


 アレクは悔しさを握り拳の震えに委ねて、再び沙耶の方を見た。しかし、


「消えた……?」


 うずくまっていたはずの沙耶が、いなかった。

 アレクは、よろめいて立つ紫苑を支えた。


「怪我は無いか?」

「大丈夫です。……沙耶は!」

「いなくなっちまった。沙耶って子は刺されたのか」

「そうかもしれません。私が襲われそうになったとき、沙耶が私を突き飛ばしてくれました」

「確証はないんだろ?」

「でも、そのあと……」


 紫苑が見遣る先に、腹部を抑えて横になる警察官がいた。他の警察官が彼の応急処置にかかっているようだ。遠くから救急車のサイレンが近づいていた。


「連絡は?」

「スマホ持ってないんです」


 焦る紫苑の肩に、アレクは手を添えた。


「心配するな。きっと無事だ。探すなら俺も手伝う」

「帰るんじゃないんですか?」

「あれを見て、帰れるか。悠を殺した奴だって……」

「殺した?」


 アレクは閉口した。由紀子が教えたことを、あっさり漏らしてしまった。


「いや、君は関係ない」

「じゃあ、やっぱりアイツが……」

「え?」

「私、関係あります。大ありです」


 紫苑の手には、さっき落とした名刺入れがあった。紫苑は一枚を取り出して英字を読み上げた。――鉄腕代理人マイティ・エージェント アレク《Alex》。


「代理人……?」

「まあ、何でも屋ってところだ」

「何でも屋……」


 紫苑は名刺入れを返すとアレクに向き合い、彼の両手を掴んで、胸の前に引き寄せた。サングラスの仏頂面に、幼さの残る顔を寄せてくる。


「私は、折笠紫苑って言います」


 アレクはどきりとした。


「折笠……。折笠だって? じゃあ君、悠の親戚か」


 紫苑は首を横に振った。じゃあ、何なんだ。紫苑は、一つ息を吸って、ハッキリと言った。


「私の依頼を受けてください。私、お兄ちゃんの仇を取りたいんです!」


 紫苑の瞳は輝いて、アレクには真剣そのものに見えた。昼間の態度からは想像できない。


「お兄ちゃん……だって?」


 悠に、こんな歳の離れた妹がいたとは知らなかった。言われてみれば、十年前の彼女に似ている気がする。目立った違いは癖毛くらいだろうか。


「ダメだ」

「どうして!」


「これまで、悠や君の姉さんが無差別殺人に遭ってきた。君まで危険な目に遭わせるわけにはいかない」

「家族なんていません。私は一人です。そう。天涯孤独なら、いっそ刺し違えても犯人を捕まえ――」


 アレクは彼女の両肩を掴んだ。


「仇討ちなんて考えるな」

「だって……!」


「復讐を果たしても虚しいだけだ。君は安全なところで、殺人鬼が捕まるのを待っていればいい。警察や俺が捕まえれば万事解決、そうだろ?」


 紫苑は頬を紅潮させ、唇を噛み締めてから怒鳴った。


「でも……。でも、何もしないなんて嫌! 私が犯人を捕まえたい! だから――」

「違う! 俺が遭わせたくないんだ。この街で、もう誰も失いたくない。俺が帰ったらどうなる? 君や君の友達は!」


 途端。紫苑の見開かれた瞳は涙に光を湛え、一縷の想いが頬を伝い落ちた。


「じゃあ私を守ってよ! 私を、一人にしないで……!」


 紫苑の小さな拳が、アレクの胸を叩いた。

 彼の胸板に額を押しつけて、紫苑は泣いた。泣き続けた。


 その紫苑の涙が、アレクのぽっかりと空いた胸に染み入るようだった。

 大切な人を亡くしたのは、紫苑も同じなのだ。


「……ごめんなさい。お金は出せないけど、犯人捜しの手伝いをさせて……」


 紫苑はアレクの胸から離れ、恥ずかしがるように袖で涙を拭く。

 アレクの言葉は、自然と決まっていた。


「好きにしろ。報酬は、あいつから貰うさ」


 十年前の彼女が見たらどう思うのだろう。

 アレクはふと、そう思った。


  

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